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「信仰」の由来について

日本語の「信仰」という言葉は聖書翻訳語として有名ですが、もともとは仏教の言葉だったそうですね。しかし「信じ仰ぐ」という読みから受ける印象とは違って、悟りの前に心を清澄にすることだったとか。でも「仰ぐ」というと自分の外の対象を思わせますよね。「仰げば尊しわが師の恩」などと言いますが、日本人にとって「仰ぐ」対象は外なる人格(この場合は「師」の存在)ではなく、自分の心(この場合は「恩」)であり、要するに仏を自分の内に「仰ぐ」という意味が「信仰」の由来なのでしょうか?一説にはパーリー語かサンスクリットかのpasada(「浄信」とも訳されるとか)とかいった言葉の訳語とも聞きますが、中国で出来た言葉ですか?それとも日本人が造った言葉でしょうか?

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  • yanhua
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回答No.1

若干の手持ち書籍とネットの範囲で調べてみました。ご質問に沿って語の典拠と語義のみ。キリスト教での解釈や現代語義での諸相には触れません。 何れにせよ孫引きですのでご承知おきください。 ☆http://hanyu.iciba.com/wiki/120629.shtml “信仰”の語義と典拠・・・中国語資料ですので簡約しておきます。 信仰は、梵語sraddhaの訳語で信心、信解(確信と了解)、信仰。 《法苑珠林》(注参照)の巻九四に“生無信仰心,恒被他笑具”とあり。ここで謂うのは「仏、法、僧三宝が尊び信ずることに対して心から敬服すること」。仏教が修行の初めに強調するのは、堅固な信心を確立し揺るがないこと。すなわち“信、解、行、証”,“信、願、行”など。 ⇒三宝が ’尊び信ずることに対し敬服’ ですから、対象は師ではなく、教義なり神仏そのものが対象と解されます。 なお私見ですが、 後出補足に登場する、  信心とは、未見の事物に対する信念と拠りどころ。  信解とは、確信と了解。  sraddhaの原義b を踏まえると、質問文中の「仏を自分の内に「仰ぐ」という意味が「信仰」の本義」と見てよろしいのではないでしょうか。 *いうまでもなく、仏教とその経典および用語は中国経由で日本に来たものがほぼ全てです(一時の梵語和語同系説による影響は思想と語には及ばない、と考えます)。よって信仰なる語は中国発祥であり、その意味もそのまま伝来したと考えて無理はなさそうですが...いかがでしょうか。 補足. ・pasada梵語と書いておられるのは、バーリ語のようです。 pasadaは鹿の一種。 おそらく正しいのは→pasāda:澄浄, 明浄, 浄心, 浄信, 信仰。 ・梵語sraddha:Sanskrit Śrāddha, also spelled Shraddha.   a.古代インド神話の女神.   b.仏教名詞、仏教の根本原理を固く信じ疑わないこと. ・信仰”概念は仏教訳経者による梵語sraddhaの漢訳に始まる。sraddhaの別の訳語として   “信心”、“信解”の2語がある。  国学数典论坛 http://bbs.gxsd.com.cn/archiver/?tid-311632.html ・“生無信仰心,恒被他笑具”:信仰心なく生きる者は、人に馬鹿にされるのを常とす. ・三宝:仏・法・僧のこと. ・“信、解、行、証”,“信、願、行”については、必要であれば別途お調べ下さい. ・《法苑珠林》:http://baike.baidu.com/view/50779.htm 『法苑珠林』とは、唐総章元年(668)道世( ~683)作。法苑珠林伝、法苑珠林集とも、100余巻。本書は一切の仏経典の索引であり、仏教百科全書でもある。

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質問者

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くわしくお調べ頂き、まことにありがとうございました。

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