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人間とは何を指すか?

人間って何でしょうか? 私は人間というのは体ではなく 心や精神を指すと思うのですが 普通は体と心両方で人間というようです。 しかし脳死した人を家族の同意の下 臓器移植するように 矢張り人間は精神ではないかと思うのですが・・・ 貴方は人間とはなんだと思いますか? 体が伴って人間という向きもあるようですが・・・

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  • QES
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回答No.4

色・受・想・行・識の5つを備えたものが人間です。 色は物体としての体そのものです。 そして一般に心と言っているのが受・想・行・識です。 受は感受性の受であり、外部から刺激を受け反応する性質です。 想は深層心理で、今までの経験した記憶の積み重ねです。 行は行動で、体を動かす仕組みです。 識はそれぞれの持つ判断能力です。 ご質問の脳死の状態は、体は存在しても、感受性も過去の記憶も行動することも判断能力も失っており生きている人間とはみなされないわけです。 また犯罪時に精神が錯乱状態にあって正常な判断が出来なかったとみなされる場合は罪に問われないのも、物体としての体は存在しても人間の行為とはみなされないからです。

yuniko99
質問者

お礼

仏教的な解釈からのお答え どうもありがとうございます。 体も在っての人間なのですね 成る程 いい教えだと思います。どうもです(*^^)v

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その他の回答 (13)

回答No.14

>自分が宇宙を存在させているとは思わないですねえ。 「宇宙の片隅に人間がいての宇宙をみて脳内に小宇宙を認識する」 ということと、「自分が宇宙を存在させている」こととは、対立しているのではなくて、 同じ事なんですよ。 冒頭の「宇宙の片隅」の「宇宙」は、あなたが言われる「脳内の小宇宙」そのものなのですから。 強いて言うなら、人間が「宇宙の片隅に人間がいる」と「自分が宇宙を存在させている」の両方を肯定する量子論的な脳の構造をしていると言うことかと思いますね。

yuniko99
質問者

お礼

自分が宇宙の中心にいて 宇宙は自分の為に在る という思いと 自分は宇宙の片隅にいて 木っ端よりも無に近い存在に過ぎないという考え その両方を持って生きて行きたいものです。 どうもありがとうございます(*^^)v

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noname#122428
noname#122428
回答No.13

>貴方は人間とはなんだと思いますか? 人間と他の生き物の決定的差という意味ならば 緻密な精神・多様さを生み出す自我・高度な機能を実現する大脳でしょうね。 ただし、これらは機能や道具ですから、使い方を誤れば動物以下の結果を招きます。 ということは、比ゆ的に言えば 人間とは 高性能・高馬力・高価な自動車に乗ってるが、運転が大変下手なひとのようなもの と言えるかもしれません。

yuniko99
質問者

お礼

共感できます 人間は水爆など破壊力は桁違いだし 自動車やガス 電力など温暖化も進むし 人口も全世界の地に満ちていますが それがますます人間を苦しめています 能力はありながらそれを制御できない 人間とはそう言うものかも どうもありがとうございます(^^)v

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回答No.12

>宇宙まで認識しているのでそれも人間だ と言うのは人間は小宇宙だという事でしょうか?  小宇宙どころではなく全宇宙です。  自分の外側に宇宙が存在しているというのは、宇宙が単独で存在しているのではなくて、自分が宇宙を存在させているという事実から全宇宙となります。

yuniko99
質問者

お礼

私はそう言う考え方をしません。宇宙の片隅に人間がいて 人間はその宇宙をみて脳内に小宇宙を認識する と思います。 自分が宇宙を存在させているとは思わないですねえ。 どうもありがとうございます。

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回答No.11

ご指摘のような意味での「人間というのは体ではなく心や精神を指す」 という意味では、『人間』ではなく、宇宙を指すと言った方が明確でしょう。 一般的には素朴唯物論(人間という物体に精神が発生する)が支配的 であり、「人間」というと肉体的な個体を意味します。 その意味では、自我意識=宇宙に二次的に生じた“自己の射影”が 「人間」であり、自と他は別であり、しかも本質的には1つのものである、 というのが正しいでしょう。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動= 自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じています。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質 =異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は 依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです (時間的延長と空間的延長における認識可能性)。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常 として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。

yuniko99
質問者

お礼

自我意識=宇宙 と言うのは私には分からないです。 宇宙(認識) というのも分からないです。 >宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常 として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 何でしょう アイデンティティのことを言っているのでしょうか?愛は分かります どうもありがとうございます。

