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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 論理思考をそなえている。)

日本人の論理思考と社会秩序

このQ&Aのポイント
  • 日本人は論理思考によって時制の一致を発達させた。
  • 日本人のおとなしさは社会に論理的な秩序を求めるため。
  • 和の心は市民の交通思想から生まれ、国家形成に影響を与えた。

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  • freulein
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回答No.6

bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。 言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。  ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html  という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。  ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。    と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。  ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。  ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。  もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。  ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように  ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。  ☆ といったところではないかとやはり思われます。  ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。  ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。  ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。  あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。  でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。

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その他の回答 (103)

回答No.84

インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、 特定の拠点への攻撃による崩壊の予防でして、 「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」 という事実が評価されて、実際に、 『ノーベル賞授章「候補」』にノミネートされたことが御座います。 http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031201000249.html http://jp.techcrunch.com/archives/20110301internet-for-the-nobel-win/ 確かに国家的に制御している地域もが存在していますが、 そういう地域が海外のネットワークを支配し得るのではないですね。 あくまでも特定の地域の内外での遣り取りを制御しているだけですので、 電気通信による情報の遣り取りを特定の国家が制御している、という事実は、 インターネットの中枢の不在と関係しません。 つまり、寧ろ、特定の地域による支配を阻止するべく、 「OSI参照モデル」が機能してくれているのです。 例えば、RIPというプロトコルはネットワークの全体的な動向を窺わず、 お隣さんとの結び付きの維持に拘っていまして、 その『「連歌」的な経路選び』が安定の冗長化を助けてくれています。 http://okwave.jp/qa/q479249.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  わたしの書いた内容は 素通りですか? 一部分のみを取り上げるのですか?  ★ ~~~~~  インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、  特定の拠点への攻撃による崩壊の予防でして、  「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」  という事実が評価されて  ~~~~~~~  ☆ もしこういう理由でしたら こうも考えられますね。  すなわち 管理拠点への攻撃の可能性がゼロであれば 管理をしてもよいと考えているのだと。  その点は どうなんですか?  攻撃による崩壊を予防しなくても済むのなら 一元的な管理中枢を設ける場合もあると言うのか。それとも そういう考え方はいっさいしないというのか。  論理思考や自由といった問題は そのあたりにかかわっていると思うのですが。  こう言ったからという理由で インタネットにけちをつけたと言われたら どうしましょう。  さすが  ★ RIPというプロトコル・・・の『「連歌」的な経路選び』  ☆ については コメントできるまでには分かりません。あしからず。

