• ベストアンサー

人間とは何を指すか?

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

国によって人間の意味が微妙に違います。例えばお隣の中国では、人間とは人のことではなく、人と人との間の関係、あるいは社会のことを指します。人間を人と言い換えることは出来ません。ところが、日本では人間という言葉は人と同じ意味で使われます。勿論日本にも一応意味に微妙な違いがあって、生物学的に人間を指す場合にはヒトと書きますが、一般には人間と人とは同じものを指しています。このことを見ても、「人間とは何ですか」という問いは、国や文化によっていろいろな答えが出て来ることが解りますね。ですから、例えば "What is human?"という問いの答えは、「人間とは何ですか」の問いの答えとは全く違ったものになり得ることもお分かりでしょう。人間とは、結局外国物の書物を幾ら読んでも理解することは出来ず、自分の埋め込まれた文化の中でのみ理解出来る存在と言うことになりますね。 さて、日本人は何故人間を人と同じだと考えるようになったのか。それは、日本人の人間観、すなわち、「人間とは何か」の考え方の一つの表現だと考えられます。日本人に取っては、一人きりの存在を考えることが出来ない。人とは必然的に複数で存在し、人と人との間で意思の伝達を行いながら、その遣り取りで自分の存在を確認出来る者だと考えているからでしょう。即ち、その意思の伝達が出来ないものは人間ではない。そう考えると、何故、日本語には「一人前」とか「半人前」という、世界にも類を見ない、外国人が聞いたらびっくりするような言葉が存在するのかが判って来ます。日本人にとっては、半人前の人は未だ人間にはなっていない。一人前の人だけが人間として認められているようです。ですから、日本人に取って人間とは、「まともに意思の疎通が出来るようになっている人」のことを言うようです。 ところが、意思の疎通は精神だけで出来るかと言うと、そうは行きません。日本人より遥かにおしゃべりなアメリカ人でも、意思の疎通の80%以上は所謂ボディーラングエッジ、即ち、顔の表情の変化や手足の動きで行っていると言う研究結果が出ています。そして残りの20%程は言葉を通して行っているのですが、その言葉と言えども、口や舌が無ければ存在出来ないし、耳が無ければ聞こえません。そして、言葉や体の動きの受け取り方によって、相手の考え方が全く違った物にもなり得る。相手ばかりではありません。自分の体の調子が悪いと、その人の精神は大変な打撃を蒙ります。だから、体の動きは精神に多大な影響を与えます。多分、精神が体に与える影響よりも、体が精神に与える影響の方が圧倒的に大きいかも知れません。 以上の考察から、人と人間を区別しない日本人に取って、一人前の人となって人間と認められるようになった存在は、精神と体が渾然一体となった存在であり、精神が主だとか体が主だとかの序列を付けることに全く出来なくなってしまった存在であるとことが解りますね。 上でも述べましたが、この人間観は文化によって異なります。だから、人間とは何かを考えるには、貴方は日本人である前に人間であると言う訳ではなく、貴方がそんな普遍的な人間である前に日本人であるという事実を認識することが、より本質的であることが判りますね。実は、もっと突き詰めて行くと、人間とは何かを理解するには、貴方が人間である前に貴方自身であると言うとを理解する必要があります。貴方は何故貴方なのか。それは貴方が貴方の家族の一員である、あるいはあったことが本質的であり、その家族が日本語を話して日本語で物を考える日本人であったことが本質的であり、さらに、その日本人はこの地球上に存在する外国語を話す人々と共に生きていることが本質的だったのです。ですから、貴方が貴方でありそして人間であることを理解するには、貴方が人類全体の中でどのような特殊な文化の中に埋め込まれているのかを理解することが本質的なのです。 余談になりますが、「人間て何んでしょうか」に対する全く違った切り口もありそうです。たとえば、フランス人にフランス人と何かとか、イギリス人にイギリス人とは何かと言うことを教えられるようになることが国際人になると言うことではなく、外国人に日本人とは何かを教えられるようになることが、貴方が国際人になると言うことですね。それと同じように、貴方が他の人に向かって、その人って何なのかを教えられるようになることが人間になると言うことではなく、他の人に向かって貴方が何なのかと教えられるようになることが、貴方が人間になると言うことも出来そうです。そして、そのようになった時に「人間とは何か」の答えが見付かるのだという見方もありそうですね。

