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日露戦争の旅順要塞戦等で使用された28サンチ砲の設置について
日露戦争の旅順要塞戦等で使用された28サンチ砲の設置について 28サンチ砲は元々が要塞砲でありコンクリートの強固な土台に設置されるこ とが前提の砲でありますが、日露戦争では結構短期間で砲撃可能となっています。 これについて、たぶん20年以上前の軍事総合雑誌「丸」で版築工法(地面を深 く掘り下げたうえ、砂利・土その他補強材を混ぜて入れて「たこ」などで突き固 めて強固な一定の層を作り、これを何度も繰り返して強固な基盤を作る。) で土台を作って砲を設置して砲撃を行ったが、26tの砲から217Kg砲弾を 撃ち出す衝撃によりある程度砲撃を行うと、土台が変形して砲撃できなくなるの で、事前に同様の土台を横に作っておいてそこに砲を移動させて設置し、砲撃を 行ったとの記事を読んだ記憶があります。 しかしながら、「丸」を読んだのがあまりにも以前のため、砲の設置にどのく らいかかったか、同じ土台で何発ぐらい撃てたか、またどの戦場で行われたか全 く忘れてしまいました。 お知りの方がおられましたらお教えください。
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