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回答No.83

すいません。 私の表現に簡単に誤解をなさいますね。 別段に「連歌」等への好き嫌いを語っている訳ではないです。 一々、此処迄の無駄な説明を要求するのは、何故ですか? 「立体主義絵画」と「連歌」との共通性を考えて頂いただけで、 価値観の違いを主張なさいましたが、 『「立体主義絵画」の視覚的な醜さ』は分かり切ったことです。 それに対しまして、『「連歌」等の短詩形文学』には、周知の通りに、 「五七五七七」のリズムとか「季語」とか「枕詞」とか等の「型式」が御座いますね。 つまり、「型」によって整形されていますので、 独自の規則が其処でも成り立っています。 確かに、短詩形文学は庶民の日常生活に直接的に役立ってくれ難い、 という事情を踏まえますと、『現代日本の「義務教育」』の国語科の中で、 短詩形文学的な発想の存在が指導されている理由は、 「短詩形文学」の特殊性に注目しているからだ、 という見方もが有り得るのかも知れません。 従いまして、古来の日本にも「論理思想」が存在していてほしい、 との願いもが起き得るのでしょうが、そもそも、 「短詩形文学」が誕生し得た理由は、日本語の文法的な構造に有ります。 つまり、倒置を除きますと、日本語では、述語だけが末尾に固定化され、 其の前の語順を比較的に自由化させ得ますので、其の御蔭で、 部分的な省略さえもが許されて、「短詩形文学」が出来上がったのです。 因みに、話は変わりますが、インターネットには特定の管理者がいません。 果たして一体何故なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 一々、此処迄の無駄な説明を要求するのは、何故ですか?  ☆ わたしが馬鹿で何も理解できないからです。その限り無駄とは思えません。  言語の構文などのことを軽くとらえてはならないと考えます。  たとえば ラテン語は 語順がまったくと言っていいほど自由です。  (羅文): Paulus laedit Petrum.  (英訳): Paul  hits  Peter.  (漢訳): Paul   打  Peter。  (和訳): パウロ-が 打つ ペテロ-を。  ここで Paul-us(パウロ-が)は 主格( S )に活用しています。Petr-um(ペテロ-を)も 対格(目的格: O )に活用しています。したがって この文の語の順序を入れ替えても 同じ意味で文意が通じます。   ○(羅文):Paulus Petrum laedit.        Petrum Paulus laedit.        Laedit Paulus Petrum.  むろん英文や漢文は――活用語尾を落としたか もともとないので―― 語順によって それぞれの語句の格関係(≒意味連絡)を示すかたちを採っています。   ○(英文): Peter hits Paul.    ○(漢文):〔変更して〕 我打他。// 他打我。  とすれば 打つ主体が変わっています。(《他》=かれ)。つまり語順が一義的に 主‐述‐対(つまり S-V-O )の格関係を示すかっこうです。  ちなみに   ○(和文):われはかれを打つ。  という文において ハ格は 主格を表わしますが〔われ‐ハ(主題提示格) われ‐ガ( S ) かれ‐ヲ( O ) 打つ( V )。〕   ○ かれは われが打つ。  としますと ハ格は 対格を表わします。主格は われがのガ格です。意味としては《かれ‐ハ(主題提示格) かれ( O )‐ヲ われ( S )‐ガ 打つ( V )》というふうに ヲ格が現われます。  何が言いたいかと言えば 日本語の構文は ハ格やガ格がまづ基本的に言って話し手の言いたいこと(文)の主題を提示するのであって わづかにそのあとそれと同時に 主述対の格連関をも表わすということです。  つまり    (α) A‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スル。(日本文・韓国文)  の構文は その構造の中に     (ω) S - V - O.  (英文・漢文)  の文型を含むと言えるようです。含むほうの構文(α)は 非線形であり 含まれる文型(ω)のほうは 線形であるようです。  語順が自由なラテン文は――現代語でも ロシア語がまだそうですが――線形の文型に近寄って行っています。けれども 非線形構文の要素を残しているとも言えるのではないでしょうか。文頭に持って来た語句( Paul-us か Petr-um か Laedit か)が 主題として提示されているかたちだと考えられます。  英文でもないわけではなく いつも例に出すのは これです。    ○ Regret, I had a few.  対格(≒ヲ格)が 主題として提示される恰好です。  ☆ よって 論理思考という主題をめぐって 日本語の文法――特に構文――の生成やその特徴と そして短詩形文学の生成やその特徴との間に つながりがあるかどうかは そんなふうに一概に言えるとはとても思えません。  (語が 子音終わりのものがない。基本的に二重子音のかたちもなくみな開音節つまり母音終わりであること――つまり語の形態素が 一子音+一母音( C+V )から成っており 一拍が明瞭であること――が 五七調あるいは短詩形を成り立たせているかに思われます)。  (五七調は 一般に語が二拍か三拍かであること。石(いし)の二拍や頭(あたま)の三拍であること。そこへ 一拍の活用格――ハ格やガ格やノ格やヲ格や二格――が添えられ そのまとまりとして 2+1⇒三拍か 3+1⇒四拍かに成る。四拍の場合などには 活用格を省くという手もあります。  よって おおむね語句のひとまとまりは拍数が 2+3⇒5 / 3+2⇒5 かあるいは 3+2+2⇒7 / 3+4⇒7 かこういった組み合わせに成るからだと考えられます)。  ★ 因みに、話は変わりますが、インターネットには特定の管理者がいません。 / 果たして一体何故なのでしょうか?  ☆ お隣の大国では いるのではないですか? それが答えだと考えます。  * ひとつご助言を申し上げますと 具体的な事例・文例・作品例を挙げて説明していただくのが いちばんだと思います。   

