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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 論理思考をそなえている。)

日本人の論理思考と社会秩序

このQ&Aのポイント
  • 日本人は論理思考によって時制の一致を発達させた。
  • 日本人のおとなしさは社会に論理的な秩序を求めるため。
  • 和の心は市民の交通思想から生まれ、国家形成に影響を与えた。

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  • freulein
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回答No.6

bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。 言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。  ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html  という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。  ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。    と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。  ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。  ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。  もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。  ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように  ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。  ☆ といったところではないかとやはり思われます。  ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。  ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。  ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。  あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。  でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。

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その他の回答 (103)

回答No.34

先の方からの投稿への協力を致します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA 此処の方がDirectoryの内容を詳しく伝えてくれています。 つまり、ディレクトリは間接話法の様な階層構造の事で、 其の中へフォルダやらファイルやら「もが」含まれています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それなら話がつながりました。(PC などにうといです)。  とてもこの主題をすっかり解くことは 一回分の文章ではむつかしいですね。    たとえば アメリカ発の《生成文法》という考え方がありました。(いまもありますか?)  これによれば 文の成分を取り出し基本的なものと飾りのものとを区別し あとは具体的な文例についてそれらの成分分析を ちょうどツリー状にして明らかにしようとしていますね。  ★ ~~~~~~~  つまり、ディレクトリは間接話法の様な階層構造の事で、  其の中へフォルダやらファイルやら「もが」含まれています。  ~~~~~~~~  ☆ というようにだと思いました。  つまり そのツリー状の分析においては それぞれの成分が確かにきちんと互いにつながっていることが分かります。《時制の一致》にしても そのような論理的な連絡が きちんと成分どうしの間で取れているかたちになります。  けっきょく どうでしょう 日本文も生成文法を当てはめて分析するところまでは行なわれているようですが いかんせん 文じたいには――ということはそれを表現する日本語話者じしんには―― 成分どうしのあいだの連絡関係をきちんと意識した痕跡はむしろないようであるのかも知れません。  文の成分分析は出来るが 成分どうしの間での特に論理的な連絡は きちんとは取れていない。おそらく話している途中では或る程度その連絡はゆるやかでよいという考えがあるのかも知れません。  こういうことでしょうか?  話し手は どの言語においてもとうぜんのごとく その言説というのでしょうか 話す文ごとにそれの行為主体として統括する立ち場にあります。いわば文の外で・その背後で 話し出されていく文を――むろん成分ごとに――統括しています。  ただし日本文では 何々ハだとか これこれガだとかのように提示して行くその主題ごとにきちんと統括していたとしても 全体の文としては――ということは 主題どうしの間の連絡具合いについては―― 二の次になっているかも知れません。それで間に合って来たからです。   文は人なり。:このハ格は 主格( S )=ガ格であるが   文は人が語る。:このハ格は 対格(目的語 O )=ヲ格である。  というように融通無碍なようですから 日本語の話し手は 歩きながら個々の主題についても 全体の文意についても――歩きながら――統括するかたちでしょうか?  そうだとすれば それと比べて確かに欧文は 初めにおそらく文意がでなくても 文の構えが全体として統括されて話し始めるということでしょうか? ゆえに時制の一致も それに注意が向けられるようになる。  いやあ どうでしょうか。

