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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:釈尊のさとりについて)

釈尊のさとりについて

tumaritou1の回答

回答No.8

前段で言っている事は、心に矛盾を抱えたままでその矛盾を乗り越えていながら、更にその矛盾を乗り越える事の難しさを言っています。 後段では、その『心の矛盾が解消された心境』で語っている事を意味します。 人間は多かれ少なかれ、理想と現実のギャップに悩みます。或は計らいと、真にやりたい事や、なりたい自分とを比較してその狭間で身動きが取れなくなり場合があります。それは人間の脳にその原因が在りますが、その原因を自身で解決する道筋が宗教の本来生と感じます。 キリスト教と言っても、仏教と言っても宗教の根本は『心の矛盾』の解消がその眼目です。簡単に説明するなら人間の脳内には『機能から言って』二つの機能が存在しています。 一つは自我意識という脳の機能です。この機能は『五官から入ってくる情報を』言葉に翻訳してその言葉を通して心に歴史として、或は知識として蓄えてゆく機能です。 その機能とは別に『命の働きとしてその人の生命を維持するために働く機能』として働いている脳の機能が存在しています。その機能の主体は『無意識の意識として』顕在意識たる自我意識とは次元を異にして独立した主体として働いています。 その超越性が判りにくい事を、貴方は疑問として感じています。宗教体験は、頭の理解では到底、到達出来ない事です。 人間の深層心理では、意識と無意識が交替制を取っています。ですがその交替制は大変分かり難くなっています。ですが不安になり易い人や、神経質な人は気がつく場合があります。人間の抱える悩みや、苦しみを抱えた場合その苦しみが頂点に達した場合『二つの意識は心の根底で、二つ存在している場合があります』その刹那二つの意識が出会う場合の事です。 この瞬間を『見性』と言っています。。つまり『悟りを開く』瞬間です。自分自身を悩ませていたものが自分自身の心そのものだった事を知る瞬間です。 この体験後は『心の矛盾』は解消する事を意味します。自分の心は二度と争わなくなると言う意味です。心が飽く迄も静寂を保っていると言う意味ですが、この心境を『涅槃』と表現しています。仏教では『生死の問題が解決する』と言う表現方法です。 キリスト教では『神と会って和解する』と表現しています。どちらもその心的内容は同じです。脳の機能から説明するならば、右脳の意識と、左脳の意識が矛盾や対立や分裂を起して、それを心に感じて苦しんだり、生き難い想いで生きていた者が、二つの意識の間にホットラインが通じて、二度と争う事がなくなるという現象です。 宗教体験といっても、この経験は深層心理学に相当します。宗教体験は『究極の心の癒しの心理学』に相当します。神や仏とは『右脳の意識』です。誰も右脳のない人はいません、従って脳梁を切断した場合自我意識とは別に働いている意識が存在しています。 ですがその意識は、自我意識と共に働いています。五官から入ってくる情報は全てその者からの情報として脳梁から送られる情報として、自我意識は受取っています。計らいを捨てた時その情報が優先される生き方が出来るようになります。 その場合『神の僕となって』自我意識が『自分自身の働きの』下で働きだすという意味です。その場合『力も入れずに、、』生きてゆく事が出来るようになります。自我意識が全てを諦めた時全てが自分の面前で働きだしています。全てを捨てた時全てが『自分の手の中に在る』と言う意味ですが、捨てないと分からない心境かもしれません?

toto77japa
質問者

お礼

『深層心理』ですか。 もっと、勉強しないといけないと思い知らされました。 良いヒントを戴き、ありがとうございました。

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