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回答No.82

「立体主義絵画」でも「連歌」でも 外側の枠を固定化させずに、例外に中心を移行させて、 全体の流動化を促し続けています。 先の枠への入力でも触れました通りに、 日本語では論理的な弁舌が高く評価されず、 寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。 何故なのだ、と思われますか? 日本の大人には常識ですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 外側の枠を固定化させずに、  ☆ 固定するのも自由 させないのも自由です。どちらの方法に拠ってもいいものは生まれるでしょうし いいものです。どちらの方法においても 悪い表現は悪い表現です。  ★ 例外に中心を移行させて、 / 全体の流動化を促し続けています。  ☆ これも 一法であって それ以上の道ではないと考えます。全体を固定させて いい表現を得ることもできましょうし 《例外》やら《中心》の位置づけやら すべて自由であるでしょう。  ★ ~~~~~  先の枠への入力でも触れました通りに、  日本語では論理的な弁舌が高く評価されず、  寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。  何故なのだ、と思われますか?  日本の大人には常識ですよね。  ~~~~~~~~  ☆ どうやら わたしが《論理的な弁舌》をひけらかしている。こうおっしゃりたいようです。《饒舌》に過ぎると。  ★ 寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。  ☆ なるほど そう言えば あなたの文章表現は どこもかしこも《省略》が満ちあふれているようです。道理でですか よく分かりました。  ★ 日本のおとなの常識  ☆ についてまなんで行きます。これからでは遅いと思いますけれど。  というのは ただの社交辞令です。ウソを書いてすみませんでした。  饒舌であろうとなかろうと よい表現のもとによいことを伝えられれば それでよいと考えます。  そんな《常識》による秩序などは 一刻も早くわたしがこわして見せましょう。

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回答No.81

本当に学術的な回等の紹介を望んでいらっしゃるのではないのでしょうか? 利己的な理解の支援を求めていらっしゃるのでしたら、 酷く勿体無いと感じられないですか? 現時点の知識では、気の毒乍ら、誤解の域を殆ど越えられないですよ。 日本語の自由な語順は他者達からの参入をも許し、 「連歌」の形式を生み出した訳ですが、 後の時代に於いて、日本語は他者達からの参入への依存からも卒業し、 「俳諧」という短詩形文学へと昇華したのです。 前々回には、理解しやすい様に配慮しまして 「秩序の破壊」という表現を採用しましたが、 残念乍ら予想通りの誤解が露呈しましたので、 酷い落胆を覚えました。 若しかして、「連歌」の場合にも、 最初に参加者達が全体の筋書きを覚えている、 と誤解なさったのでしょうか? 「連歌」と「尻取り遊び」との類似性には既に触れていますので、 日本語の情緒性が其処から理解して頂けたのではないか、 と私は勝手に考えていました。 そもそも、「尻取り遊び」に参加する際に、 参加者達は全体の筋書きを教えられていますか? いませんよね。 それと同じ様に、「連歌」の場合にも、 隣接部位との辻褄合わせだけに配慮しさえすれば、 最終的に自ずから全体的な混沌が出来上がるのです。 此の段階は、入門以前の準備の領域に留まっています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 本当に学術的な回答の紹介を望んでいらっしゃるのではないのでしょうか?  ☆ 初めの趣旨は その説明にあるとおり二点のみに関する確認です。  さらに《日本人の論理思考》という主題で広げていただいたと思っております。ただしその問い求めが どこへ行こうとしているのか 分かりません。早くおしえて欲しいというのが ホンネです。  ★ 利己的な理解の支援を求めていらっしゃるのでしたら、  ☆ ですから 《日本人に論理思考がそなわること》の確認が 初めの趣旨であり それが《利己的な理解の支援を求めること》であると言うのでしたら それは甘んじて受けます。そのとおりですから。ですが 《そなわっていない》という内容の回答を寄せていただくこと これも歓迎です。  ★ 現時点の知識では、気の毒乍ら、誤解の域を殆ど越えられないですよ。  ☆ そう見えるのでしたら そうなのでしょう。ただし段階を踏んで・踏み固めて進んで来てはいません。わたしからの応答がよほどちゃちなものだったのでしょう。でももうそろそろ鼻をひっつかまえられて 誘導されることにはいい加減嫌になっています。それよりは誤解のままでかまわない こういう心境です。  ★ 日本語の自由な語順は他者達からの参入をも許し、  ☆ これは まちがいです。その言語の語順がどうであれ文法がいかにあれ 《表現の自由》は 政治的に社会力学的にはばまれることはあっても 参入をゆるさないということはありません。誤解です。  ★ 「連歌」の形式を生み出した訳ですが、  ☆ ですから 連歌が この自由やあるいは論理思考の主題といったいどういうふうにつながるのか お聞きしたいところです。先行する秩序の破壊をするかしないかは 直接につながりません。秩序を守る場合にも 自由は 得ようとすれば出来ないことはありませんし 秩序の破壊ゆえに論理思考が生きているというのも 一面的な理解だと考えます。  それに連歌は 《優雅な形式》になったとすれば それはむしろ社会としての秩序の創造的・必然的な破壊を目指すものではなく むしろ体制としての秩序に組み込まれて行ったに過ぎない。こうも考えるとすでに述べています。  連歌にこだわる意味が 明らかではありません。  ★ 後の時代に於いて、日本語は他者達からの参入への依存からも卒業し、 / 「俳諧」という短詩形文学へと昇華したのです。  ☆ 俳諧の良さを では 言ってください。その作り手本人にとって有意義であることと 芸術作品として良いこととは 必ずしも一致しません。あらたな秩序の創造を目指してのふるい秩序の改めにとって 俳諧は 良いとも悪いとも言えないところでいとなまれている。こう見られます。  《参入》如何については 論理思考や自由の主題とどうつながるのか。参入は自由 表現も自由 この原則があれば 連歌だの俳諧だのと ここで持ち出す意義について まったく分かりません。見放してもらってかまいません。  ★ ~~~~~~  前々回には、理解しやすい様に配慮しまして  「秩序の破壊」という表現を採用しましたが、  残念乍ら予想通りの誤解が露呈しましたので、  酷い落胆を覚えました。  ~~~~~~~~  ☆ 《誤解》や《落胆》の中身 これについては 一切と言ってよいほど明らかになさらないのですね。段階を踏んで一歩一歩共通の理解を――異同それぞれについて――確かめ合って進むということをして来ておられない。  ★ ~~~~~~~  若しかして、「連歌」の場合にも、  最初に参加者達が全体の筋書きを覚えている、  と誤解なさったのでしょうか?  「連歌」と「尻取り遊び」との類似性には既に触れていますので、  日本語の情緒性が其処から理解して頂けたのではないか、  と私は勝手に考えていました。  そもそも、「尻取り遊び」に参加する際に、  参加者達は全体の筋書きを教えられていますか?  いませんよね。  それと同じ様に、「連歌」の場合にも、  隣接部位との辻褄合わせだけに配慮しさえすれば、  最終的に自ずから全体的な混沌が出来上がるのです。  此の段階は、入門以前の準備の領域に留まっています。  ~~~~~~~~~  ☆ あいにくでした。《情緒》については 論理思考とからめて主題にしてください。あとは そのつど応答して来ています。どこが違っているのか その指摘もほとんど無しで来ているわけですから こんなことを言われても はあそうですかとお応えするしかありません。  総じて言って あいにくでした。