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回答No.33

俳諧の様に情緒的な短詩型文学の構成にも、 雄弁な論理思考が必要になっているのでしょうか? そもそも「連歌」には"Directry"構造的な性格が乏しい、と思われますので、 《時制の一致》が誕生しなかったのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ▼ ディレクトリ 【directory】 ~~~~~~  http://e-words.jp/w/E38387E382A3E383ACE382AFE38388E383AA.html  ハードディスクフロッピーディスクCD-ROM記憶装置ファイルUNIXMS-DOSWindowsMac OSフォルダ ハードディスクやフロッピーディスク、CD-ROMなどの記憶装置で、ファイルを分類・整理するための保管場所。  UNIXやMS-DOSで使われる用語で、WindowsやMac OSでは同様の概念を「フォルダ」と呼ぶ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ そもそも「連歌」には"Directory"構造的な性格が乏しい、と思われますので  ☆ なおまだこの意味がよく飲み込めません。ほかにこの性格がある文学の形態は なんですか?  ★ 俳諧の様に情緒的な短詩型文学の構成にも、 / 雄弁な論理思考が必要になっているのでしょうか?  ☆ 表現の主体が 一人の人間であれば――つまり俳諧ならそうですから―― まだ分かりやすいようです。  でもけっきょく およそ言葉による表現であれば それを表現する人間が思惟しそこで推論をみちびいているのですから その思考過程に論理が含まれるのは ふつうのことだと考えられます。  《雄弁》かどうか 《情緒的》かどうかは そのあとの文学的なわざであり 表現主体の意図の問題ではないでしょうか。  ここまでのお話において《時制の一致》という主題を持ち出して来ることは いかにも唐突だと捉えますが いかがでしょう?  

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回答No.32

http://okwave.jp/qa/q6633236.html 上記のページに投稿して頂いている御意見とも関係性が有りそうだ、 と思われましたが、如何でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ次のわたしの文章を見てください。  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  ☆☆(そのNo.2お礼欄)~~~~~   ○(α) わたしは あなたの思想を中身がそのままではリスペクトしないが あなたがその思想を公共の場においても表現するその意志の自由については 誰よりもリスペクトします。   ☆ とやったら どういう用法になるでしょう? これは単なるタテマエとしてのアマテラス語ではなく スサノヲ人間語としても言っていると見てよいと思います。一般的に言って。ただ上っ面だけの言葉ではないと思います。  まづ考えられることは このリスペクトの事例は 《和》の主題と案外重なっていると言ってよいのではないでしょうか? 相手の存在とその自己表現(その自由)を互いに保証し守ることは リスペクトの内容でもあり 和のとうとび目指すところでもありますよね?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(α)の事例は おそらくそのまま西欧の歴史的な思想の系譜に合っていると考えますが しかも 互いに互いをとうとび共生するという和の思想についても あまり表現されることもないようですがそれにもかかわらず その基礎を成しているとわたしは考えます。  そうしますと――それに対する批判は起こしていただけばよいと思いますが そうしますと―― たとえば  ★★ 要素還元論  ☆ だけだとは必ずしも言えない。なぜなら そのふたりの互いに対立する対話の過程において 要素としても捉えられるところの個人とそしてその全体としての情況とその両方を見ているからです。  ○ 「木を見て森を見ない」ではなく あるいは「森を見て木を見ない」でもなく 《木を見て森を見ている》。  ☆ と考えられるからです。    もしこうだとしますと   ★★(【Q:「森を見て、木を見ない。」】趣旨説明欄) 『自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は、 / 果たして既に可能になっているのでしょうか?』  ☆ これは 《森を見て木をも見る》そのあと 《自然との関係》において それへの《没入》もあればあるいはそうではなくそれとの対立ということもある。こう考えられます。  ★★(同上の質問・No.5補足欄) 『和(自己主張を慎み合う調和)を以って尊しと為す』、という発想  ☆ 同じく初めからの推論にもとづくならば このお考えもやや違うのではないかとわたしは思います。  1. 《自己主張》ないし自己表現を互いに尊重し合います。  2. ただし 権威者ないし権力者つまりは一般にお二階さんもしくはそれ相当の人物がいる前では 《空気を読む》ことが往々にしておこなわれ 自己の考えを持つこともあるいは発表することも決して控えなければならないわけではないけれど その空気の支配者こそが《相手の思想の表現の自由をみとめない〔傾向にある〕》ゆえ 控えることがある。  3. 《つつしむ》というのはむしろ おのれの考えがまだまだ洗練されていないことを畏れて 相手やみんなの考えに耳を傾けますと言っているその態度のことだと考えます。  4. 以上のように 木でもありつつ木を見て森をも見る。そこに調和を捉えようとする思想(生活態度)だと考えます。  ★★(同じくそのNo.3補足欄) 唯物論的な「相対無」』 / 『東洋思想的な「絶対無(NULL?)」  ☆ 唯物論は 目に見える(科学の目に見える)質料(モノ)を究極の何ものか(《物自体》)とするのではなく つまりは《相対的な存在としての有》を人間には捉え得ない何ものかとするのではなく 《絶対としての物質》をそれとする思想です。《物質》とは 物の怪であり けっきょく言うとすれば《絶対無》のことです。これを《第一原因》と見る一種の信仰です。  つまりは唯心論は この第一原因に《精神(世界精神)》を置く見方であり 信仰です。むろん精神と言っていますが 《絶対無》と同じであり 《絶対有》と言っても同じ何ものかです。  つまりは 大雑把に言って 唯心論は 有神論であり 唯物論は 無神論であり どちらも非思考において第一原因を想定する信仰のかたちです。  絶対無は 《欠如》とも言われます。  ★ 連歌  ☆ は分かりません。なぜこの場へ 連歌を主題として持ち出して来るのかが分かりません。  一句ごとに別の人間がその表現主体となっているわけでしょう? 表現者としては 一人の人を取り上げるのでなければ その表現について批評することもむつかしい。  ただし 作品としては 合作のごとき全体としての連歌が取り上げられるのでしょうか?

