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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 論理思考をそなえている。)

日本人の論理思考と社会秩序

このQ&Aのポイント
  • 日本人は論理思考によって時制の一致を発達させた。
  • 日本人のおとなしさは社会に論理的な秩序を求めるため。
  • 和の心は市民の交通思想から生まれ、国家形成に影響を与えた。

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  • freulein
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回答No.6

bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。 言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。  ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html  という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。  ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。    と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。  ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。  ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。  もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。  ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように  ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。  ☆ といったところではないかとやはり思われます。  ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。  ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。  ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。  あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。  でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。

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その他の回答 (103)

回答No.74

一連の「叙事詩」の様な秩序の管理者と「連歌」の詠み手達との相違点を、 先ずじっくりと考えてみて下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あくまで PC 音痴の者の見るところですが   ○ 言葉による交通・通信において 表現行為とそしてその行為の場の整備といった行為とは 別だと見ます。作品とそしてその作品を表わすことを可能にした道具や技術とは 別だと考えます。    ○ 自己表現としてではありながら 一編のまとまった作品であるなら――それは 作者の意志の表明であり思想(生活態度)の現われだということですが―― そこに《管理》といった概念は無縁だと考えます。  ○ むろん道具や技術も そこに作り手の思想が入って来ます。ただし自己表現を互いに発表し伝え合うその交通のための道の整備としてだと見ます。縁の下の力持ちといった位置づけなのではないでしょうか。道路の整備には確かにそれを管理する技術や不断の努力がおこなわれているはずです。  この考えに従うなら  ★ 一連の「叙事詩」の様な秩序の管理者  ☆ という捉え方には違和感があります。《管理》という概念がどうしてここに入って来るのか。腑に落ちません。  ★ 「連歌」の詠み手達  ☆ 先の叙事詩なり詩作品なりそのほかもろもろの芸術作品については 一般に ひとりの作者がいると見なされます。複数の作者がいるというときには それでも一人ひとりの作者がいるということが 前提となっているはずです。この前提の上に もしまとまるものならば 合作・共作として発表するかたちをとるのだと考えます。  たとえば総合芸術と言われる映画 この映画は やはり大きくは(枠組みのごとき役目と個々の演出とにおいて)監督というひとりの作者のもとに表現がなされると見ます。その限りで演技者は 監督のための協力者であり あるいは原作があるという場合でもその原作者も協力者に成るはずです。原作を改編している場合が少なくありません。  ただしこれとても 監督が それとして《秩序》を導き出そうとしているとは見ることが出来ても それもあくまで作品として表現しているのであってその秩序を《管理》しているとは思えません。ですから管理は その監督作品の表現を可能にする道具や技術が必要であり実際用いられるわけですから それら裏方の協力作業のすべてについて言われるということだと考えます。

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回答No.73

更に追加を致します。 LocalAreaNetwork(LAN)側で、 クライアントシステム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF)が操作される際に、 利用者(私達)はWAN側の規格の機能を自覚していませんよね。 寧ろ、利用料を契約者が支払い、 単純にユーザー達が手元の機器の操作の手順を把握していさえすれば、 通信の利用の際に、故障等の異常が介在していない限りの下で、 上級階層の仕組みに任せさせて貰えます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%90 つまり、奇しくも、連歌への参加者達が1つの文章を拵えず、 たとえ『全体の線的な辻褄合わせ」』の可否を自覚せずとも構わない、 という関係性が、其処からも窺われ得るのです。 従いまして、深い考察の価値が含まれているのだろう、 と私は考えまして、『「通信」の仕組み』に言及しています。

