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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦争から帰ってきた侍(兵士))

戦争から帰ってきた侍(兵士)の取り扱いは普段通りだったのか?

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代なら侍、一揆とかなら百姓、近代の世界大戦なら兵士が戦争から帰ってきた場合、彼らの取り扱いは果たして普段通りだったのでしょうか?海外の民族では、戦争で人を殺したり血を流したりした人は清めの儀式や隔離など非日常的な待遇を受けることがあったが、日本ではどうだったのか疑問が浮かびます。
  • 戦前や戦後の戦士の取り扱いについて時代劇や時代小説から得られる情報と、実際のところは異なる可能性があります。血まみれで帰ってきた戦士が普段通りの生活を送ることができたのか、何か特別な清めの儀式や慣習があったのかについて調査が必要です。
  • 戦争から帰ってきた侍や兵士の取り扱いについて、海外の民族では清めの儀式や隔離などの非日常的な待遇を受けることがあったが、日本ではどうだったのか疑問が残ります。時代劇や時代小説から得られる情報と実際のところが異なる可能性があり、具体的な取り扱いについて調査が必要です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kurisogeno
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回答No.2

補足に対する、回答したいと思います。 村民の殆どは、戦に行った人を暖かく迎える人と言う事は 余り無く、村の全体で生還者を厄介者として迎える事が多かったそうです。 村の殆どは、戦=悩みの元と言う思考が殆どで、戦場に近い村民ほど 戦の後遺症と呼べる敗残兵に悩まされていたようです。 戦から帰ってきた者を一度、神社やお寺に集めて身元確認をして、 夕餉を開き村長や長者様達と話しをして、村民を確認します。 村民以外のモノは役人に引き渡して、報奨金か年貢の軽減の恩赦のどちらかを 選択します。 もしも、村民で無い者を匿った事が知れると、村自体が焼かれるという処罰も あったそうなので、村としては確認作業は村を守るというよりは、自分の命を守る 作業と言う方が正しいかもしれません。 戦の後遺症となる問題はまだまだ沢山あり、その解決は政府や領土を管轄する 役人に賄賂などを納めなければ、解決はしてくれませんでした。 色々と戦には村民を苦しめる後遺症となる事案が多く、その解決には人手も足りないし、 金子の用立ても出来ませんし、戦が起こる度に村民が苦しむという歴史の教えは この辺からだと思えます。 因みに、兵士の徴収は3つあり、村民や町民に告知して参加者を募る場合と、 強制的に徴収される場合と褒章の受託にて徴収される場合があります。 募集の場合には、仕えていた場所を失った野武士や、力や剣技に覚えがある 人が多く居たとされており、強制は文字の如く村人や罪人を強制的に参加させていましたが、 村民の参加の殆どは、褒章の受託による一種の人身売買での参加が多かったそうです。 つまり、褒章の受託と言うのは、村民一人につき米一表と引き換えに年貢の年貢の軽減や、 金との引き換えなど色々とありましたが、生きて帰ってくるという保障は無く、 もしも 生きて帰ってきた場合には半分は返すという約束を強いていた事があり、 その約束事にて、生存者の帰還には家族といえど歓迎してもらえないと言う事情がありました。 徴収をされた村民の殆どは、この事を知って戦に参加しますが稀に家族が内緒にして参加させるという 事案もあったそうで、生存して帰ってきた家族を、その夜に殺してしまうという事もあったそうです。 村民が戦場で、手柄を挙げるコトは稀で、敵武将の首を持ち帰って来ても、 参加側の大名や野武士などにころされて、手柄を横取りされると言う事は多々あったそうですし、 ドラマや時代劇などで村民が手柄を立てて、生存して帰ってきたとしても歓迎されるコトは 余り無いとされています。 多分、自分が聞いているコトと貴方がお知りになりたい事にズレがあると思えますが、 何等かの手助けになれば良いと思います。

gagagrgf
質問者

お礼

お礼が遅れました。ありがとうございました。

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その他の回答 (1)

  • kurisogeno
  • ベストアンサー率31% (558/1748)
回答No.1

以前に聞いた話ですが、 日本の農村の村人の多くは、戦場では一番の最前線で戦う事が多く、 戦に行くと死ぬ確率が高かったと聞きます。 戦の後に自宅に戻る率は高くは無いが、帰宅できたとしても日常的な暮らしに戻れるのは ごく一部で、大半は人を殺めた時の感覚や相手の死に際の顔が頭に焼き付いて、 精神を患う人が多いと伝えられています。 精神的に強い人や元々好戦的な人は、日常的な暮らしに戻る人も居れば、 戻れなかった人も居るそうで、村に戻って夜盗になる人が多い村もあったとも聞きます。 村の規模が大きいところでは、諸外国と同じで清めの儀式などを行う処もあったようですが、 戦から帰ってきた人の多くは、数週間の神社や祠での隔離の後に日常生活に戻される事は 余り無いとされています。 戦の帰りには、村の近の河川で体に付いた血糊を落として帰る事は当たり前で、 帰宅後に湯船に浸かると言う事は殆どありえませんでした。 自分が聞いた話は、とある大学で歴史の講師をしていた人から聞いた話です。 多少の誤解や誤認があるとは思えますが、諸外国と違い農村で暮らす人の多くは 風呂と言う暖かい湯に浸かると言う習慣は無いと思えます。

gagagrgf
質問者

お礼

一部、読み返して気になった部分にコメントしておきます。 >諸外国と違い農村で暮らす人の多くは風呂と言う暖かい湯に浸かると言う習慣は無いと思えます。 いえ、私はそういう意味を添えて湯につかると例示したのではありません。私の知る限り、湯につかるのはむしろ日本(特に現代の日本)の方が特殊で、諸外国は水というのが多いと思います。 いずれにせよ、回答、ありがとうございました。

gagagrgf
質問者

補足

早速の回答、ありがとうございました。 河川で血糊を落として帰るなど、貴重な情報ありがとうございました。 kurisogenoさんのは主に戦士自身の行動という部類の話ですが、できれば、戦士に対する周りの人の反応、配慮などを思わせるような慣習の話を聞きたいです。もちろん、戦士自身の行動の話も引き続き歓迎します。

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