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新約聖書

新約のエフェソ信徒2:11~16 14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 ------------------------------------------------ 神学徒の友達はその「平和」とはなんだろう?と考えてきりが無い様子。 私はクリスチャンになって間も無いのでそういう疑問は「木を見て森を見ず」的な気がして、どうなんだろうと思います。 そこのところどうなんでしょう。 私が甘いのかな。 誰かコメント下さいませ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • inakamon
  • ベストアンサー率75% (3/4)
回答No.1

聖書の究極的な平和とは神が支配する神の国の平和(この地上の平和とちがって完全無欠の平和で神が支配してる世界にある)を指していますが、この箇所ではユダヤ人と異邦人(神を知らない人々を指す)の間の平和を指しています。私達の住んでいるこの世では常にその対立ゆえに争いが絶えない。キリスト・イエスはその2つのものの性質を持って生まれた(肉にあっては罪を持った人の体、霊は神の霊)。なぜその二つを持ってこられたか?それは人の弱さをも備えて人間と同じスタンスですべてを感じ取る為です。ですからこそ、十字架上では人間と同じ肉の痛みを味わわれ人間と同じ苦しみを味わって、人との隔たりを取り除かれたわけです。 神にとってはクリスチャンだけがすばらしい人間でな く、神を知らない肉にあっても霊にあっても異邦人の人をも神は愛しておられ、その二つの間に平和を打ち立てられたもの、それが十字架です。十字架こそ平和のシンボル、私達の誇りです。 平和はいつの時代でも大切なもの。なかなかこの世はそうはいきませんね。肉の心が表に出ていて。

NAOTAKO
質問者

お礼

よく理解できました。スッキリしました(笑) 神を知っているものも知らないものも、神様は同様に皆を愛しておられるのですね。基本的なことだのに私たちだけが愛されていると勘違いしてしまいがちです。 勉強になりました。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

学術的にとらえて答えるとしたならば、♯1の方の答えが完璧です。ここの箇所での「平和」とはユダヤ人と異邦人との融合です。 あなたの考えは甘くはないのですが、お友達の神学徒さんの求める答えでは無い様に思われます。

NAOTAKO
質問者

お礼

平和というのは神様と人間の関係が結ばれたときにできるのではないかと今は考えています。 お答えありがとうございました。

回答No.2

私はクリスチャンではないのですが、中学から6年間カトリックの学校に通っていて、聖書の勉強、マリア様、キリストについての話をミサやお祈り、聖歌を通じて学んできました。 その経験の中での私なりの考えですが、「キリストはわたしたちの平和」というのは、イエス様がいらっしゃる、私たちのことを必ず見ていてくださるという事を感じていられるという心の平和という事ではないでしょうか? お祈りの時間の牧師様のお話の中です ある人間が自分の生涯を終える時、自分の歩いていた道を足跡という形として振り返ってみると、一番辛かった時期にその足跡がひとつしかなかったことに愕然として、 「イエス様は常に私のそばにいてくださって一緒に歩いてくださっていたのではないのですか?このひとつしかない足跡はなんなのですか?私は結局独りだったのですか」 と訴えたら、イエス様は、 「私は常にあなたの傍にいました。ひとつしかない足跡は辛い時私があなたをおぶって歩いていたのです。だからひとつだったのです。」 とおっしゃったそうです。その人間は最後に心の平和を得て眠りについたそうです。 私はこの話が大好きです。一緒にいてくださるというイエス様自体が私たちの平和なのです。

NAOTAKO
質問者

お礼

私もそのおはなしはすきです。 でも今はなぜか独りぼっちのような気がしています。

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