bragelonne
質問者

お礼

 こういうことでしょうか?    ひとりの人の自己表現という言わば文体がある。その文体の現われとして 文のひとまとめとしての文章がある。これが 発言であったり主張であったりする。また論文であったり芸術作品であったりする。  つまりは要するに 作品はひとりの人間の自己表現として完結するのが 基本である。   しかるに 連歌をたとえに持ち出すなら あきらかに複数の人間がまとまって 言わばひとつの作品の主体となっている。  ★ 『「通信」の仕組み』   ☆ もそうなっているであろうと。  ひとつだけ違うように思います。通信の仕組みにおいては 《作品》を成すわけではないということです。自己表現そのものでもない。いわば自己表現を その通信というネットワークの場において おこなうことが出来るようにする仕組みであり装置であるということだと思われます。  ★ ~~~  連歌への参加者達が1つの文章を拵えず、  たとえ『全体の線的な辻褄合わせ」』の可否を自覚せずとも構わない  ~~~~~  ☆ ということが そのまま当てはまるとしても それだけでは済みません。なぜなら 連歌は その全体としてやはり 表現物であり作品であるからです。連歌は 舞台でもなければ装置でもないと言わねばなりません。参加者に場を提供しただけだということではないはずです。  連歌は ただの場ではありません。作品を作り上げるそのいとなみでなくては 連歌という芸術行為のジャンルを成さなくなります。  成さないという定義であるなら それとして場であるということでしょう。つまりはたとえば句会という場が たしかに作句がそこで行なわれるのですが その作品としてのいとなみは まったく問題にしていないという場合に当たります。その句会は ただの場として機能しています。  いづれにしましても 通信プロトコルは 場のほうに属しています。裏方なのではないでしょうか?

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回答No.72

話の展開を少し巻き戻します。 「連歌」との比較の為に「襷リレー」の事例に言及しましたが、 私がそれ等の共通性を見落とす可能性が有り得る、と思われましたか? 真面目に纏めている過程の途上で、 もしそんな小学生レベルの見落としを致すのでしたら、 OSI参照モデルの詳細への理解には及べていません。 私が「襷リレー」の事例を引用した目的は、「比較」でして、 「連歌」と「襷リレー」との相違点を『殊更に探って』頂くと、 『「隣接部位との連結」の方式の多様性』が分かりやすかろう、 と考えまして、それ等を並べてみました。 若しかして「塞翁が馬」の言葉を引用させて頂いただけで、混乱しましたか? 読解が手抜きになっているからなのか、内容が難し過ぎるからなのかが分かりませんが、わざわざの追加説明を提供させて頂きませんと、直ぐに利己的な解釈を為さいますね。 別段に「襷リレー」ではなく、「伝言ゲーム」を比較対象に挙げましても、 同様の比較が叶ったのでしょうが、「伝言ゲーム」との比較の場合には、 「誤り訂正符号」の仕組みにも言及せねばならなくなり得よう、 と警戒しまして、其の展開の回避の為に、「襷リレー」の方を採用しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E3%82%8A%E8%A8%82%E6%AD%A3%E7%AC%A6%E5%8F%B7 因みに、OSI参照モデルの事を勉強なさると宜しいのでないか、と申しましたが、 必要なのはOSI参照モデルの概略と違います。 他の方々が聞いて下さっている際には 此処迄の殊更な詳細説明が必要になりませんので、 少々の落胆を覚えましたが、仕様が無いのでしょうから、 再度の強調を致します。 必要なのは、OSI参照モデルの中に属す全プロトコルです。 特にLDAPとかL2TPとかSIPとかHTTPdとかSTUNとか… そもそも質問者の方々が教えようと為さいますと、 こういう指摘を避け難くなりますから、御容赦を御願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  基本的ににわかには無理なことを要求なさっています。