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回答No.31

「和を持って尊しとなす」考え方は、論理思考に相反していますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 さくらいみさとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。おおきくひろい主題として問い求めておられると思いますね。その問い求めの一端を ちょっと別の角度からわたしなりに述べてお応えとします。  (1) 《和》とは何か?    韓国の人たちが 安寧(アンニョン)ですかと表現して こんにちはを表わします。ユダヤやアラブのセム系では 平安(シャローム・サラ-ム)を!と言って あいさつします。  そのように おそらく世界の人びとはどこでも誰でも やわらぎを持ったやすらかな生活の共同をもとめているし そのように生きようとしていると考えます。  定義したことにはなりませんが そういったナラワシがあるということは 定義すべき中身が 現実にあるということかと考えます。  (2) サラ-ムを!とあいさつするイスラームの信仰とは何か?  ▲(2-1)(アブラハムの信仰) ~~~~~  〔ムハンマドは 『聖書』の話を受け継ぐ限り〕ユダヤ教徒の主張に反論するだけでは彼らを説得できず かえって彼らからムハンマドの主張は ユダヤ教の模倣だと反駁された。  そこでムハンマドは モーセよりもはるかに古く アラブにとっても民族の始祖とされるアブラハムの意義に注目し 彼こそ一神教の信仰心あつい預言者で 《純正な人》であり 《神に帰依する人(ムスリム)》であり 彼の信仰は神にたいする絶対的な《服従・帰依(イスラーム)》であって ムハンマドの説く宗教とはアブラハムの宗教 すなわちイスラムであると宣言した。       (『コーラン』2・124藤本勝次ら注 )  ▼(2-2)(クルアーン(コーラン) 4・125)~~~~~  宗教ということになれば 善行にはげみ 自分の行動を神にゆだね 純正の信者アブラハムの教えに従う者にだれがまさるであろうか。神はアブラハムを友となしたもうた。       (藤本勝次ら訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (3) 前項(2-2)の説明  《宗教》は 子音三つの構成として《D-W-N》から成る語であり これは 動詞として《告白する》の意があります。  《純正の信者》のうち 《純正な人(HaNiiF < H-N-F)》は その三子音の語として《認める・認めさせる》の意です。  《信(信仰)》は どういうわけか《倦む・疲れる》の意もある《ことば・語る(M-L-L)》という動詞と同根です。  そういう形に仮りに基づいて この(2-2)のくだりを 次のように 解釈したことがあります。  ○〔(2-2)の解釈例〕~~~~~  〔自己存在の〕告白(D-W-Nからなる語≒《宗教》)〔の表現〕にかんして美しい(=正しい。(H-S-Nから成る語)〔と思われる〕者は誰か。  自己の顔(=行動・意志)を アッラーフ(唯一の神)に 〔そうすることが健全・安寧(S-L-M)であるとして〕ゆだね それが美しくあり 〔そして〕この信仰(M-L-L)からはづれる者がいれば それを 〔話し合いを通じて〕認めさせる(H-N-F)者としてのイブラーヒーム(アブラハム)に自ら従う者のほかに〔誰がいるか〕。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (4) 前項(2-1)の説明  《 S-L-M 》という三つの子音から成るかたちの語は ヘブル語でもシャロームと挨拶するかたちに現われており この挨拶はアラブ語で《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》と言うのと同じです。どちらかが訛っているだけです。  イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《〔やすらぎへ〕身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。  その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れてわたしは〕 すこやかならしめられた( muSLiM < S-L-M )》というわけのようです。ムスリムの初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞です。  (5) イスラームとしての非思考(信仰)や それにもとづきムスリムらが互いにサラ-ムをと挨拶するのは 論理思考を逸れていない。  と考えます。もし数論としての論理でないとしても 人間論理である。こう考えます。  (6) ★ 「和を持って尊しとなす」考え方は、論理思考に相反していますでしょうか?  ☆ どうでしょうか?  ただし この命題を ただ単にあたま(=アマテラス概念ないしアマテラス人格語)によって人びとの上からたまわっても ありがたくもおもしろくもないのでは?   アマテラス人格語(ないし科学語)は 精確でしょうが 骨だけであって血も肉もない。それらがあるのは あやまち得る生きたスサノヲ人間語でしょう。