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回答No.80

それでは、更にもう1つ。 パブロ・ピカソ氏達の立体主義絵画の事にも、思いを馳せてみて下さい。 此処で行き詰まりますと、 『「源氏物語絵巻」の凄まじさ』を理解出来ませんから、慎重に…。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが さらにもっとわが高みに登って来いとのお達しでしょうか。  抵抗感をおぼえるのは わたしがこころが狭いからでしょうか。  ★ それでは、更にもう1つ。  ☆ の《それでは》というのは これまでのわたしの反応内容をよしとしたという意味でしょうか?   見直しをし考えをあらためたこともすでに含まれていますが それでも表題の《論理思考》についての問い求めに当たっての立ち場は 趣旨説明で述べたところから変わっていませんよ。  コンピュータにおける通信とその通信を可能にする仕組みをめぐってもけっきょく 自然言語における表現の自由という原則(公理)が 当然のようにも 当てはまっている。こう 素人のわたしが 総括したことが お気に入らなかったのでしょうか?  でもそれについての批判・訂正はないということですよね。    そしてそれでもさらに頂上は もう少しだがまだだ ということでしょうか?  ★ 此処で行き詰まりますと  ☆ としても もういいやという気にならないでしょうか ふつうは?  ピカソについては わたしの次の設問でのやり取りを挙げておきます。  【Q:ピカソの作品 《ゲルニカ》について】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6412949.html  【Q:われらが審美眼は 劣化したか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html  前者は アンケートでしかなく 後者は きわめて長いやり取りになっています。ですからあまりよい案内ではないのですが 全体としてわたしの美についての見方を――むろんおそわりながら やり取りしながら――明らかにしています。  結論は ピカソはわたしにとって ゼロです です。むしろ社会にとっては マイナスだと考えます。中立の視点で言えば絵画の技法などにおいて ほかの二十世紀の美術の大方の方法として そういう実験をおこなったという見方です。  それは要らないというのが 主観です。セザンヌの手法まででじゅうぶんであると。  ☆☆ 日本人は 論理思考をそなえている。  ☆ この主題のもとにあることは分かりますが その主題の広げ方・掘り下げ方が ひとつには思わせぶりという意味で強引であり ひとつには段階ごとに踏み固めて行くという作業が そちらの側であいまいなままとなっている こう思われます。後者ゆえに 前者が増幅しています。

