• ベストアンサー

“命”=○○のみこと or 天命・革命

   1) “○○の尊”は尊格を示すのでしょう。この“○○の尊”を“○○の命”と表示する場合もあるようです。  その場合の“命”にはどんな意味合いがあるのでしょうか?生命ではないような気がします。  2) 天命とか革命でも“命”という字が使われています。   この“命”は“命令”とか“意志”、或いは“方針”という意味でしょうか?    3) もし以上の通りなら、“生命”という語とは何か共通性のようなものはあるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.1

こんにちは。 辞書によれば「みこと」についは「御言」から。 そして、命と尊の使い分けに関しては、 「古事記の表記では「命」に統一、日本書紀では、至って尊いお方には「尊」、それ以外には「命」と使い分けている。」 とあります。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%A8&stype=1&dtype=0 また、「詔(みことのり)」(御言を宣ること)という言葉もありますので、「みこと」には本来、「天皇・貴いお方・神のお言葉」という意味があったと考えるのが自然だと思います。 そこで、 ・神や貴い人が決めたこと、神の意志、お告げ ⇒ 運命、天命、使命 ・神が決め、神がもたらしたもの ⇒ いのち、生命 ・(転じて)人が決めること ⇒ 命令、命ずる、拝命、命名 というふうに考えると、すべて一本の線でつながっているような感じがしませんか?

krya1998
質問者

お礼

 有り難うございます。  お話は理解できました。でも馴染み、こなしていくには多少時間が必要かと存じます。  なにしろ言語という生物の問題でもあり、こちらの頭の理屈だけで繋ごうとすることには無理があるかもしれませんね。

関連するQ&A

  • 五十にして天命を知ることは出来るのか?

    孔子の言葉に、五十にして天命を知るというものかあります。この言葉は誰にでも当てはまるものなのか、孔子の場合はそうだったということなのかどうなんでしょうか?私は三十代男性ですが、自分が何のために生かされているのかさっぱり分かりません。昔思い描いていた(興味のあった)仕事とは全然違う仕事をしているし、体力的にハンディキャップがあるし(転職は不可能)、得意分野は全く仕事に繋がらないし、自分の特性や状況が、何のためにどこを目指してそうなっているのかさっぱり分かりません。それでも死なずに生きているということは何らかの意味があって生かされているのかなと思ったりしますが、何なのか分からず、自分がどこへ向かっているのかさっぱり分かりません。「自分の天命はこれだ」と気付いた方はいらっしゃいますか?それはどんな天命で何歳ごろに気付かれましたか?天命というのは誰でも分かるものでしょうか?それとも分からず一生を終える人も多いのでしょうか?天命というのは革命を起こすとかそういう大袈裟な意味ではなく、自分が生まれてきた意味、役割、自分はこれをするために生まれてきたんだというようなものです。ご回答よろしくお願いします。

  • 「命」をフランス語・スペイン語では

    「命」を、フランス語・スペイン語ではどう書き、発音するのでしょうか。 発音をカタカナで表現して頂けると有り難いです。 ここでお聞きしたい命は、いわゆる「生命」の意味です。

  •  みこと

     みこと  http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/185440/m0u/%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%A8/  昔の貴人や神に、“みこと”という言葉が付せられております。  1.この“みこと”ということばは日本固有古来のことばでしょうか?  2.これはお名前の一部でしょうか  3.その漢字として“尊”や“命”という字が使われています。   音読みでは“みこと”となりませんので、意味があってこの字が使われていると存じます。   意味や経緯について、伝わるもの或いは、ご研究はあるのでしょうか?  どうぞよろしくお願い申しあげます。

  • 『命あっての物種』の意味について

    【引用】 命あっての物種の意味 ⇒何事も命があるからできる。命がすべての物のもと。命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる。生命の危険を冒すようなことは避けるべし。(語:物種=物事の基になるもの。) ………………… とあるページにて上のような説明がなされていましたが、これは正しいですか?(※批判するつもりではないです.) 「物種」とは、あくまで、「物事のもととなるもの」であり、命があることを前提とした上で、命とは別の、新しく生じる何らかの事象の端緒糸口とっかかり(?)のことだと私は思っていました。 しかしながら初めに出した引用文章によれば、 「命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる」 とされてあり、あたかも「命」が種であるかのように説明されているのです。 どのように解釈するのが正しいのでしょうか?どなたかご意見ご回答の程よろしくお願いします。

  • 生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれてくるのでしょうか?