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回答No.30

「秩序」の構成には、『「例外」の排除』が伴ないやすいので、 それと「調和」とは異なっていませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 まづ《秩序ないし秩序作用》は その前回述べたのは 《身体=精神》としての記憶行為のそれです。主観内面におけるものを言ったまででした。  ですから その内面の秩序に合った意志による自由な選択が 外面における行為としてなされる場合もあれば――つまりそれを ふつうのコトと見ますが―― 秩序に逆らって《自由に》選択する意志行為も出て来ます。  このようにおのれの記憶野における秩序に逆らって――ということは わが心に逆らってということと同じ意味ですが――取る意志の選択は まづおそらくは確かに自分の嫌いな人間を世間から追い出そうとするでしょう。組織の隅っこに・あるいは社会の周縁に追いやります。仕事や職から干そうとします。  つまりは 広くいぢめの現象であり ときに《第三項》とも言われたりする《例外》をつくることであり その例外者のさらなる排除に行き着きます。  むろん  ★ それと「調和」とは異なっていま  ☆ す。つまりは 心の内面における秩序(心がやわらがしめられていること)としての調和があり そこからのなお内面における思惟やそしてそこから外面に出る自己表現の行為としては 調和にもとづいておこなう意志行為もあれば そうではなく それらの秩序や調和にさからって意志する・秩序を乱す行為もがあります。  あとは 話し合いです。対話の過程です。とことん 民主主義の井戸端会議です。どこまで行っても 話し合いです。なおも話し合いです。まだまだ話し合いです。ですが 話し合いです。いい加減 話し合いです。それでも 話し合いです。インタスサノヲイストのそういう意味での――人と人との中立的な関係もしくは間合いとしての――愛です。  どこまで行っても 愛です。話し合いが出来なくても 間合いを取るというその愛です。すっぽんのごとく――ただし間合いを取りつつ―― 話し合いから離れません。

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回答No.29

「時制の一致」の考え方が応用されて、 FileのDirectoryが出来上がっています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ File の Directory  ☆ って?

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回答No.28

『「我思う故に我有り」と我妄想せる故に我有り』と我考ふ故に…!?

bragelonne
質問者

お礼

 《われ あやまつならば(欺かれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》を参照してください。  次のわたしの投稿をごらんください。   *  《主体》についてでしたら それはまづ基本として 近代も中世もそして古代も 区別がないというところから出発する必要があると考えます。  デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。その点を 参考までに お伝えしたいと考えました。  認識の主体について 以下のような議論が出来るかと思います。  アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   * 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力    を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ・・・(ニ千字にて省略です)・・・  ⇒【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】回答No.6&8&9です。  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html