質問者が  ★ OSI参照モデルの詳細への理解には及べていません。  ☆ ということは 分かり切っています。なぜなら たとえば質問趣旨に沿って――それが利己的であると言われるなら 甘んじて受けるわけですが―― 能格言語の例を挙げても 回答者さんにその《詳細への理解に及べている》とはわたしも思いません。ただその概略をお示ししたのみです。  つまりはそれによって――バスク語のことが分からなてくも 概略によって―― 英文とは違った構文を成す言語が 世界にはあるということが分かっていただければよいわけです。つまりは 論理ないし思考には 人によっても違いが生じるでしょうが 言語によってもその外枠として或る程度は違って来ているということ これを問題にしています。それが この質問の趣旨だからです。  しかるに このような問い求めに際して コンピュータ言語としての通信における論理思考の主題があると回答者さんは 提起なさったわけです。  それについて何も知らない質問者に 《その詳細が分からなくても 概略において これこれの通信方式がありそれはあれそれの論理思考に成っている》といったように おしえていただくと いちばんありがたいということなのです。そうではないでしょうか?  あるいはたとえば 有価証券の評価にあたって 直前の成績との比較が出たときに いやいや必ずしも短期的な比較対照のみによるのではなく 中期的な趨勢における評価もしますよとわたしは言いました。同じように連歌も 直前の句との連携だけではなく けっきょく広く過去の作句事情やら果ては文学全体の歴史にも顧慮することになるのではないかと――解説からはそう読めますと――お応えしました。  それに対しては いや ともかく直前の句との対比のみの場合をいま取り上げたいのだとお返しになりました。  ただそうした場合の話の進展は 必ずしもはっきりしていません。それは わたしが参照すべき解説についてただ概略のみを読んで反応してきたからなのでしょう。    ここで最初の言葉が生きます。《にわかに分かれと言われても むつかしい》 これです。一つひとつの中間の結論というものもあるはずだとは思うのです。それも示してもらえていないというのが 生徒としての不満です。  ★ ~~~  「連歌」との比較の為に「襷リレー」の事例に言及しましたが、  私がそれ等の共通性を見落とす可能性が有り得る、と思われましたか?  ~~~~~  ☆ いえいえ わたしのほうがその《共通性が分からない》のです。襷リレーは 言わば句の外側にある襷が受け継がれるのみです。連歌は 句の内側にある部分的な語句が受け継がれます。共通性はないように考えますが その見落としはどこにあるのでしょう?  そして何よりも 連歌や塞翁が馬の場合に それぞれその部分要素が受け継がれることと そして今の論理思考の問題と どういうつながりがあるのでしょう?  表現の主体が変われば 思考としての論理には一貫性が或る意味で無くなるのは仕方がないと考えます。これは 触れていたかどうか いま定かではありませんが 複数のあいだでの同時通信という主題ではありました。  ですが これとしても 論理思考という主題がどこへ行こうとしているのかが見えて来ません。プロトコルの作成ということになれば それ以前に 自然言語のあいだにおける翻訳の問題が 論理思考にとっては まづ立ちはだかっているのではないか。と つまりこれは わたしの単なる推測ですが お応えしました。  けっきょく とどのつまりは こういった質問者の側の手順をすべて端折って コンピュータ言語における規格またそこにおける問題解決の手法について――論理思考という主題を出すのなら―― まなべ。こういうことでしょうか?  もしそうでしたら 詳細に入る前に その理由を最初に分からせてください。自然言語のあいだにおける翻訳の問題などにとっては プロトコル作成における《翻訳》問題の処理の仕方をまなべば こんなに利点があるのだといったふうにです。  それともまづ先に  ★ OSI参照モデルの中に属す全プロトコル   ☆ をまなべ。その有益なところは そのあとである。ということでしょうか?