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回答No.79

しっかりと思い出して下さい。 「一連の辻褄合わせ」を敢えて意図的に壊す為に、 美しい形式が採用されているからこそ、 「連歌」の特徴が歴史的に高く評価されてきたのですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 No.84で考え直しましたように 連歌の仕組みは分かりました。  むしろまとまった思想は 二の次である。句ごとの連なり――つまりその連ならせ方にどんな知恵が用いられどんな知識がうかがえるか――が腕の見せ所であると。    どう言いますか わたしの周りでは 俳句や連歌をめでる人間はいなかったという環境も影響しているでしょうか。わたくしもすでに遠ざかって来ていました。  ただあらためてその特徴が分かって言うのですが そしてそう言ったからといって何でも無いことですが わたし自身は好きになれません。それは ただ教養を競い合うようなあそびだと思えるからです。へたをすると その教養のひけらかしに終わるかに思えます。  それに時間を費やすなら もっと正面からの思想に意を用いるほうをえらびます。  あそびの論理も分かりましたとは 述べておきます。  つまり   ★ 「一連の辻褄合わせ」を敢えて意図的に壊す為に、  ☆ という営為は 思想としての思索でもじゅうぶんに必要ですし おこなわれていると考えます。ただ  ★ 美しい形式が採用されているからこそ、  ☆ にかなうかどうかは 保証の限りではありません。一般にふるい共同の観念ないし幻想に挑戦するというかたちになるのが その破壊作業ですから。柿本人麻呂を天皇賛美のうたをうたう宮廷歌人という通念を壊して捉えたのは わたしが初めてです。聖徳太子は この近年にその見直しが広く成されて来ていますが これについてもわたしはぼろくそに批判して来ています。ニーチェにしても ソシュールにしても構造主義ないしポスト構造主義にしてもそうです。  《〈一連の辻褄合わせ〉を敢えて意図的に壊》しています。  言いかえると 枠組みとして教養あふれるあそびという看板があるところで  ★ 「連歌」の特徴が歴史的に高く評価されてきた  ☆ という場合には それがいかに洗練されており《美しい形式が採用されている》としても かえって実地の共同幻想への批判は よわい側面を持つ。こういう結果ではないかと思われます。一般的に得られている《高い評価》というのは 得てしてそういうとこがあると思います。いわゆる《体制への組み込まれ》ではないでしょうか。保守としては それでよいし それがいちばん優雅なことなのでしょうけれど。

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回答No.78

更にもう1つ。 「通信」は、端末機器類同士の間での語り合いです。 自己紹介の後に、相手の機器の状態を尋ねてアポイントを取り、 そして、漏洩を防ぎ乍ら、徐々に情報群を貰う為に、 自分の情報処理能力の幅を相手に覚えて貰う。 単純でしょう。 但し、OSI参照モデルの各階層のプロトコルは、 隣接する階層との連携だけを維持させる様に規定されていまして、 全体への影響を把握させていません。 しかも、最初にインターネットが出来上がった際の理念の通りに、 若し中枢を仮想敵国に狙われるといけませんので、 秩序の一元管理の責任者を特定させてません。 此の完成度は素晴らしく、 若しかしますと、噂通りに、 将来的には、ノーベル賞の対象になるかも知れません。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。少しづつ分かって来ました。  自由な交通を可能にするために 部分的に・主題(課題)ごとに互いの条件を取り決め その諸条件ごとにしっかりと機能する仕組みにしているといったところでしょうか?  ただそれでしたら ますます縁の下の力持ちとしての仕事でありそこにおける広い意味での論理思考であるようにも思われます。  つまりその仕組みの上で 人びとは何を語り合うか。この次元での論理思考もあるように思われます。  あるいはそれとも そのような《話し合いの場としての条件をめぐる話し合いとそこにおける言わばゆづり合い》 これとしての思想が問題にされてもよいし そこにこそ論理思考の出番があるということでしょうか?  ★ 秩序の一元管理の責任者を特定させてません。  ☆ これは 広く捉えてもまた基礎として捉えても 表現の自由のことだとは思うのですが その上に特別な思想がありますか?  表現の自由は 一人ひとりの・自分の発言にかんする答責性(文章責任)を俟って完成する手はずになっています。《一元管理》などは もともと想定しません。秩序のためにと言ってその管理をしようとする動きは政治的に出て来ますが 基本的にコミュニケーションは 無条件に――それゆえ答責性を同時に帯びつつ――自由だという大前提に立つはずです。  この原則は どこまで行っても原則だと考えます。  重ねてこの原則というのは  ○ 答責性を同時に伴なう表現の自由 これのみが プロトコルである。  ☆ つまり プロトコルは一切ない これが 自然言語における表現と交通の原則だと考えます。いかがでしょう?