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回答No.27

「縁起」を重んずる発想にも、「秩序」志向性が必要なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 縁起あるいは縁起共生さらにあるいは空観 これはわざわざ《発想》として想起するかたちの思惟であったり理論であったりするのではないと考えます。  《ものの見えたる境地》 おのぞみなら さとり の問題だと思います。  その境地にはすでに――人間の自然本性として――《秩序》もしくはそのすでに作用じたいとして秩序過程が そなわっている。こう捉えます。  秩序作用とは すでに神経組織などなどとしての自己組織化と言うのでしょうか 要するにわが記憶という行為能力にそなわっているそれです。  記憶能力による秩序作用は 知解したものごとの知識や情報の整理整頓といったことにとどまるでしょうが したがって人はそこからさらに《秩序についての志向性》を意志による能力行為として 実際には持つ必要があるということかも知れません。知れませんが もしそう言うとすれば そのときには・そのときにも 記憶行為にすでに意志行為の基礎が据えられていると言ってのように すでに秩序を志向したかたちでわが意志の自由な選択がはたらくと考えます。  むろん 自由意志ですから その記憶行為の作用にさからう場合もあります。  秩序立った真善美ではなく その整合性などをいちど壊してしまって もっと刺激的なものごとをわれは意志するのだという場合が出て来るでしょうね。  縁起共生は このアンチテーゼをもあたかもわが身に引き受けて 社会的な錯綜構造の中で おのれの自己表現をつうじて《自由》を模索します。むろんそれは 試行錯誤の道をたどります。  インタスサノヲイスト 団結せよとなります。それは 見えざる絆であるはずです。境地ですから。

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回答No.26

階層構造の違いに特徴が有るのでは…

bragelonne
質問者

お礼

 それは 要素還元型による分析の 場合でしょうね。  わたしは 人間の―― 一人ひとりの・つまりはおのおのの《わたし》の――自由意志のはたらく思惟や行為について考えるかたちです。  その単位体としての主体行為が互いに・そして寄り集まって社会的に錯綜構造をかたちづくるその力学についても 考えます。  ★ 階層構造  ☆ というのは この社会構造のことを言うのではないのでしょう? 自然科学による――要素還元主義的な――観点や位相が階層を成しているその構造のことでしょう? わたしは 褒めたことではありませんが それには関心が薄く 実際その知識がとぼしい者です。あしからず。

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回答No.25

http://okwave.jp/qa/q6622229.html 先生は此処にも投稿されていますね。 でも私が其処への投稿を試みるべくクリックを致しますと、 質問者による遮蔽が…。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 【Q:現代における審美の可能性】・・・質問者による遮蔽が…。  ☆ 質問者さんがはっきりとそういうきびしい方針であると言っていますよ。  普段のおこないが肝心ですね。  それには 普段からの心がけが大事です。  わたしは 一連の《・・・もが》なる文体の御仁に対しては すでに基本的に対話としてはブロックしています。  ズボンか服をさらに引っ張られたら それなりに答え返しているだけです。  どうすればよいか ですって? ――へっ へっ へっ。

