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江戸時代の土嚢について知りたいです

江戸時代に、治水工事などで使われていた(と思われる)土嚢は、どんなものだったのでしょうか? 材質や形状が知りたいです。 江戸時代の土嚢の写真が見たいのですが、江戸時代にカメラで撮影していたはずはないので無理ですね。。。 がんばって想像しても、時代劇などに出てくる米俵しか思い浮かびません。米俵に土を入れて使っていたのかなあと推理しているのですが、まったく確証がありません。 どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えてください。お願いします。

  • viol
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  • m-jiro
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回答No.1

叺(かます)を使ったと思われます。 これはわらで編んだ莚(むしろ)を2つ折りにして袋にしたもので、下記に写真があります。 http://homepage3.nifty.com/tkumagai/kamasutyuumon.html 小生も子供の頃(昭和30年代)には叺で作った土嚢を道路工事の現場などで見た記憶があります。昔はビニール袋などありませんから、何を入れるにもこんなものを使っていました。農家に限らずどこの家にも空っぽになった叺がころがっていたように思います。 次は叺で作った土嚢を水害の際に使ったという話。 http://rsy-nagoya.com/wisdom/tiiki/tiiki11.html

viol
質問者

お礼

おはようございます。 わー!びっくりです! 「叺」という言葉は初めて知りました。 むしろというものを袋状に加工して作っていたのですね。 画像を見せてくださったので、やっとイメージすることができました。 道路工事の現場でも使われていたなんて、またびっくりです。 たぶん、藁って、枯れた植物だと思うし、持ち上げた瞬間に破けたりして、中から土がドサーッと出てきそうな、あまり丈夫じゃなさそうな気もするのですが、きっとそんなことないのでしょう。 何を入れるにも使っていたと聞いて、ちょっとわからないですけど、意外と丈夫で便利に使われていたのだと想像することにしました。 いつか、どこかで機会があれば、実物を触ってみたいです。 それから、土嚢を水害のときに使ったというリンク先も、すごく勉強になりました。 竹の先に土嚢をつけて固定して水害を軽減したというイメージがわかないので、「竹流し」で画像検索したら羊羹ばっかりが出てきました。 でも、たぶん、竹で土手をカバーする感じですよね。川の強い流れで土手の土が削り取られるのを葉っぱなどで防いだのだと思います。 江戸時代にも、そのようなことをしていたのかもしれませんね。 すっごく勉強になりました!知らなかったことを知るのはうれしいし楽しいです♪ 本当にありがとうございました☆

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