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回答No.71

残念乍ら、常識から酷くずれています。 OSI参照モデル等は対応製品によって作られたのではなく、 複数のメーカーの製品の動きを連動させる為の規格に属しています。 つまり、複数の作者が作品群を提供する際に、 隣接する部位の間での連結が順調に展開するべく、 作者達が責任転嫁の為に其の規格に準拠させているだけです。 確かに『読解の際の「当事者意識」が乏し過ぎるのは仕様が無い事だろう』とは思われますが、質問者が教えるのではなく、もう少しの冷静な分析が必要なのでしょう。 因みに、ネットワーク関係の異常の発生が認められた際に、 問い合わせをなさると、よく盥回しにされる展開が経験されやすいのですが、 其の理由は上記の「責任転嫁」問題に関わっていて、 IPv4の在庫が枯渇しますと(http://itpro.nikkeibp.co.jp/network/v4kokatsu/index.html)、それに伴ない、関係の全規格の調整もが必要になっていくのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 分かります。そういう趣旨で申し上げたと思います。  つまり わたくしはプロトコルと言えば はじめから規格が統一されているというのではないとヰキぺで聞いたものですから やはり互いに《翻訳》が必要であるらしいと見たまでです。  そうして翻訳と言えば コンピュータ言語のその前に 実際に話されている世界の諸言語のあいだのそれがあるので そこから始めることになるのではないか。単純にこう感想として述べただけです。  あとは 日本語〔および韓国語 あるいは能格言語としてのバスク語やコーカサス諸語〕では 英語の構文に合わせて 翻訳をおこなうとなると きわめて機械的になるだろうと思うものですから そこらへんは どうなっているのか 関心があったというのみです。  おそらく強引にでも 《規格》に合わせて行くものだろうと受けとめてはいます。ハ格とガ格の問題は 二重主語といったかたちで線形の考え方を採らざるを得ず そのようにして英文の S-V-O 文型に当てはめるということをちらっと聞いたことがありましたから。    ですから この主題で素人のわたしが口を出すことは 次の一点です。  論理思考には モノ・コトの全体を捉えつつもその成り立ちや仕組みに注目し これを要素部分に分けてみたときその部分要素どうしのつながり具合いに注目し焦点を当てる このような線形的な論理思考がひとつにはある。  そして そのモノ・コトの全体をつねに捉えつつ要素となる部分はあくまであとで(もしくはあくまで部分として)取り上げるような情況論理とも言える非線形の論理思考。  これらふたつがあるのではないか。  線形の論理が優先されるならば 文表現においては 要素となる文成分ごとの互いの意味連絡が 当然のごとく優先されてそのようなかたち(文型)を採るはずだ。  もしそうではなく初めには文成分ごとの意味連絡にこだわることはないとすれば 話し手はあたかも気分に任せて自分の気になっている主題を一つひとつポンポンとその対話の場に投げ入れるはずである。(そしておそらく こちらのほうが 言語の発生の初めのかたちであろうとも考えられる)。これは 主題の提示を優先させるというあたかも非論理的な人間論理をもとにしていると思われ その相手との人間関係(顔色)やそれを取り巻く情況ないし社会的な力学といった情況論理を優先させている。非線形の人間論理であろうか。  コンピュータ言語は 線形論理に基づかざるを得ないのかなと感じられる。  これだけです。

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回答No.70

先程の欄のURLを訂正します。 ”http://okwave.jp/qa/q6671463.html”が適切なURLです。

bragelonne
質問者

お礼

 技術にかんすることは分かりません。  プロトコルについてでしたら そのそれ以前の問題となるであろうことを 直前のお礼欄に書きこみました。  ともかくわたしの立ち位置では そういう課題がまづあるとお伝えしています。

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回答No.69

対話の仕組みの根本を解析して、 OSI参照モデルが出来上がっていますから、 学ばない内での回答は誤った展開を導きます。 因みに、只今の私は下記の問題の解決を優先させて頂いております。 http://okwave.jp/question/new?cid=383

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  次の指摘に注目しました。  ▼(ヰキぺ:OSI 参照モデル) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB  ただしOSI参照モデルは、本来はOSI準拠製品用の参照モデルであり、OSI以外の通信プロトコルはOSI参照モデルに準拠して作られた訳ではない。  例えばいくつかの教科書では、OSIの7階層を、SNAの7階層や、TCP/IPなどを含むDARPAモデルの4階層と対応付けして説明しているが、これらは全て参考資料(二次資料)である。  厳密にはそれぞれ各層の定義・範囲・役割なども異なり、個々のプロトコルをどの層に位置づけるかも著者により異なる。  なおIETFは、インターネット・プロトコル・スイートと構造の開発はOSIに準拠する事は意図しないと述べている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 文字どおりに受け取るしか分からないわけですが もしこのようでしたら けっきょく人間の言語が民族ごとに分かれているという情況と同じようであると思われます。つまりそれは 異なる言語どうしのあいだで翻訳が必要となるという事情のことです。  ★ 対話の仕組みの根本  ☆ のおそらく外枠には この翻訳という作業の必然性が横たわっていると考えます。  つい昨日のこと 同じ日本語で述べていてもすでに翻訳の必要な場合がもろに現われました。  はじめはまったくわざと誤解していると受け取っていたのですが 必ずしもそうでもなさそうと思われて来ました。  いわゆる論点をすり替えるといった場合には その誤解は確信犯であるのでしょう。そしてそういう場合であるにしろないにしろ くせが習慣となってくると つねに自分の都合のよいほうへ議論をみちびこうとする。そのときにわざとそうしているという自覚はやがてなくなって来た。――そういう情況であり状態に落ち入っているように受けとめました。  コンピュータにおけるその言語間の共通性をどのように捉えどうするのかよく分かりませんが ですから そのプロトコルの以前に 話したり書いたりする言葉における翻訳が つまり翻訳も 論理思考とその普及には重要である。こう考えています。

