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キリスト教徒が言うように、イエスキリストは神の生まれ変わりだと思います

キリスト教徒が言うように、イエスキリストは神の生まれ変わりだと思いますか。 私は、使命を持って地球に生まれた同じ人間であると思うのですが。魂の位が高かろうと。 神が、人間としてこの世に生まれてくることがあると思いますか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.2

神が、人間としてこの世に生まれてくることがあると思いますか。 ○神と人間の定義があやふやなので混乱するのですね。 地球上に生まれて生きる人類型生物は全て人間ですね。人間以外ではありません。 人間は父と母の夫婦の営みで生まれますし、あなたと同じように成長し疑問を持ち、何らかの答えを得て老いて死ぬのですね。 イエスも同じですね。夫婦の子として生まれ、インマヌエルという名前でした。子供の頃から聖書をそらで暗記するようなこどもだったようですね。いろいろな勉強をして霊的に覚醒し、伝道を始めた立派なお方、人間ということですね。時代は古くなりますが釈迦も同じですね。悟りを開いて釈尊と呼ばれたわけですね。 これらは全て地上に生きた人間のお話です。 さて、神とはなんぞやですが、これには人間とは何かと深く関係しているのですね。人間が何故存在しているかですが、人間の存在は地上でいろんな人と出会い、いろんな経験をするためにあるのですね。 では人間の前は何かということなのですが、人間の本当の姿は人間のような生死のない霊的な存在なのですね。 霊的存在といえば、霊的存在がある領域が必要ですね。それを霊界といいます。その霊界から全員が地上に人間という肉体を持って生まれてくるのですね。 霊界人口は大変多いのですが、ピラミッド構造になっていて、上に行くほど偉いのですね。会社と同じですね。社長も副社長も専務も部長も課長も平社員もいるわけですね。上の方の霊を神といいますね。トップを全知全能の神とか仏と呼んでいるのですね。神もたくさんいるのですよ。イエスはナンバー2の副社長ですね。 肉体人間はみんなおんなじ人間ですが、霊的なものは社長であったり、平社員であったりするわけですね。自身の中身がなんであるかは自身に聞けばわかるはずですね。 ・・ということで人間と神の定義をしましたが、イエスが神かといえば、確かに中身は立派な魂ですというのが答えですね。普通に生まれて勉強し、恋もし、子も作り、でも自分の使命を立派に果たされた立派な神であったともいえますね。その教えがキリスト教ですね。釈尊も同じですね。 まあ、強いて追加すれば、人間の目にはイエスも釈尊も普通の叔父さんですね。ただ教えが神の教えであったということですね。いつの時代でもほとんどの人は神と認めず石をなげただけですね。 例え現代にイエスの魂が人間に生まれてもほとんどのクリスチャンは石をなげるでしょうね。仏陀もしかりですね。人間の目で見ては判別は出来ないのですね。よく心を研ぎ澄まして心の目で見るとわかるのですね。 いつの時代も神はいるのですよ。現代にもトップの霊が人間としているのですね。 ・・・それが答えでしょうかね。

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  • ENERGAIA
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回答No.6

「子孫繁栄で沢山子供がいる種族が立派なのではない。」  と言っている一方で、 「キリスト教の生み出した人種差別により、ホロコーストが引き起こった。」とし、  それが純粋な人種差別によるものであるかどうかは別として、大量殺戮という、子孫繁栄とは反対の行為を「人類史上最悪の恥」と言う人は、ある意味神の生まれ変わりであると言えます。  「人類史上最悪の恥」が何かが解るという事は、神のつもりで居るのでしょう。  その発想力、飛躍した思想と自負心と驕り昂ぶりには驚きを通り越して絶句するばかりです。  それも、同じ名前で 長く同じところに留まっているからでしょうね。  というわけで、  No.3さんが言うように、もっとも古くからここに居て、太陽のように名前も変わらない普遍的なものが死んでくれることで、新しい時代が到来します。  ここでも、そういった人をお気に入りの信者さんが「死んで欲しい」「死んでくれ」と願うことで、長い暗黒の時代の夜明けは到来します。  結局、「死ねというやつがまず先に死ね」と言うのが道理であり、それが本当に全体のために役立つのは、第二次世界大戦中の日本であってもここであっても同じであるということです。  この哲学カテの恥です。  結論としては、魂の位の低い神が、人間としてこの世に生まれてくることはあり、その神には  「まずお前が死ね。」と言えば良いでしょう。