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回答No.10

他の人、即ち、客観的に見る人間(どちらかというと肉体)と、人間である自分(どちらかというと精神)がオーバーラップするので、その度合いによってたくさんの回答があり得ると思うんですね。 話がずれるかもしれませんが、そういったことから離れて、人間とは何かを自分側から見ると、極論すれば人間とは全宇宙であると結論することもできると思います。 人間が人間とは何かを問うという、その人間の本質的な動態の視点には、人間が把握しているすべてが包含されているからに他なりません。宇宙とは何か。時空間とはなにか。社会とはなにか。・・etc・・これらは、結局すべて人間とは何かを問うているのと同義ではないでしょうか。そして、それらすべては知り得ないまでも、ことの限界を知ってその時代の人間とは何かをある程度知ったことになるような気がします。 そういうことからすると、人間は肉体的物質的なものに先んじて精神的何かであろうかと思います。 肉体が人間で頭の中身が猿だと、人間とは何かを彼は一生問うことはないでしょう。

yuniko99
質問者

お礼

>人間とは何かを自分側から見ると、極論すれば人間とは全宇宙であると結論することもできると思います。 宇宙まで認識しているのでそれも人間だ と言うのは人間は小宇宙だという事でしょうか? 私も人間の使う道具 言葉 学問も人間の一部と考える者です。 どうもありがとうございます(^^)v

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回答No.9

冷酷で残忍、自分勝手で、暴力によってしか制御できないヒトを犯罪者とし それを刑罰の存在理由とするならば 刑罰(暴力)が無くても罪を犯さないヒト、それを人間と呼ぶのでは

yuniko99
質問者

お礼

人に関する条件という事でしょうか 人間としての資格を問う訳ですね 刑罰を犯さない人間 矢張り真人間でしょうか? どうもありがとうございます(*^^)v

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回答No.8

脅えから攻撃的になるとか 恐怖から逃れ、あらゆる物を独占したときに悦楽を感じるとか 強欲だとか、人を弄ぶ残忍性とか、冷酷さ、極端な自己愛 これと真逆なのが「人間」 犯罪性と逆のもの

yuniko99
質問者

お礼

成る程 この様なヒューマニズム?が答えになるわけですね 勉強になりました。間逆の人間は真人間ですかね。 どうもありがとうございます(*^^)v

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  • hanniyagi
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回答No.7

少し、悪い(=良い?)回答をしてみましょう。 中学の頃、 ホモ・サピエンス、知恵がなければ、ただの猿。と言った奴がおり。 それに対して、違う、心、があるだけ、猿以下だ。と云うような問答がありました。 そういう話になった元は、一人の友人の死にありました。 彼は、歳下からも、「・・君」と呼ばれていました。 善良で一見普通の子。と見える彼を、親しみと嘲笑を込めて?「・・君」と読んでいたのは。 彼が天然痘後のあばた顔だったからではなく、彼は、知恵遅れ、だったのです。 熱病の後遺症なのか数学などの思考力は全くない、と先生は言っている。という噂でした。 彼は英語が得意でした。学校の帰り道などで、彼に会うと。「・・君、英語教えてよ」と言って近づくのは、私だけの事ではありませんでした。かれは流ちょうに、英語の如き、イントネーション、発声をし。意味まで付けてくれていました。彼はそれが、英語、だと思っている。いや英語が出来るふり、か゜通用している。と思っているようでした。 夏休みのある日、ボール遊びをしていた私たちの元に、壕で誰か溺れ、人が出て潜って探している。 溺れたのは「・・君らしい」との情報が入り。 行ってみよう、と皆で駈けだしました。 近くまでたどり着いた時、ござ被せられ戸板に乗せられ運ばれて行く、遺体の足先を目撃しました。 目撃者の話は 壕の畔に、「・・君、が何人かの小さな女の子達と一緒に座り。身振り手振りで、これがクロールだ、 これが、平泳ぎだ、と、得意げに?教えているようだった。やがて、立ち上がり、服を脱ぎ、頭から、 池に飛び込み。そのまま浮いてはこなかった。という事でした。 彼は泳げなかったのです。母親に「お前は、他の子とは違うんだから、水に入ってはいけない」と諭され。泳ぐどころか、川遊びもしたことがなかったのです。 それが、小さな女の子たちに、泳いで見せて、と云われたのかどうか。自分が泳げない事も忘れたのか、泳げる気になったのか。頭から水に飛び込んだのです。 かれは、知恵がないから、ではなく、心、があるから猿にも劣る行動をとったのではないか。 という問題であり。 「ホモ・ルーデンス」という本がありましたが。人類の歴史は、心、思惑、故に、最悪の動物、とも見ることも出来るはずです。 人間の脳が、神経の集積であるなら、思考回路も二重になっているはずであり。欲望や感情の総体としての、心、は意識出来る。しかし、自己と結びつかない、我がなくとも有る世界、を考える、知恵は、自覚出来ない、意識することは出来ない。自分に知恵があると自覚することは出来ないはずなのです。 出来る、としたら。知恵を考え方に置き換えるなら、その考え方は、自覚出来る。 心=知恵 より。 心×知恵=脳の活動=一定 ではないでしょうか。 最近、ニーチエと三島由紀夫が、ブーム。の感がありますが。 人間、超克すべき何か。(ニーチェ) と、知行合一、の陽明思想 ともに、心の否定、の思想であり。 心の時代、女性の時代、とは知恵のない時代である。との認識が出てきているのではないでしょうか。 、