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回答No.68

一見しますと同類にしか分類できそうにない様な事項さえもが、 別の種類のプロトコルに依存せざるを得ない、という関係が、 集積されて、『「通信」の全体的な仕組み』が成り立っていますので、 論理的な伝達手段の根本を探る際には、 『OSI参照モデルの「詳細」』への深い理解が優先されなければ、 誤解を避け難いでしょう。 因みに、「太陽の搭」のデザインの考案者の方が仰った通りに、 日本らしい芸術的表現には衝動が盛り込まれていますね。 自己の虚構的な文学作品の登場人物にさえも、 敬語を使っていた、という古代日本の振る舞い方もが、 成り行き任せの態度の建設的な投影です。

bragelonne
質問者

お礼

 通信のプロトコルは――分からずのまま言うのですが―― どうも自己表現の動態そのものではないようですね。それは 或る意味でとうぜんなことのようにも考えられます。なぜかと言えば 通信を可能にしその設備環境をととのえる役目なのですから 人間が自己表現するというそのコトとは別の問題になっているように思われます。  ★ 日本らしい芸術的表現には衝動が盛り込まれていますね。  ☆ ううーん。《衝動》は ひとつに 日本人でなくてもどの民族の人でも表現するでしょう。  もうひとつに 衝動が盛り込まれているという言い方は 分かりやすいかどうかを別として 精確ではないように思います。自己表現はあくまで言葉を用いて その言葉に対応するような何かを示し伝えるということですから そこに何かを盛り込むか盛り込まないかの問題になっているとは思えず したがってけっきょく表現の全体として おのれの心にある意志の動きが何であるかを伝えようとするものである。  あるいはつまり 人間にはこれこれこういった心づもりだとか心遣いであるとか あるいは心差し(志)だとかが あり得るんだなぁといった発見を互いに共有し合う。そういった役割をも芸術は担うのではないでしょうか?   言いかえると 衝動を取り上げるなら これこれの情況において人はこういった衝動を持つことがある。そのような衝動について わたしはあれそれの思いを心に持った。というような判断や取捨選択などなどの意志行為のあり方を捉えて人びとの共有するところとしようとするのが 芸術家であると。  そのあとで 日本人に特有の繊細な表現がありうるのかも知れません。と考えるのですが どうでしょう?  ★ 自己の虚構的な文学作品の登場人物にさえも、敬語を使っていた  ☆ これは その時代の言語習慣についてそのままの情況を再現しているというだけのことではないのでしょうか?   ★ 成り行き任せの態度の建設的な投影です。  ☆ 成り行き任せという態度を描写するにしても その表現が《建設的な投影》というかたちになっているということですか? それなら 上に触れましたように けっきょくその表現の全体として これこれの心づもりならそれとして読者の前に言い表わし得たというわざなのでしょうね。と思いますが 見当違いであるかも分かりません。

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回答No.67

色々な具体例もが含まれ得る、という意味ではなく、 分類の為に列挙を行なっています。 「襷リレー」の方式は、SMTPサーバ間でのメール転送のプロトコルの動作に類似してますので、「連歌」とは全く仕組みが違います。 「OSI参照モデル」を熟知なさらないと見えてこない、という内容は、 残念乍ら世間に酷く乱立しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですか。むつかしそうですね。

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回答No.66

似た様な無常観を反映させた象徴的な諺を申し忘れていました。 それは「塞翁が馬」です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ☆☆(No.73お礼欄) ~~~~  線形論理と非線形論理とを合わせた人間論理です。あるいは狭義の論理思考と 人間の境地としての知恵なる人間論理 これらを合わせて 広義の(総体としての)非線形なる世界観。でしょうか。  この世界観のもとには そうすると  ★ 「連歌」・「尻取り遊び」・「絵巻物語」・「襷リレー」その他  ☆ その他何でも入るはずです。遠近法にもとづくのもよし その見方をくづしてしまうのもよし 何から何まであらゆる思想が自由であるとなると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この思いっきり自由な世界観――もしくは《自由》そのものとしての世界観――のもとに この  ★ 人間万事塞翁が馬  ☆ も入るはずです。  無常観だけではなく まぼろしのごとくにでも  ○ 常世(とこよ)  ☆ という思想もあり得ます。この現実のからだにおける復活という思想もあり得るのではないでしょうか? たとえば百年生きていちどわが人生を振り返り もう百年をその自省のもとに生きるという二百歳寿命説 これはニ百歳を生きるとすれば それはほとんど永遠という時空間であり常世であるという思想です。科学・医学が可能にするのではないですか?