    生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれる必要があるのでしょうか? 川や海では、魚が産卵した数え切れないほどの卵やアフリカの草原などでは鳥の卵がチーターなどの肉食動物に食べられてしまいます。それは食物連鎖の一部で無駄なことはありません。 でも人間の場合、流産や堕胎、また母胎で自然に消滅してしまう場合、また最近社会問題となっている親から子への虐待などで、「そうされるのならば生まれてこなくてよいはず」の命が、生を感じる間もなくいともあっけなくすぐに死んで(殺されて)しまう現象は、哲学や宗教的な見方では一体どういう意味があるのでしょう? 輪廻転生では、今世は前世のカルマを解消するためにあるということですが、その使命をやり遂げるために、一旦母胎に居場所を与えられ、産み落とされます。その後幾年かで死ぬことになる運命であっても与えられただけのカルマは解消された結果だと思います。 でもまだ他人の支援がなくては生き続けることもできない赤ん坊、この世に生まれいずることもない命は一体なぜ一応生命体となって現れるのでしょうか?? 魂がエネルギー体ならば、エネルギーを与えるためのエネルギー(個人的な考えですが、それは神様が使うエネルギー)とエネルギーを一度包括する受容物(母胎)が使うエネルギー、どれも無駄なことではないか?と思うからです。 また哲学的、宗教的な見解、また学問的なことではなくても、率直な感想でもよいです。皆さんのご意見をお伺いしたいです。

  • lifeの意味

    lifeの意味が広すぎていまいちぱっときません protect the lives of the Japanese lifeの可算名詞を調べると 個人の命、生命、(生命をもった)人、生涯、一生、寿命、(具体的な)生活 など多くの意味があるようなのですが上の文ではどれに当てはまるのでしょうか? 生活なのか命なのか 英語を日本語訳にするとたくさんの意味がある場合はどちらとも意味としては取れると大まかに見たほうが良いのでしょうか? つまり私が言いたいのは英語からしてみれば生活も命も同じ意味 よろしくお願いします

  • リスクのある出産と命の選択

    先人のアドバイスを頂きたく、投稿させていただきます。 自分には妊娠7週目の妻(30歳)がいます。 予定していた初めての妊娠なので夫婦で喜んだのですが、病院での検査が進むにつれて予想外の状態であることを担当の医師から告げられました。 妻は元々、身体が強いほうではなく貧血持ちで何度となく気を失って倒れたり血液型がB(RH-)ということで手術時の輸血用血液が十分に用意できるかなど、身体が妊娠を継続するには厳しいということで、このままの状態で妊娠を継続させれば、親の命かあるいは子の命か…ということになりかねない。 子は諦めることを勧めたいのですが、それは夫婦間でよく話し合ってください。そして産むのであればそれ相応の覚悟を持ってください、と告げられました。 妻の意志は「それでも産みたい」でした。「愛する人の子を産むことこそが私の幸せだから。」と。そして妻は何かを悟ったかの如く、自分の命と引き替えに産み、自分が居なくなった後に備えて、お金の工面はこうしてだとか、母親は必要だからいい人がいたら再婚してほしいだとか、もう10ヶ月以内にはこの世からいなくなるつもりで話をしていました。 夫の立場としては猛烈に反対しました。子供は愛しいですが愛する妻を失うことほど辛いことはありませんから。ですが妻の身体のことを考えると次回などというチャンスもなく、子供を諦める二人だけの生活も妻にとっては考えられないことのようでした。 話し合いの日々が続いたある日、「私も生き残れるように頑張る。あなたと子供だけ残していくのは心配だから。」と言ってくれました。が、命の危険があることにはかわりはありません。 子供を無事に産むにはできるだけ子宮の中にとどめておく必要はありますが妻の命が危険で、妻を優先すれば早産で子の命が危険になります。素人の浅知恵で、そのあいだをとってNICUでなんとかならないものかとも思いましたが、妻の場合は通常よりも格段にリスクが高いそうです。 妻の母親は「あなたたち夫婦が決めること。だけど、自分の娘を想う親の気持ちも理解して欲しい」父親は怒りのあまりとりつく島もない状態です。 もし妻だけ生き残れば両親としては子のことは残念ながらも安堵するでしょうが、妻としては子を失ったことで自分を責め、または自分が妻を優先して子を諦めるような医療方針に同意したとしていたら恨まれることでしょう。子だけ生き残れば妻の両親に一生憎まれるかもしれません。 どちらにしても苦難はあると思いますが、愛する妻の意志であれば優先してやりたい、そしてそれをずっと傍で支えて見守っていきたいし、それが義務であるとも思います。 ですが正直、妻も子も失いたくはありません。贅沢なことなのでしょうが…。 妻の意志には納得した上で、いざという緊急事態のときには妻には告げずに、妻の命を優先して分娩手術をしてもらおうかと思ってもいますが、それが正しいことなのかどうかもわかりません。 長くなりましたが、同じような経験をされた方がいらっしゃいましたらアドバイスをいただければと思います。 宜しくお願いいたします。