yuniko99
質問者

お礼

その人が猿にも劣る自殺行為で亡くなった事は残念ですが 人間というものは人の心を持っているものですから 知的に障害があっても人間に違いは無いのではないでしょうか? 知恵は心に含まれているのか 精神になら含まれているのか >心×知恵=脳の活動=一定 というのも よくわかりません >心の時代、女性の時代、とは知恵のない時代である。 そう言う考えもないですねえ どうもありがとうございました。

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回答No.6

外側から考えてみましょうか。 オオアルマジロの個体一頭と人間の個体一人、どちらが大切でしょうか? 外側から考えるので、どちらが大切にされているでしょうか?ですね。 発言に躊躇せざるを得ないのですが、直感的回答とは異なり、オオアルマロの個体ほどにも大切にされていない人間の個体を探すのは造作もないことでしょう。 オオアルマジロの個体一頭を保護するために費やされる努力が、すべての人間に費やされていたら、アフリカで毎日死んでゆく人間の子供たちは居なくなるでしょう。でも、実際には人間社会はそうしないですね。オオアルマジロの方が大切にされている。 精神を持っている、精神を持つことができる人間と、精神を持っていない、精神を持つことができそうもないオオアルマジロ。 そのオオアルマジロの方が大切にされる現実は、私たちに人間とは何かを考えさせます。 敷衍すると、人間は希少であったから、何よりも大切にされた。 今、人間の個体が6,900,000,000人にもなり、その他の哺乳類以上の個体数になった。 希少で無くなった人間は果たして貴重か? 人間であれば必ず大切にされるはずだ、という古典的な価値観に、哲学的な見直しをしなければならないのかもしれません。 回答にはなっておりませんが「人間が貴重だ」というテーゼに対する疑問を共有させていただきました。

yuniko99
質問者

お礼

人間は可能性がありますし 心があればそれだけで人と繋がっていますから 希少価値はなくても貴重なものだと思います。 オオアルマジロのほうが待遇が良いと言う現実はありますが 是非人口問題を解決して人権を取り戻して頂きたいと思います どうもありがとうございました(*^^)v

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  • cyototu
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回答No.5