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回答No.65

「連歌」でも「尻取り遊び」と同じく、 たとえ直前の句との組み合わせだけが全体から切り取り出されましても、 「絵巻物語」の様な関係性が見出され得る様に出来上がっています。 つまり、是等は「襷リレー」と違い、 『「諸行無常」の響き』を奏でてくれ得るのです。 因みに、古来から西洋の文学やら透視遠近図法の絵画やらの場合には、 作者がその作品の『一元的な秩序の「創造主」』になっていましたね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 透視遠近図法  ☆ は 描き手の視点(目)を中心としてその目の前に広がる世界を その途中のどこかに地点を定めてその地点に立てたかのような平面として 三次元の視像を二次元に写し取るのですよね?  ここからただちに  ★ 作者がその作品の『一元的な秩序の「創造主」』になっていましたね。  ☆ と言えるかどうか。言おうとしていることが分からないでもないですが つまり作者は統括者となっていますからそうなんですが 《創造主》というのは 言い過ぎではないですかねぇ。  それに いわゆる《一元論》 これは もし非経験の領域を想定するとすれば それと《わたし》との関係としての《非思考の庭》に――想定上――世界のすべてが収れんするかたちで 帰結されると思いますよ。無神論の場合は それでも想定上はそう帰結せざるを得ないはずで ただそのような一元論の一元を言わない・触れないという趣旨だと思われるのです。  ただしもしこの一元論をすべてこの経験世界のこととして経験事象にのみ当てはめるというのであれば それはおかしなことになるとわたしも思います。たとえばローマ教会の首長が 唯一神のこの地上での唯一の代理として全世界に君臨すると言い張る場合には 悪しき一元論であると。  ★ 諸行無常  ☆ などその種のたぐいの思想については コギト(思考)とクレド(非思考)とを合わせた現実観だと見るとよいと思います。もののあはれ ですね。  言いかえると 線形論理と非線形論理とを合わせた人間論理です。あるいは狭義の論理思考と 人間の境地としての知恵なる人間論理 これらを合わせて 広義の(総体としての)非線形なる世界観。でしょうか。(ちなみに 非線形という場合 その広義では その中に線形現象を含むということでよろしいでしょうか? すみません おしえてください)。  この世界観のもとには そうすると  ★ 「連歌」・「尻取り遊び」・「絵巻物語」・「襷リレー」その他  ☆ その他何でも入るはずです。遠近法にもとづくのもよし その見方をくづしてしまうのもよし 何から何まであらゆる思想が自由であるとなると思います。