bragelonne
質問者

補足

 医者でも教師でもないので 先生はおかしい。

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    論理的という言葉の意味について、特に決定的な定義が見つからないので、自分で考えてみました。 この解釈はおおむね正しいと思いますか? また、間違いやズレがあればご指摘をください。よろしくお願いします。 論理とは、何かを正しいと認めることから派生する法則のことである。 論理以外の法則として物理がある。物理は存在そのものによって現れる法則である。 つまり、論理=論(言葉)の理(法則)。物理=物(存在)の理(法則) たとえば、「すべての物体は重力の影響を受けて下に落ちる。(A)」といったとき、「Aだから、目の前のペンも放り投げれば落ちる」という構成は論理的であり、実際に物が落ちるのは物理的である。※物理は論理の影響を受けない。引力の法則(論理)が存在しなくても物は落ちる(物理) 言い換えれば、論理は物理を組み合わせて作られた法則である。 さらに、論理が間違うことはなく、ただ、物理と食い違ったときに価値が無くなるだけである。 たとえば、太陽が回っている(物理)、ということは空が回っている(論理)。というのは、論理的な間違いではなく、物理を通して構成された論理が、物理と食い違ってしまった。という誤りである。 ゆえに、論理的というのは、「正しい」という意味ではなくて、あるものを正しいとしたときに構成された法則にしたがっているということである。 このことから、論理的に話すというのは、次のようになる。 [極論的な論理的] ある個人自身が決めた法則にしたがって話す。 [社会的な論理的] 一般的な人が正しいと認めている法則にしたがって話す。 非論理的な例 ・言葉の定義を自由自在に変更する。(ステレオタイプなど) ・矛盾している。(結論が正しいとき、前提が正しくなくなるなど) ・根拠が無い。(人間は悪だ。)※法則(論理)について述べていない。論理と物理が食い違うことは「科学的に間違い」。 ・嘘。 非論理的とはいえない例 ・根拠が間違っているまたは薄い。(おなかがすいたということは12時だ)※物理とは食い違うかもね。 ・冗談、お笑い。(騙すという法則が構成に含まれている) メモ 社会的に正しいと認められていると思われる会話や議論の法則 ・論理学の基本法則(論理和・論理積・否定など)。 ・日常言語はすでに共通了解されている。(犬のことをサルということはない)

  • アマテラス公民なるお二階さん 大政奉還しなさい

     アマテラス公民なるお二階さん 一階なる主権の存するスサノヲ市民社会に大政奉還しなさい。  こう合唱してゆくときではないか?  あのトランプも言ってたぢゃん。  世界各国についても 人類史における社会形態の〔変遷の〕歴史としてまったく同じ問題だと考えますが いかがでしょうか。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  • 自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。

     つまり  (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?  これが 問いです。  この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。    (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?   【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。  (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。  (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。  (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。  (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)  (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html  というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。   ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。  (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!  (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。  (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。  (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。  (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。  (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。  (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。  (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。  (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。  以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。

  • 理系出身者が「ズルイ」と感じる文系独特の論理展開

    ////////////////// (目の前で悪い事をした犯罪者を捕まえようとして、 犯人から抵抗された場合、抵抗を排除するために、) 【警察官であると私人であるとを問わず】、 【社会通念に照らして必要かつ相当な】 実力行使をすることは許される。 ////////////////// 上記は、とある有名な裁判の判決文を、 分かりやすく噛み砕いて表現したものです。 なお【】内は原文のままです。 皆さまは、この文章をどう解釈するのが妥当だと思いますか? 〔A〕警察官に許される実力行使は、私人(一般市民)にも許される。 〔B〕警察官に許される実力行使が、必ずしも私人(一般市民)にも許されるとは限らない。 なお、この文章を、法律を学んでいない文系出身者に読ませると、 【社会通念に照らして必要かつ相当】とされる範囲が、 そもそも警察官と私人(一般市民)とでは違う、 つまり、警察官には許されても、私人には許されない行為がある、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえても、一般市民には同じ事は許されない。) ところが、同じ文章を、法律を学んでいない理系出身者に読ませると、 【警察官であると私人であるとを問わず】が、 【社会通念に照らして必要かつ相当】に掛かっている以上、 「警察官」と「私人」は『並列』の関係にあり、 警察官に許される行為は、私人(一般市民)にも許される、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえたなら、一般市民にも同じ事が許される。) さらに、多くの理系出身者にとっては、 『一文は一義』(一つの文は、一つの意味だけを持つ。)が原則で、 このような文章で、行為主体(警察官か私人か)によって、 【社会通念に照らして必要かつ相当】の中身が変わるのは、 理系学問のレポートではあり得ない「ズルイ」論理だと理系出身者は言います。 さて、あなたはどう解釈しますか??

  • 法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?