yuniko99
質問者

お礼

まったく大変ありがとうございます。<m(__)m> 人間とは人とは そして日本人とはなど非常に参考になる意見で 驚いております 私はまだ一人前ではなく 我流の考えの半人前だと思います。 色々納得しながら読ませて頂き 本来なら私 過敏性の腹痛があるのでこの長文は読めるかな?とも思いましたが 一気に読めました。 ただ拘るというのではないのですが では私は何者か?と己に問うと 私は精神だ という答えが返って来そうな気がします。 しかしベストアンサーに選んでも良い様な答えを どうもありがとうございました(*^^)v

関連するQ&A

  • 脳死について

    脳死についてレポートを書かないといけないのですが、疑問に思ったことがあるので質問しました。脳死は臓器移植の際に脳死と認められると聞きました。つまり、脳死状態に陥った人が臓器提供を望み、家族がそれに同意する場合は脳死と認められるということでいいんでしょうか?また脳死状態に陥っても臓器移植を望まない、あるいは家族が同意しない場合は脳死とは認められないのでしょうか?

  • 臓器移植

    脳死後の移植の話がよくニュースになりますが、脳死&心停止で死亡している人からの臓器移植というのはどうなってるのでしょうか?脳死による移植より、何千倍も多いと思うのですが、技術的に心停止した人からの臓器移植は無理なのでしょうか?

  • ~臓器移植 脳死~

    脳死になっている方の臓器移植への本人同意はどうやって得るんですか?脳死だと意識がないですよね。誰か教えて!

  • 看護師の方、教えてください。

    看護師の方、教えてください。 私は今、看護学校で臓器移植についての論文を書いています。 昨年出された臓器移植法改正案では、 「脳死患者からの臓器提供の決定権はその家族にゆだねる」となっています。 こうなると、脳死患者の家族には大きな精神的負担がかかり、精神的ケアが必要になると考えています。 このような「精神的ケア」に対してグリーフワークなどの活動も行われていますが、 看護師だからこそできるケアについてまとめていきたいと思っています。 そこで今、病院での「看護師の現状」について調査中です。 具体的に知りたいことですが、実際の医療現場で、医師等に看護師が意見できる場はあるのでしょうか? 患者や家族の身近な医療者である看護師が、家族の精神状態などを考えたときに、 医師の行動などに対して「こうした方が良い」などと言える状況にあるのでしょうか? 看護師は医師から下に見られている、という話を読んだことがあります。 私は、今回の改正案の臓器移植法が施行されたときに、 もちろん医師やその他の医療従事者は重要な存在だと思います。 しかしそれ以上に、脳死という受け入れがたい死に直面している家族と直接向き合う 看護師の存在は大きいものだと思うのです。 脳死という死の受容や看取りなどを考えたときに、やはり看護師は重要な存在だと思います。 よりよい臓器移植のために、「看護師を中心とした臓器移植」というのを この論文でまとめていきたいと思っています。 病院の中での「看護師の現状」や、その他意見・アドバイス等、 寄せていただけたら本当に助かります。よろしくお願いします。

  • 脳死は人の死だと思いますか? 臓器移植はどう思いますか?

    質問です。 脳死は人の死だと思いますか? 今は合法的に脳死になり本人・家族の同意があれば臓器を取り出すことができますが、私は脳死は人の死とは思いません。 理由としては ●心臓が動いている。 ●脳死状態の妊婦が出産したことがある(死人が子供を産めますか?) ●脳死状態になれば数日の内に死ぬと言われているが、脳死状態から回復する人もいる。  他にも色々ありますがこのぐらいにしておきます。 ドナーカードを持つことは「愛の行為」と言ってますが、ドナーカードを持っている人は、脳死・臓器移植について充分な知識はありますか?「愛の行為」という言葉にだまされてなんとなく持ってませんか? 私は臓器を合法的に取り出すために、脳死は人の死と法律で決められたと思います。脳死が人の死ではないと法律で決められてれば、臓器を取り出したら殺人行為になりますからね。 みなさんの意見を聞かせてください。

  • 脳死と臓器移植について。

    高1女です。 高校の課題で、脳死と臓器移植についての小論文を書くことになりました。 インターネットでいろいろ調べてみたのですが、 脳死や臓器移植についてあまりよくわかっていません。 今は、臓器提供をする意思があるときのみ 脳死判定をしているんですよね? あちこちで「脳死を人の死とするか」が議論されていますが、 それは脳死の患者、もしくはその家族が決めることではないのですか? そういう議論がされていること自体の意味がよくわかりません。 なぜこのような議論がされているのでしょうか? 教えてください><

  • 脳死は人の死?