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    論理的という言葉の意味について、特に決定的な定義が見つからないので、自分で考えてみました。 この解釈はおおむね正しいと思いますか? また、間違いやズレがあればご指摘をください。よろしくお願いします。 論理とは、何かを正しいと認めることから派生する法則のことである。 論理以外の法則として物理がある。物理は存在そのものによって現れる法則である。 つまり、論理=論(言葉)の理(法則)。物理=物(存在)の理(法則) たとえば、「すべての物体は重力の影響を受けて下に落ちる。(A)」といったとき、「Aだから、目の前のペンも放り投げれば落ちる」という構成は論理的であり、実際に物が落ちるのは物理的である。※物理は論理の影響を受けない。引力の法則(論理)が存在しなくても物は落ちる(物理) 言い換えれば、論理は物理を組み合わせて作られた法則である。 さらに、論理が間違うことはなく、ただ、物理と食い違ったときに価値が無くなるだけである。 たとえば、太陽が回っている(物理)、ということは空が回っている(論理)。というのは、論理的な間違いではなく、物理を通して構成された論理が、物理と食い違ってしまった。という誤りである。 ゆえに、論理的というのは、「正しい」という意味ではなくて、あるものを正しいとしたときに構成された法則にしたがっているということである。 このことから、論理的に話すというのは、次のようになる。 [極論的な論理的] ある個人自身が決めた法則にしたがって話す。 [社会的な論理的] 一般的な人が正しいと認めている法則にしたがって話す。 非論理的な例 ・言葉の定義を自由自在に変更する。(ステレオタイプなど) ・矛盾している。(結論が正しいとき、前提が正しくなくなるなど) ・根拠が無い。(人間は悪だ。)※法則(論理)について述べていない。論理と物理が食い違うことは「科学的に間違い」。 ・嘘。 非論理的とはいえない例 ・根拠が間違っているまたは薄い。(おなかがすいたということは12時だ)※物理とは食い違うかもね。 ・冗談、お笑い。(騙すという法則が構成に含まれている) メモ 社会的に正しいと認められていると思われる会話や議論の法則 ・論理学の基本法則(論理和・論理積・否定など)。 ・日常言語はすでに共通了解されている。(犬のことをサルということはない)

  • アマテラス公民なるお二階さん 大政奉還しなさい

     アマテラス公民なるお二階さん 一階なる主権の存するスサノヲ市民社会に大政奉還しなさい。  こう合唱してゆくときではないか?  あのトランプも言ってたぢゃん。  世界各国についても 人類史における社会形態の〔変遷の〕歴史としてまったく同じ問題だと考えますが いかがでしょうか。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  • 自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。

     つまり  (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?  これが 問いです。  この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。    (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?   【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。  (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。  (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。  (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。  (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)  (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html  というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。   ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。  (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!  (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。  (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。  (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。  (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。  (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。  (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。  (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。  (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。  以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。

  • 理系出身者が「ズルイ」と感じる文系独特の論理展開

    ////////////////// (目の前で悪い事をした犯罪者を捕まえようとして、 犯人から抵抗された場合、抵抗を排除するために、) 【警察官であると私人であるとを問わず】、 【社会通念に照らして必要かつ相当な】 実力行使をすることは許される。 ////////////////// 上記は、とある有名な裁判の判決文を、 分かりやすく噛み砕いて表現したものです。 なお【】内は原文のままです。 皆さまは、この文章をどう解釈するのが妥当だと思いますか? 〔A〕警察官に許される実力行使は、私人(一般市民)にも許される。 〔B〕警察官に許される実力行使が、必ずしも私人(一般市民)にも許されるとは限らない。 なお、この文章を、法律を学んでいない文系出身者に読ませると、 【社会通念に照らして必要かつ相当】とされる範囲が、 そもそも警察官と私人(一般市民)とでは違う、 つまり、警察官には許されても、私人には許されない行為がある、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえても、一般市民には同じ事は許されない。) ところが、同じ文章を、法律を学んでいない理系出身者に読ませると、 【警察官であると私人であるとを問わず】が、 【社会通念に照らして必要かつ相当】に掛かっている以上、 「警察官」と「私人」は『並列』の関係にあり、 警察官に許される行為は、私人(一般市民)にも許される、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえたなら、一般市民にも同じ事が許される。) さらに、多くの理系出身者にとっては、 『一文は一義』(一つの文は、一つの意味だけを持つ。)が原則で、 このような文章で、行為主体(警察官か私人か)によって、 【社会通念に照らして必要かつ相当】の中身が変わるのは、 理系学問のレポートではあり得ない「ズルイ」論理だと理系出身者は言います。 さて、あなたはどう解釈しますか??

  • 法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?

