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なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?

jiromeijinの回答

回答No.4

仏教関係の文献では、説法は釈迦の死後500年前後は弟子から弟子へと口伝で伝わり、その後文字化(パーリー語という古代インド語の経典)されて行ったとされています。釈迦の弟子も分派し、経典も作りかえられ増刷?されて散らばり、スリランカやチベットへ伝播されたようです。一部はシルクロードを経て中国へ伝わり漢訳されました。それが日本に伝わって、日本仏教の原型となるわけです。なので、どれが本物に一番近い経典かと言うのは、「良く判らない」というのが、間違いのないところでしょう。 自分では、「釈迦は、悟りは開いた」が、それぞれの人間には「釈迦が悟りを開くまでの苦しい道のり」は踏破できないのがわかってしまうので、道スジは示したが助け(何を、どの程度まで救うのを『助け』とするか?)はしなかった。のではと、勝手に解釈しています。美味しいものもまずいものも、自分で体験したものでないと真価は判らないものです。 「輪廻転生」を止めるのが仏教ですが、我々凡夫は何回も生まれ変わって少しづつレベルアップしていくんでしょうね。 仏教は、四苦八苦からの 生       生きる苦しみ 老       老いる苦しみ 病       病む苦しみ 死       死ぬ苦しみ 愛別離苦   愛するものと別れる苦しみ 求不得苦   求めるものが手に入らない苦しみ 怨憎会苦   恨み・憎しみに会う苦しみ 五蘊盛苦   五蘊(ごうん 五感)を感じる体を持っている苦しみ ~の永遠の解放です。うまい事を言いますね。

noname#142902
質問者

お礼

本物に近い経典が未だに不明、というのはとても興味深いです。 <美味しいものもまずいものも、自分で体験したものでないと真価は判らないものです。>という一説が身にしみました。理屈よりも経験というのは確かにその通りです。苦しむことも必要だからこそ、他人を救うのは他人の苦しみという貴重な体験を奪ってしまうことなのかもしれません。苦しみの湯の中で煮立って一人前になる、とは私が尊敬する本多信一さんの本の内容ですが、苦しみ抜き、地獄の業火の中で屋がれる様な思いも実は必要なのかもしれません。仏陀はそこまで悟っていたからこそ他者を安易に救うことを自分で禁止していたのかもしれません。 私も人生で様々な苦労を積み重ねただけ人の苦しみが分かるようになってきた気がします。自分よりも苦しかったであろうひめゆり学徒隊を想像して涙が止まらなくなったこともあります。今までの歴史の中で無念の想いで亡くなった方々に今改めて合掌します。 長々と失礼致しました。

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