  • イスラムの人はどうしてテロのとき自爆するのですか?

    テロが頻繁に起きてます。 イスラム教徒の方のテロに共通するのは自爆することです。 自爆などせずに、時限爆弾を仕掛けて戻ってくれば、 再度爆弾をしかけられますね。 いちいち自爆していてはメンバーが足りなくなってしまいます。効率わるいです。 ☆これは相手の命を奪うのだから、自分の命も存在しえな いという潔い(?)意志のあらわれなのでしょうか? ☆もしゴルゴ13のようなテロリストがいたら仲間から尊 敬されないんでしょうか?それとも犯罪人として罰せら れてしまうのでしょうか? ☆日本の特攻隊も自爆テロと手法が似ています。爆弾を落 として、戻ってくるほうが効率がよいはずなのですが、 どうして爆弾と一緒に突っ込んだのでしょうか?命中率 が高いからといって、人命と飛行機が無くなるのでは割 にあわないのではないでしょうか?

  • 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?

     ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう?  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13  ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.  ・μείζονα  ταύτης  ἀγάπην  οὐδεὶς  ἔχει  ἵνα  τις  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  θῇ  ὑπὲρ  τῶν φίλων  αὐτοῦ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。  (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか?  (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか?   (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか?  (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか?  (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか?  (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。  すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。  これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。  (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。  ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11  ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep.  ・ Ἐγώ  εἰμι  ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλός    ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλὸς  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  ὑπὲρ  τῶν  προβάτων  ~~~~~~~~  ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど  《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  )で同じく表わされている。  よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか?  (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。  ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか?  (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか?  ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~  イエスは答えられた。   「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν  ψυχήν  σου   θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ)  と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」  (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか?  ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~  わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι  τὴν  ψυχήν  μου  つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。  ▲(同上 10:18) ~~~~  だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι  αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι  αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか?  (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか?  (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?  以上よろしくご教授ください。

  • 古語の「べし」はどうして意味が多いの?

    古語の「べし」が多義語でいろんな意味があります。(現代語もほぼ同じ) 〔推量〕…にちがいない。きっと…だろう。(当然)…しそうだ。 〔意志〕(必ず)…しよう。…するつもりだ。…してやろう。 〔可能〕…できる。…できそうだ。…できるはずだ。 〔適当・勧誘〕…(する)のがよい。…(する)のが適当である。 〔当然・義務・予定〕…するはずだ。当然…すべきだ。…しなければならない。…することになっている。 〔命令〕…せよ。 どうしてこんなに意味がたくさんあるのでしょうか? 意味がとりにくいのでとても不便です。 歴史的背景があれば知りたいです。 あいまいさを表現するのに便利だからでしょうか? 豊かな日本語といえるものなのでしょうか? それとも困った日本語でしょうか。 よろしくお願いします。