    他の学問ではあり得ないような(論理破綻と言われるような) ムチャクチャな論理が法律の世界には存在します。 「現行犯人は誰でも逮捕できる」(刑訴法213)の「逮捕」は、 同じ条文で誰でも(なんぴとでも)と謳われながらも、 実は行為主体によって(一般人と警察官とで)、 「逮捕」の法的意味自体が全く変わります。 現行犯人を捕まえる際に力を行使する事は、 警察官と私人(一般市民)を問わず、 「社会通年上」必要かつ相当な範囲で許される(S50.4.3) という最高裁判例についても、 「そもそも警察官と一般人では、 “社会通念上”必要で相当な範囲は異なる」 という意味不明な判例解釈が、 法学の世界ではまかり通っています。 他の学問でそんなメチャクチャな論理あり得ないというと、 「法律は素人に理解出来るものではない」 と言います。 そういう奴らに限って、 「いぁ、行政書士・司法書士・社労士の資格くらいはある」 と言えば、 「そんなの三流資格だ」 「そんな資格、あっても三十路人間など雇わない」 などと、 意味不明で権威主義的なことを 陰でヒソヒソ言っていたりします。 (2ちゃんねらーみたいw) こういうのを「論理のすり替え」と言いますが、 とある大学の先生が率いる勉強会は、 「論理のすり替えはシナ・チョウセンの文化」 とハッキリ定義しています。 皆様はこの定義に賛成ですか?反対ですか? この2国の民族は論理のすり替えのプロでしょうか?

  • われらが《繊細の精神》なる情況にても論理的なのだ

     《繊細の精神》が幾何学の精神にくらべて優勢なる情況 すなわちわれらが《情感の共同性》なる社会にあっても 必要なときには 論理的に考え振る舞うのだ。――これを問います。  ▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~  http://james.3zoku.com/kojintekina.com/pascal/pascal001.html  第一章 精神と文体とに関する思想  1  幾何学の精神と繊細の精神との違い。  前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。 したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ あたまを向ければ、原理はくまなく見える。  それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。  ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける までもないし、無理をする必要もない。  ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない とうことがほとんど不可能なくらいだからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (1) これは 短絡して捉えるなら 理性の崇拝 と 象徴による権威づけ とではないのか?  (2) けれども どちらも論理的なのである。  後者の――すなわち 繊細の精神の優勢な社会にあっての――《クウキ教》であっても そこに伝えられることは 表面化はしないとしてもけっきょく言葉で表現された内容であるにほかならない。以心伝心される内容は 言葉で表現されているのだ。それなりに論理をとおして説得力を持たせているはずなのである。  (3) 何が違うか? どちらも理性とその論理に従うというとき 人びとが従うときのその方式にある。  (4) 幾何学の精神が優勢な人間関係にあっては――すなわち欧米人の社会を想定しているだけれど そこでは―― 是が非でも 論理で人を丸め込む。(買収や脅しなどについては いまそう為し得るかぎりで取り上げないこととする)。  (5) 繊細の精神にうったえる社会では その論理を象徴とその伝播としてのクウキなる権威に関係づけて人を丸め込む。でもやはり 論理なのである。  (6) われわれ日本人も じゅうぶんに論理的に考えている。  もっぱらのアマテラス公民(お二階のえらい人びと)にあってはそれが得意中の得意であるかも知れないし スサノヲ市民が国の内外にわたる問題に対処するときにはやはりアマテラス公民として――アマテラス普遍語(科学語および人格語)を用いてこそ――思惟し行動するのである。普段は あやまちうるスサノヲ人間語をもっぱらしゃべっていたとしてもである。  どうでしょう。

  • 人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代

    人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代国家の民主政治に至ったか。 市民革命や君主処刑、権利宣言の世界史上有名な具体例を挙げつつ、以下の言葉を使って説明せよ。 《旧体制/絶対王政/身分制/家産国家/朕は国家なり/市民革命/regicide/ 社会契約/身分制の解体/自由且つ平等な諸個人/republic/君主主権/ 被治者の自由な選択によって成立した国家/権利宣言や憲法の制定/自然状態/ reign but not rule/王権神授説/万人の万人に対する闘争/e pluribus unum》 これは政治と法に関する問題であり、自分で解いたのに納得のいかなかったものです。 参考にしたいのでお手本、お願いします。

  • 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

     社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。