    A案が可決され脳死から回復した事例があるのになぜとゆう気持ちで一杯です。 1、脳死の回復の可能性が摘まれてしまわないか。 2、脳死が人の死と定義付けられてしまったことで、回復を待つ脳死の方の家族が肩身の狭い思いをしないか。(臓器提供を迫られるなど...) 3、延命より臓器移植の価値が高まり脳死の治療がおざなりにならないか。 以上3点が特に不安に感じることです。人間生きている限り脳死になる可能性も移植を待つ側なる可能性どちらも起こりうるとは思いますが複雑な気持ちです。この点はしっかりフォローされるのでしょうか?ご意見を聞かせてください!!

  • 脳死と臓器移植について。

    脳死や臓器移植のことについて無知なので教えてください。 今の法律を変えて、脳死を人の死、と認めた場合 これまでより臓器提供・臓器移植は増えるのですか? 教えてください><

  • 臓器移植法A案可決=死の定義の完全な改定?

    臓器移植法改正のA案が衆院で可決されました。 年齢制限の撤廃に伴う問題や本人の同意の要否という哲学的な問題等、 さまざまな観点からのさまざまな問題点が挙げられると思います。 ただ、ここではこの法律のもつ意味について伺いたいと思います。 ニュース等のメディアの論調では、 臓器移植法のA案での改正=「人の死の定義」の(完全な)改定である との論理付けが目立ちます(この際参院での採決についてはひとまず措いておきます)。 私の認識では、たしかに「人の死の定義」の“一部”改定ではあろうかと思いますが、 これが“完全”な「人の死の定義」の改定だとするとしっくりこないのです。 「臓器の移植に関する法律」は臓器移植というある種限定された場で効力を発する法律だと思うのですが、 この法律中の医師が臓器を摘出できる死体の基準が、 あまねく医師の臨床の場での行動も律することになるのでしょうか? つまり、脳死状態が認められた段階で、医師の判断で治療を中止される(できる)のでしょうか? また、本人が臓器移植について拒否の意志を示していたか、 家族が同意しなかった場合、さらには家族が延命治療を望んでいる場合であっても、 医師の判断で治療は中止される(できる)のでしょうか? マスコミの論議や反対団体の声明等では、 「法の改正=延命治療の中止=医師の応召義務違反=長期脳死状態の人間の生存権の剥奪」 のような自動論理ができているようですが(もちろん論点はそれだけではないですが)、 本当に臓器移植法にここまでの法的な効力があるのか? 「脳死=人の死」はあくまでも臓器移植という限定された局面でのみ適用されるのではないのか? というのが疑問です。 以上、不勉強なだけなのかもしれませんが、 お教えいただければ幸いです。

  • 脳死の臓器提供についてですが、

    脳死の臓器提供についてですが、 自分や家族の場合を考えいろいろ調べたところ ちょっと怖い内容を目にして混乱しています。 出来れば移植の実際の様子をご存じの医師の方にお聞きしたいです。 下記のようなことは事実なのでしょうか?デマなのでしょうか? 1)脳死になるだろうと予測できる状態の患者がいた場合  脳死判定がきちんと行われて脳死が確定する前に  治療のための措置ではなく、臓器移植に備えた処置が行われる。 2)脳死判定が出て、脳死という宣告を家族が受けて、  臓器提供について悩んでいる間に、すでに治療から  臓器移植に備えた処置に切り替わっている。 3)脳死判定に必要な「無呼吸テスト」を実施したために  脳死になってしまう症例がある。 4)脳死状態の患者の臓器を取り出すときは暴れたり血圧が上がったりするので  モルヒネを打つことがある。 素人の自分としては上記のようなことは行われていないと思いますが、 自分の意思を登録する前にハッキリさせておきたくて質問しました。 よろしくお願いします。