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回答No.77

因みに、当事者意識が乏し過ぎるからなのかは存知得ませんが、 有価証券取り引きに関する御意見の中にも、 遺憾乍ら、独特な偏見の残留が認められます。 理想的に考えますと、仰る通りなのですが、 現実に其の分野だけで勝ち抜いてこられたDayTraderの方々は、 綺麗事に拘らず、上場廃止決定銘柄の株をも狙って、 どんどんと売買を繰り返しています。 つまり、「キャピタルゲイン」を獲得した際に、 其の資金で次の銘柄の購入に着手するタイミングを考えますと、 企業の業績の分析よりも、 寧ろ、『道連れの「狼狽売り」』の憂き目に曝された銘柄を狙った方が望ましい、という場合もが有るのです。 是迄に私の様な指摘を受けていらっしゃらなかったのかも知れませんので、此のサイトの新参者の私が、こういう意見を申し上げてはいけないのかも知れませんが、今後にも皆様と協力し合える関係を維持させていく為に、こういう陳情もが必要なのではなかろうか、と思われましたので、殊更に強調させて頂いておりますから、何卒御容赦を宜しく御願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 さて  ★ ~~~~~~~~  理想的に考えますと、仰る通りなのですが、  現実に其の分野だけで勝ち抜いてこられたDayTraderの方々は、  綺麗事に拘らず、上場廃止決定銘柄の株をも狙って、  どんどんと売買を繰り返しています。  ~~~~~~~~~~  ☆ このことに尽きるようです。  《理想的に考える》というところを 《全体観に立つ》と言っていました。  そして《部分を捉える見方。あるいは そのときその場に立っているすがたの方向や傾きを微分するかのように捉える見方》 これもあるということ。  部分観ないし特殊な事例を捉える見方。  文学作品や芸術一般は 概して その想像力を駆使して自由にどの見方にも立って表現を与えます。  哲学思想は そのような特殊な事例をも出来るだけまとめて総体的に捉えようとするはずです。  そういうことでよろしいでしょうか?

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回答No.76

大きな勘違いを為さっているようです。 そもそも、「連歌」に於いては、 全体の筋書きが提供されておらず、 寧ろ其の奇妙な仕組みの御蔭で、独特の趣きが出来上がるのですよ。 恐らく長年の内に御忘れになっただけなのでしょうが、 質問者の方の頃でも、蓋し、 こういう内容は中学校で教わっていらっしゃるのだろう、 私はと思いますよ。 通信迄に比較対象枠を広げますと、難し過ぎますか?