回答No.5

そう思う人はキリスト教徒で、そう思わない人はキリスト教徒でないのでしょう。 質問は「貴方はキリスト教徒ですか?」というのと同じですか? それとも、キリスト教徒の中にもイエスが人の子だと主張する人たちがいたり、キリスト教徒以外にもイエスが神の子だと主張する人が居るのでしょうか。 私はキリスト教徒でなないので、八百万(やおよろず)の神が居て、そのうち、どの神様も人間の子供を産むなんてことはなさらない(人間とエッチするなんて!)と思っていますので、回答は「思いません」です。

回答No.4

 こんにちは。  存在つまりこのばあい人間存在の問題だと考えます。  そして聖書の系譜では キリスト・イエスの物語として――虚構のかたちにおいても――説かれています。  結論から述べるなら ナザレのイエスが 人間であり そのイエスがのちにキリストと呼ばれるようになった存在は 神の子であると同時に神である存在です。人であると同時に神であるという想定だという意味です。  《存在》とは おのおのの主観にとっての自同律すなわち自己同一性のことです。《人が人である / わたしが 人である / わたしが わたしである / わたしが わたしする》というそのあり方です。  ですので このあり方をあたかも否定するような何ものかを想定して その《何ものか》と《主観(わたし)》との関係において――ということは まったくの《虚構》においてということですが―― 捉えると あたかも分かったような納得が得られる。こう思われます。  いまわざと《否定する》と言いましたが それは架空のものですが 《悪魔》などがよい例です。  ほんとうは 《わたしとその世界》を超えるものを想定するのが いちばんだと考えられます。    それは 人は おのれの意志のとおりに振る舞えるものではないという実態があるからです。主観にとって 《なぞ》があるのも ほんとうですし 主観やその意志をあたかも否定するような・そして超えるような何らかの力が はたらいているのではないかとうたがうのも それとして真実であるようです。  この《なぞの何ものか》が 《かみ》として想定され 持たれています。《否定するもの(たとえば悪魔)》は 大きくは経験的なものです。《かみ》は 経験世界を超えるものです。  次のような物語を たとえとしてのように 導入します。  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。ぢゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすようなことでしょうね。  次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。  目覚めた(ブッダ)というようなことでしょうか。この自己表現も 《存在》にかかわりますよね。また 先ほどの《行けと言われたから 行った》 これも そういう――受け身のかたちですが―― 自己表現になっており その表現のごとく生きることが おのれの存在だと言っている場合だと考えられます。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで     貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げるためである。     (『イザヤ書』61:1-3)  さらに時は飛んで イエスの話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことだそうです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      存在せしめる者がわたしを遣わしたのは       貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      告げ知らせるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち       に実現した。   と話し始めた。      (ルカ4:17-21)  以上のような《存在》をめぐる歴史物語です。その後 はりつけに遭って死を死んだあと キリストと呼ばれ 人間であるイエスが同時に神の子であり神である存在であったとうわさされるようになった物語です。  いかがでしょう?  (キリスト教徒ないしローマ教会などの説は 知りません)。

