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人を許す心を持たない者は、死より辛い人生を歩む。

人を許す心を持たない者は、死より辛い人生を歩む。  もしそうなら、許さず立ち向かい勝利を収め、 平和をもたらし、被害者を救った者は何なのか。  謝罪し許しを請う者は許し、 認めず改めない者は許さずと言う事だとしても、 許せない者の多くは、認めず改めない者達ではないのか。  許す事で自分が救われても、 他の被害者は見捨て被害の拡大も見捨てると言う事か。  同様の問題に苦しみ、ご自身なりの回答を見つけられた方、 よろしければお話をお聞かせ願いたい。  また、哲学、心理学、宗教などの見地、 特に釈迦様の見解等御存知であれば、何卒御教授御願い致したい。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

A175ARさん こんにちは。 「人」を自分自身に置き換えてみてはいかがでしょうか? 自分を愛して一致することが、 生きている充実感を生んでいるような感じを私はもっています。 こんなはずじゃない自分から、こんなのも自分だよねの自分への道。

A175AR
質問者

お礼

回答ありがとう御座います。 最初意味が分かりませんでした。 つまり考えもしないパターンだったからです。 自分を許す心・・・ ありがたい回答に心が震えました。 あなたには私の気持ちが理解できているのですね。 驚いて思わずプロフィールを確認してしまいました。 専門家だったんですね。                       そう考えればきっと救われるように思います。 それが出来ずに苦しんでいます。 ありがとう御座いました。

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その他の回答 (3)

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9772)
回答No.4

戦争のことだと思うけど、私が思うところの戦争は所詮「殺し合い」に過ぎません。 敵と味方が想定されて、ドンパチやってるだけの「ゲーム」ですよ。 そこには「救った」という概念なんか無いし、それは所詮「こちら側に都合がいいもの」に過ぎません。 すべては結果。 ものの見方はいくらでも変えることが出来る。 戦争にヒロイックなんて無いし、許すも許さないも無い。 あるのはただの「破壊」だけだ。 感情の一面をもって、それで真理を探そうとしても、それは「合わせ鏡」を覗き込むようなものだよ。 そんな世界に居ることは、私にとってはまさしく「無意味」でしかありません。 それが私の答えになるでしょう。

A175AR
質問者

お礼

回答ありがとう御座います。 戦争のことではありませんが戦争も同じ事です。 戦争に関して言えば私もtombanさんと同様 善も悪も無く無意味だと思います。 利権を理由に大量殺人が可能な人の心は理解に苦しみます。 中でも虚しいのは根源に宗教がある事です。 政治の統治ツール、心の整理法の学問、 この宗教の二面性の中で外郭ばかりが人の心を 捉えてしまい、本質が表に出てこ無い事です。 ありがとう御座いました。

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noname#118636
noname#118636
回答No.2

あえて許さないことが無限の富を生み出す 状況が悪くなったら許す これを延々とくりかしているだけで食って行ける構造がある ある程度の人数で群れたらそれこそが「政治」だ 脈絡はどうであれ、「認めない」ことは価値を生む 正論だけで世の中回らないし、 人間生きている限りは「政治」が存在する 政治を無視したら、それこそソクラテスだ、誰も自分の生きているうちに得をしない正論に、人は容易には同意出来ない 自分は限られた時間軸内で生きている生物なのだから だから、あえて認めないことも許容しないと生きて行けないこともある

A175AR
質問者

お礼

回答ありがとう御座います。 少し難しくて何度も読み返しました。 理解できていなければごめんなさい。 許しの行為に対し複雑に捕らえるよりも、 一つのツールとして捕らえ利用すべき、 と言う事でしょうか。 多くの人が当たり前に取っている行動なのですよね。 これが新鮮に感じると言う事は、私は相手の立場に など立てていない。ハッ とさせられました。 ありがとう御座いました。

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  • troml
  • ベストアンサー率17% (561/3167)
回答No.1

「人を許す心を持たない者は、死より辛い人生を歩む」という言葉は、正義のために戦うことは、戦わないで許すよりも、ずっと困難で苦痛に満ちた茨の道だってことじゃないですかね。 正義を貫くのが難しすぎるものだから、世の中の大多数の人は、戦うことを投げ出してしまうんですね。 実際、悪事を働く者との戦いを放棄するということは、悪事を認めるということであり、正義を歪めることなんだけど、そうすることを正当化するために、「許すことが尊いんだ」みたいな理屈が生まれたんじゃないでしょうか。 私は茨の道であっても、正義を貫く覚悟があるので戦いますが、全ての人が戦えるほど強くはないし、戦わない人を責めたりはしません。 但し、戦わない自分を正当化するために、戦う人を非難する人は卑劣だし、間違ってますよね。

A175AR
質問者

お礼

回答ありがとう御座います。 そうですね。言われてみるとそうかもしれません。 私はもっと教育的な意味で捉えていました。 罪を憎んで人を憎まず、許しの心を持ちなさい。 そんなふうに捕らえていました。                        いずれにせよ 許す と言う行為は 人の人生を左右する大きなテーマなのでしょうね。 ありがとう御座いました。

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  • 無の境地とは、死と向き合う生き様である。

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