国によって人間の意味が微妙に違います。例えばお隣の中国では、人間とは人のことではなく、人と人との間の関係、あるいは社会のことを指します。人間を人と言い換えることは出来ません。ところが、日本では人間という言葉は人と同じ意味で使われます。勿論日本にも一応意味に微妙な違いがあって、生物学的に人間を指す場合にはヒトと書きますが、一般には人間と人とは同じものを指しています。このことを見ても、「人間とは何ですか」という問いは、国や文化によっていろいろな答えが出て来ることが解りますね。ですから、例えば "What is human?"という問いの答えは、「人間とは何ですか」の問いの答えとは全く違ったものになり得ることもお分かりでしょう。人間とは、結局外国物の書物を幾ら読んでも理解することは出来ず、自分の埋め込まれた文化の中でのみ理解出来る存在と言うことになりますね。 さて、日本人は何故人間を人と同じだと考えるようになったのか。それは、日本人の人間観、すなわち、「人間とは何か」の考え方の一つの表現だと考えられます。日本人に取っては、一人きりの存在を考えることが出来ない。人とは必然的に複数で存在し、人と人との間で意思の伝達を行いながら、その遣り取りで自分の存在を確認出来る者だと考えているからでしょう。即ち、その意思の伝達が出来ないものは人間ではない。そう考えると、何故、日本語には「一人前」とか「半人前」という、世界にも類を見ない、外国人が聞いたらびっくりするような言葉が存在するのかが判って来ます。日本人にとっては、半人前の人は未だ人間にはなっていない。一人前の人だけが人間として認められているようです。ですから、日本人に取って人間とは、「まともに意思の疎通が出来るようになっている人」のことを言うようです。 ところが、意思の疎通は精神だけで出来るかと言うと、そうは行きません。日本人より遥かにおしゃべりなアメリカ人でも、意思の疎通の80%以上は所謂ボディーラングエッジ、即ち、顔の表情の変化や手足の動きで行っていると言う研究結果が出ています。そして残りの20%程は言葉を通して行っているのですが、その言葉と言えども、口や舌が無ければ存在出来ないし、耳が無ければ聞こえません。そして、言葉や体の動きの受け取り方によって、相手の考え方が全く違った物にもなり得る。相手ばかりではありません。自分の体の調子が悪いと、その人の精神は大変な打撃を蒙ります。だから、体の動きは精神に多大な影響を与えます。多分、精神が体に与える影響よりも、体が精神に与える影響の方が圧倒的に大きいかも知れません。 以上の考察から、人と人間を区別しない日本人に取って、一人前の人となって人間と認められるようになった存在は、精神と体が渾然一体となった存在であり、精神が主だとか体が主だとかの序列を付けることに全く出来なくなってしまった存在であるとことが解りますね。 上でも述べましたが、この人間観は文化によって異なります。だから、人間とは何かを考えるには、貴方は日本人である前に人間であると言う訳ではなく、貴方がそんな普遍的な人間である前に日本人であるという事実を認識することが、より本質的であることが判りますね。実は、もっと突き詰めて行くと、人間とは何かを理解するには、貴方が人間である前に貴方自身であると言うとを理解する必要があります。貴方は何故貴方なのか。それは貴方が貴方の家族の一員である、あるいはあったことが本質的であり、その家族が日本語を話して日本語で物を考える日本人であったことが本質的であり、さらに、その日本人はこの地球上に存在する外国語を話す人々と共に生きていることが本質的だったのです。ですから、貴方が貴方でありそして人間であることを理解するには、貴方が人類全体の中でどのような特殊な文化の中に埋め込まれているのかを理解することが本質的なのです。 余談になりますが、「人間て何んでしょうか」に対する全く違った切り口もありそうです。たとえば、フランス人にフランス人と何かとか、イギリス人にイギリス人とは何かと言うことを教えられるようになることが国際人になると言うことではなく、外国人に日本人とは何かを教えられるようになることが、貴方が国際人になると言うことですね。それと同じように、貴方が他の人に向かって、その人って何なのかを教えられるようになることが人間になると言うことではなく、他の人に向かって貴方が何なのかと教えられるようになることが、貴方が人間になると言うことも出来そうです。そして、そのようになった時に「人間とは何か」の答えが見付かるのだという見方もありそうですね。

yuniko99
質問者

お礼

まったく大変ありがとうございます。<m(__)m> 人間とは人とは そして日本人とはなど非常に参考になる意見で 驚いております 私はまだ一人前ではなく 我流の考えの半人前だと思います。 色々納得しながら読ませて頂き 本来なら私 過敏性の腹痛があるのでこの長文は読めるかな?とも思いましたが 一気に読めました。 ただ拘るというのではないのですが では私は何者か?と己に問うと 私は精神だ という答えが返って来そうな気がします。 しかしベストアンサーに選んでも良い様な答えを どうもありがとうございました(*^^)v

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