  • kigurumi
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回答No.3

>キリスト教徒が言うように、イエスキリストは神の生まれ変わりだと思いますか。 それは知りませんでした。 神が死んで次の生がイエスという人間だった? 神が人間として生まれ変わったとしたら、赤ん坊の頃、この世をどうやって運行できたのか という難問に答えなければならなくなる。 神の生まれ変わりだったと言われていることは知らなかったのですが、古代の人は彼を<神の子>としていたのは知っています。 バラバ・イエス、ヘブライ語で神の子イエスって意味だってことも知っています。 <神の愛は人間の都合に全く影響を受けず、一方的だ>と言われていることも知っています。 信仰している・していない、信じている・信じていないなど一切関係無い と明言されているのも知っています。 「信仰しているものは愛し、信仰していないものは地獄に連れていく」とするなら、それは普遍性をもたない。 普遍というのは条件によって変わらない。 さて、人間の都合など一切関係なく<一方的に降り注がれるもの>ってなーんだ? オイデプスは母の国の入り口にある門の前で謎説きをさせられたが、謎を説くことができたので、母の国、自分の出生の場所に戻った。 さあ 解いてみましょう、人間の都合に影響を受けず一方的に注ぐって誰が?何がそういうことをするのか。 善悪。 生は善、死は悪という考えが根底にある。 春になると植物が芽を出し、実り、秋になると枯れて種を地面に落ちして死ぬ。 翌年春になると、その種が地面から芽を出す。 一日の平均気温が何度以上になると芽を出すという性質があるから目が出る。 太陽が南半球から北半球に戻ってくることでそうなる。 春分点。昼と夜の長さが同じになる日。それ以降昼が長くなるので、キリスト教はその頃復活祭を祝う。 これは古代の異教の太陽の復活祭を取り入れてもの。 他にも異教徒の風習を取り入れたものの一つに、日曜日を太陽の日ってしたこと。 ソクラテスは自分が悪いことをしようとしたとき、ダイモンが自分を止めたと言っていた。 しかし、賢者とされる人に質問をして自分は何も知らないとわからせようとしたことをダイモンは止めなかったので、自分がやったことは間違えていないと主張した。 ダイモンが止めたらそれは悪、止めなかったら善。 ソクラテスは善悪の区別がつくって思っていたわけです。 ソクラテスは、全くの善の世界からダイモンが地上に降り注ぎ、人間が悪いことを考えるとまわりにいる大門が「それはいけないことだよ」と自分は過って悪いことをせずに済んでいると思っていたのではないかと。 善悪をそうして知っることになると思っていたのではないかと。 イエス話のエピソードがいくつかあり、例えばイチジクが実をつけていなかったことに対してイエスは呪った。 イチジクは多産のシンボルなので、石女は呪われていると言ったわけです。 古代では神に祝福をされた男は子沢山になるが、神に呪われているものは子供ができない という考えがあったので。 本当に子供ができない女は太陽に憎まれているのか?(ああ ここで謎々の答えいっちゃった 笑) 本当に存在価値など無いのか。 古代ではこれは常識だったかもしれない。 だけど、現代で子供がいない夫婦に「あなたは太陽から呪われている さっさと反省して改心しろ このクズ 生きる価値など無い、存在価値など無い。反論は許されない、対等でありたければ子供を持て。子供が無いお前には何も言う資格は無い」という人がいるだろうか? 人は子孫を作るのが目的なのか。 子孫繁栄で沢山子供がいた種族が立派なのか? 偉いのか? それなら蟻の方が人間より多い。 蟻が人間に「お前らは存在価値が無いクズだ」と言うことは正しいことになり「はい 人間はくずです、さっさと全滅すべきです。あなたがたよりずっと劣る存在ですから」となる。 マイノリティーの人種をこの世から抹殺することは正しいということになる。 事実このキリスト教の生み出した人種差別により、ホロコーストが引き起こった。 人類史上最悪の恥であるこの思想は、実をつけないイチジクは神に呪われているという考えが源。 この考えは間違えである、だからイエスを殺さなければ新しい時代は到来しない。 ということで、人々はイエス殺しをしなければならないわけです。 「死んで欲しい」「死んでくれ」と信者たちが願うことで、長い暗黒の時代の夜明けは到来する。 ちなみにイエスは実在の人物ではない。思想が人格化したもの。 http://video.google.com/videoplay?docid=4197639845259809993&hl=en#

回答No.1

あまりうまく説明できるか。難しいよ。単細胞じゃわからないだろうね。 人間のわずかな科学の知識で考えてみて分かることはこの世にどれほどあるでしょう。 無精子卵で生まれてくる生物も下等なものならいくらもいるです。 まずキリストはそれその時よりさらにさかのぼる歴史の中から預言者を聖書をとうして預言されてきたものです。事実そのとおりになったというわけです。 短当直に話せばキリストは十字架に架かったわけで預言とおり死んでしまった。のではない。 なぜ十字架に架かったのかわからないと、ただの死刑。復活なんてまさかになります。信じられない。 神は人を創り、それぞれの器である人を愛している。自然もどれひとつ理にかなって美しい。 本来人はそんな神を知っているにもかかわらず、人は傲慢になり真理を求めない。人の弱さ、内なる罪に気がつかないかえ。 神が神の子を人として与えたのは、人の罪、弱さを人間と同じく知っているよと話しかけている。ということ。またよく見なさい考えなさい。 頭の悪い人間に人の子としてきた神の子が人と同じようにならなかったら分からないでしょう。ここが難しい。 でないと本当にまつりごとの神様でしょ。その方が日本の神様だというならもう分からないやつだというしかないがね。 もっと説明したいけどたとえば人の弁護士みたいなもの・・・人の罪の代価としての十字架、この愛という意味までわかるまで程遠いかも。キリスト(神の子)の愛がここにあるなんてすぐにわかりゃしないよ。じゃね。

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