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結局は人生「幸福に生きよ!」って事なのでしょうか?
- 人生を幸福に生きるための考え方や悩みの解消方法について質問しています。
- 自己評価の低さや将来への不安などが気持ちを揺さぶり、幸福を感じられない時があることを述べています。
- 他人と比較せずに自分自身を受け入れ、幸福な生き方を見つけることの重要性について考えています。
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ある時、神様が現れて、これまでの人生にプラスして(1)この世の真実の全て、または(2)人生の幸福、この2つのどちらかをおまえにやると言ったとしたら、あなたはどちらを選びますか?その簡単な理由も教えてください。神様が苦手なかたもおられるかもしれませんが、気にしないでください。 (1)この世の真実の全てを選ぶと疑問に思っていること全ての正しい解答が得られます。 宇宙はどのようにして誕生したのか?宇宙の果てはどうなっているのか?人類の将来はどうなるのか?自分が死んだらどうなるのか?存在とはどうゆうことなのか?時間とは何なのか?ありとあらゆる疑問に思うことに全て正しい解答が得られます。ただし、知的好奇心を満たすことしかできません。これを世の中に発表したり、自分の金儲けに役立てたりすることはできません。 (2)人生の幸福を選ぶと、天寿を全うするまで一生ハッピーに過ごせます。何がハッピーかは人によって違うと思いますが、本人がハッピーに感じる人生を送れます。例えば、家族に愛されるとか、やりがいがある仕事に恵まれるとか、生活の心配をしなくていいとか。 これまでの人生にプラスしてということなので(2)を選ばないと不幸になるということでもありません。 もちろん、(1)(2)どっちもいらないという回答もありです。 皆さんはどちらを選びますか?(あるいは選びませんか?) さて、なぜこんな質問をしたかと言うと、かなり多くの人は(1)より(2)をめざすのじゃないかなと思ったからです。もし真実を知って得られた回答が非常に苦いものであったばあいに、それを捨てたいと思うのじゃないかと。質問というのは、本当を解答を知りたいと思ってするのだと思いますが、実は多くの人は本当の解答より自分がハッピーになる回答がほしいのではないかと思いました。
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私は24歳です。人生の先輩方、教えてください。 私はこの歳で重病になり、障害をもちました。片耳、聞こえなくなって複視になりました。再発の危険もあります。仕事、辛かったけど頑張った結果、ストレスでこんなことになって神も仏もない話です。なんて私は不運なんだろうってずっと考えてました。私につめたくあたってた人たちがなるべきなんじゃないの?って。顔も不細工でとりえもない私がこんな風になって。何で私なんだろうって、人生、つぎつぎうまくいく人もいるのに何で私は・・・こんなにも一人の人間にかたよるんだろうって。人生とか運とかずっといろいろ考えてて・・・。今日、ある本を読んでその本に「今が不幸であれば、次に必ず幸福がくる」って書いてたのを読んだのですが、本当でしょうか?ただの気休めじゃなくて?根拠はありますか?こんな私に幸福きますか??
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今24歳の男ですが中学頃から幸福とは何か、自分はこの人生で何をするべきなのかという観念的な問いに独り悩み、そこから離れることが出来ず意味不明な人生を歩んできました 思春期に入り性欲に目覚め、周りが恋愛にいそしみ普通の幸福を目指していく中、自分は悶々と哲学や暗い作品等で健全な道徳・社会性とはズレた知識をとりこんだり、 またそこからくる社会不安で引きこもったりして、徐々にこのようなしちめんどくさい性格へとデザインしてしまいました 帰属による安心や安全が気分よく嬉しいものだとは分かっています 一瞬ですが好意を寄せて貰ったこともあります しかしなんというかだからこそ怖いというか、とにかく、 「“罠”なんじゃないか?」 「本当はもっと違った何かがあるのではないか」 という疑惑が消えません 人によれば中二病とか童貞をこじらせたと言われることだと思います 仮にこれまでの人生がいわゆるリア充と呼ばれる生活であったなら変わっていた、いや変わらざるを得なかったと思いますが、 今ではとうとう 自分は一生独りで生きていくべき。それが真にカッコいい生き方なんだ。とか思うようになってしまいました もう峠は越えたので多分死ぬまで守れます そこで皆さんにお聞きしたいのですが、 ○幸福とはどういう状態か ○本能的な快楽や帰属的な充足を排した幸福はあり得るのか ○童貞であることのアドバンテージはあるか お願いします。前置きが長くなってすみません
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お礼
ネガティブを丸っきしひっくり返す。 そんな事は、流石に根っこの事なので、実現するのは厳しいかもしれません。 それでも、回答者様のお言葉を参考にして、 「んまぁ、そんなもんだよな」って前向きに復活するようにしていきます。 本当にありがとうございます。回答して頂けるだけで、とても嬉しいです。 背中を押してもらえる事ほど、今の自分にとっての恵みだと思います。