• ベストアンサー

思想、判断、思考はすべて過去によって決まっているか

moonliver_2005の回答

回答No.4

どの哲学者の理論によるかで答えは大きく違うでしょう。 ウィトゲンシュタインという哲学者の理論では、世界は「永遠の真理、因果律、自然法則、物理法則、数学の定理・・・」そういう決まり切ったものは何もなく「ものはあるようにある。起きることは起きる。あるのは論理だけ。」という世界ですから、人の自由意志は世界の中で最大限働く余地があり「求めれば得られる、叩けば開かれる、捜せば見出せる。」と考えることができ、そういうように考えることの出来る人が幸福な人ということになっています。 Wの考え方を発展させると、思想ないし観念が社会の変革を引き起こすのではなく、世界を変えるのは事実や出来事であるということになります。そしてそういう世界を変える事実や出来事の根源に人間の自由意思があって、幸福を求める人間が世界を変えるという人間観・人生観になります。ただし世界の出来事の本質は偶然が支配するもので、「たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それは単なるいわゆる幸運にすぎない。6.374」ということですから、逆に欲したことすべてが起きなくとも落胆したり不幸をかこつ必要はありません。 「自由意志」に関する重要な哲学的論点として「人間は自己の行為に道徳的な責任を追うのか、そして、もし負うとすればどのような意味で負うのか?」ということがあります。普通、哲学者や倫理学者は「道徳的責任は自由意志を前提とする。」と考えます。つまり、「あることをするかしないかは本人の自由意思なのだから、人々は自己の行為に責任を負っており、各人が何をするかに応じて、社会から賞賛や非難を受ける。」と考えています。 「自由意思」の存在を肯定した場合、「自由意思はどのようにして具体的な行為と結び付くのか?」という哲学上の問題を生じます。この問いは、多くの哲学者を悩ませてきましたが(Wikipedia)、ウィトゲンシュタインは「自由意志は、未来の行為をいま知ることができないということに成立する。(5.1362)」「われわれは、自由意思は世界の限界を変えることができると考え、自由意思を具体的な行為と結び付けている。」というように、この問題の答えを出しています。

Tetsugakusya
質問者

補足

>「ものはあるようにある。起きることは起きる。あるのは論理だけ。」 意味がよくわかりません。物事は論理的に起きるということなら因果律なんですけどね。

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