    他の学問ではあり得ないような(論理破綻と言われるような) ムチャクチャな論理が法律の世界には存在します。 「現行犯人は誰でも逮捕できる」(刑訴法213)の「逮捕」は、 同じ条文で誰でも(なんぴとでも)と謳われながらも、 実は行為主体によって(一般人と警察官とで)、 「逮捕」の法的意味自体が全く変わります。 現行犯人を捕まえる際に力を行使する事は、 警察官と私人(一般市民)を問わず、 「社会通年上」必要かつ相当な範囲で許される(S50.4.3) という最高裁判例についても、 「そもそも警察官と一般人では、 “社会通念上”必要で相当な範囲は異なる」 という意味不明な判例解釈が、 法学の世界ではまかり通っています。 他の学問でそんなメチャクチャな論理あり得ないというと、 「法律は素人に理解出来るものではない」 と言います。 そういう奴らに限って、 「いぁ、行政書士・司法書士・社労士の資格くらいはある」 と言えば、 「そんなの三流資格だ」 「そんな資格、あっても三十路人間など雇わない」 などと、 意味不明で権威主義的なことを 陰でヒソヒソ言っていたりします。 (2ちゃんねらーみたいw) こういうのを「論理のすり替え」と言いますが、 とある大学の先生が率いる勉強会は、 「論理のすり替えはシナ・チョウセンの文化」 とハッキリ定義しています。 皆様はこの定義に賛成ですか?反対ですか? この2国の民族は論理のすり替えのプロでしょうか?

  • われらが《繊細の精神》なる情況にても論理的なのだ

     《繊細の精神》が幾何学の精神にくらべて優勢なる情況 すなわちわれらが《情感の共同性》なる社会にあっても 必要なときには 論理的に考え振る舞うのだ。――これを問います。  ▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~  http://james.3zoku.com/kojintekina.com/pascal/pascal001.html  第一章 精神と文体とに関する思想  1  幾何学の精神と繊細の精神との違い。  前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。 したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ あたまを向ければ、原理はくまなく見える。  それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。  ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける までもないし、無理をする必要もない。  ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない とうことがほとんど不可能なくらいだからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (1) これは 短絡して捉えるなら 理性の崇拝 と 象徴による権威づけ とではないのか?  (2) けれども どちらも論理的なのである。  後者の――すなわち 繊細の精神の優勢な社会にあっての――《クウキ教》であっても そこに伝えられることは 表面化はしないとしてもけっきょく言葉で表現された内容であるにほかならない。以心伝心される内容は 言葉で表現されているのだ。それなりに論理をとおして説得力を持たせているはずなのである。  (3) 何が違うか? どちらも理性とその論理に従うというとき 人びとが従うときのその方式にある。  (4) 幾何学の精神が優勢な人間関係にあっては――すなわち欧米人の社会を想定しているだけれど そこでは―― 是が非でも 論理で人を丸め込む。(買収や脅しなどについては いまそう為し得るかぎりで取り上げないこととする)。  (5) 繊細の精神にうったえる社会では その論理を象徴とその伝播としてのクウキなる権威に関係づけて人を丸め込む。でもやはり 論理なのである。  (6) われわれ日本人も じゅうぶんに論理的に考えている。  もっぱらのアマテラス公民(お二階のえらい人びと)にあってはそれが得意中の得意であるかも知れないし スサノヲ市民が国の内外にわたる問題に対処するときにはやはりアマテラス公民として――アマテラス普遍語(科学語および人格語)を用いてこそ――思惟し行動するのである。普段は あやまちうるスサノヲ人間語をもっぱらしゃべっていたとしてもである。  どうでしょう。

  • 人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代

    人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代国家の民主政治に至ったか。 市民革命や君主処刑、権利宣言の世界史上有名な具体例を挙げつつ、以下の言葉を使って説明せよ。 《旧体制/絶対王政/身分制/家産国家/朕は国家なり/市民革命/regicide/ 社会契約/身分制の解体/自由且つ平等な諸個人/republic/君主主権/ 被治者の自由な選択によって成立した国家/権利宣言や憲法の制定/自然状態/ reign but not rule/王権神授説/万人の万人に対する闘争/e pluribus unum》 これは政治と法に関する問題であり、自分で解いたのに納得のいかなかったものです。 参考にしたいのでお手本、お願いします。

  • 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

     社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

このQ&Aのポイント
  • パナソニックのHC-W590MのビデオカメラをEMP-822のプロジェクターで見るために接続方法を知りたい。
  • ビデオコード(ミニプラグ)を買って接続したが、反応しない問題について解決方法を教えてほしい。
  • EPSON社製品のEMP-822プロジェクターでパナソニックのHC-W590Mビデオカメラを使用するための接続方法を教えてください。
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