bragelonne
質問者

お礼

 《連歌 例》でグーグルの最初のサイトを見てみました。  ▼ 〔鎖連歌の例(守武千句より)〕 ~~~  http://www.e-t.ed.jp/edotori390172/bun-02.htm  秋来ぬと七夕つめや欠けぬらん      「秋が来て七夕だというのに、肝心の七夕津女がいない」という意味。   同時に「織女の真似をして機織りをしたら、爪が欠けてしまった」とい   う意味もあります。次は、最初の「七夕津女がいない」という謎に答え   を与える句を作ります。  その朝顔は牛とこそ見め    「その朝顔は牛と会っている」という意味。織女は朝顔姫という別名    もあるのです。だから牛飼いに会いに行ったのですね。次は、「朝顔    と牛が会う」という謎に答えを与える句を作ります。もちろん、七夕    と離れなければなりません。  朝露の垣根をくぐるかたつぶり          意味は分かりやすいですね。前の句とのつながりは分かりますか?    「朝露の垣根」ですから「朝顔」が咲いていてもおかしくありません。    「牛」はどうしたのでしょう……ちゃんと「かたつぶり(現代語のか    たつむり)」が出て来ました。これは「蝸牛」と書くんですよ。  疳の虫気(け)の有明の空       疳の虫(かんのむし:子供の腹痛です)のために徹夜で看病をして    朝を迎えたということです。前の句とは「朝露」から「有明」、「か    たつぶり」から「虫」が連想されているのです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。作品を全体として捉え そのまとまった思想をかたちづくるのではなく したがって読者もそのように思想を捉えようとするのではなく その部分ごとの掛け合いの妙をたのしむといったところでしょうか?  ★ ~~~~~~  そもそも、「連歌」に於いては、  全体の筋書きが提供されておらず、  寧ろ其の奇妙な仕組みの御蔭で、独特の趣きが出来上がるのですよ。  ~~~~~~~~  ☆ というように。だとしたら これは 文学と言っても 良くも悪くも余興に属しますね。  言いかえると 文学なりあるいは広く世界観なりを身につけた人〔たち〕が そのいとなみから滴り落ちる余りものを吐露するといったところでしょうか。  芸術として正面からいどむ作品ではないと。    たしかに相聞のうたにしても その実地の場でも掛け合いが問題であって そのあとそのうたが芸術作品となるかどうかは二の次だと思われます。俳句なら むしろその表わされた言葉の背景にある作者の生活や人生のほうがうたわれており その文字としての作品だけに限るものではなく 限ってしまえば何のことであるか分からないほどだと思われますから。  連歌は もっとあそびの要素が強いもののように受け取りました。実際の生活から一たん離れて 言葉の世界にあそぶというふうにです。  なるほど そういうあそびの要素が 広い意味でも狭い意味でも《論理》ということには含まれるとは思われます。もしくは ひろく《あそび》が 論理をも含むものであり 人生をも含むということであるかも分かりません。  ★ 通信迄に比較対象枠を広げますと、難し過ぎますか?  ☆ これについて 次のご回答に移ります。

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回答No.75

通信よりも拙い義務教育レベルの話題に言及したくは御座いませんが、 致し方が無いのでしょうか? 叙事詩の辻褄合わせは、 その世界の歴史観に秩序を与えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづわたしに関するかぎり 批判するに躊躇なさらないでください。ぼろくそにコテンパンに言っていただいてかまいません。知らないものは知らないのですから。  この回答としましては 叙事詩ですよね 主題は。  何かその叙事詩の作品を一例挙げてもらえば分かりやすいかとも思いますが どうでしょうかねぇ。  つまり細かくは:  ★ 叙事詩の≫ 辻褄合わせ ≪  ☆ という言い方・見方が まだしっくり来ていません。  ★ その世界の≫ 歴史観 ≪ に ≫ 秩序を与え ≪ています。  ☆ このへんのことも どういうことであるのか。    叙事詩でなくても詩作品でなくても 一般に芸術作品は その一編ごとに作者の思想を表わします。  なぜその表現を《辻褄合わせ》と見るのか?  《思想》は それを伸ばせば《世界観》であり《歴史観》です。むろん《秩序を持った》内容として述べます。(詩は 抽象的・象徴的な表わし方になるのが多いでしょうが)。  すなわち  1. 芸術作品は 基本的にひとりの作者の自己表現として成る。  2. 作品はそれとして そこで作者の思想が完結している。  3. 世界観ないし歴史観は それとして《秩序立った》内容を持つと捉えられる。  4. 思想は その世界観の全体を言う場合もあれば その一端が表わされた部分的なものを言う場合もある。    ☆ こういった内容であり背景事情であるかと考えます。   * 叙事詩《アポロンの生誕》の例があるにはあります。  【Q:「自分を閉じ」た事の有る方、集合!!】 その回答No.5です。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4731792.html

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     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

  • 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

     社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

このQ&Aのポイント
  • 初めての妊娠で、現在12週ですが、20週まで性別を知ることができません。気になるので、見てわかる方法はあるのでしょうか。
  • 初めての妊娠で、現在12週です。産婦人科では20週まで性別を教えてもらえませんが、どのようにわかるのか知りたいです。
  • 初めての妊娠で、現在12週ですが、通っている産婦人科では20週まで性別を教えてもらえません。もし見てわかる方法があれば教えてください。
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