なぜ二・二六事件では1500人もの兵士を動員できたのか?

このQ&Aのポイント
  • 二・二六事件では、政権交代による変革を目指すために政府要人の暗殺を企むという過激な行動が行われました。
  • この時代は、既に普通選挙制度が確立されており、政治に民意を反映させる手段があったものの、政治腐敗を打開し天皇親政を目指すという理念に共鳴する人々は存在しました。
  • 思想の正当性や理論の存在により、多くの兵士たちがこの狂気とも言える思想に賛同し、動員されたのでしょう。
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二・二六事件はどうして1500人もの兵士を動員できたのか?

岡田啓介(内閣総理大臣) 、鈴木貫太郎(侍従長) 斎藤実(内大臣) 、高橋是清(大蔵大臣) 渡辺錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣) 二・二六事件では、以上の人物がテロリストの標的となりました。 このうち斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監が殺害されました。 この時代は、既に普通選挙制度が確立されていて、与党も野党も 存在しており、政治に民意を反映させる手段は無くはないと思います。 政権交代による変革も可能な社会で、「政治腐敗を打開し天皇親政を目指すため、 政府要人の暗殺」を企むなどという過激な行動は、正気の沙汰とは到底 思えません。 現代人の私の感覚としては理解に苦しみます。 私は彼らに「お前たちの親兄弟は泣いておるぞ。今からでも遅くないから 帰れ」とでも言いたくなります。 しかし、こんな恐るべきテロが正当化されるには相応の理論があった事と 推測されます。 誰もが賛同しえない思想ならば、一部の人間の暴走に終わり大衆には 無視されて終わる事でしょう。 どうして、こんな狂気とも言える思想によって1500人もの兵士を動員 できたのでしょうか?

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質問者が選んだベストアンサー

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  • k16399638
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回答No.3

まず、正当化されていません。 大勢を動員できたのは、決起した将校が部下に「命令」しただけのことで、それが結局1500人になった、というだけのことです。ただ、3連隊6中隊中隊長安藤輝三大尉は、本当に兵士から人望があつく、彼の部隊は最後まで統率が乱れませんでした。 これら将校は、部下の兵士たちから農村の困窮を見聞きしており、本気で国を憂いていました。ただ、 「君則の奸を取り除き、議会を解散。天皇が陸軍のサポートの元で直接統治をある期間行い、あらためて選挙をする」 くらいの政治構想しかありません。その「陸軍のサポート」の頭目になろうとしたのが、2番さんのあげた二人だったといわれています。 安藤大尉は自分が襲った鈴木貫太郎と別件で面会、食事をして、鈴木に 「君たちはこの時期の首相には政治的に純真無垢な真崎大将しかいないと主張するが、それは天皇陛下にも選択の権利がなくなるわけだから、日本国民としてよくない」 と諭され、またいろいろ話をして鈴木に感服し、鈴木をターゲットから外そうといいだしたりしています。みな狂人ではありませんでした。襲われて死線をさまよった鈴木貫太郎すらも、安藤を「安藤君のような惜しい青年を亡くしたものだ」と、後に「君」づけで語っています。 東京は人口が多いので、結果、兵役につく人が多くなります。東京は2・26事件のとき6個師団あるという、過密状態でした。なので、1500人は簡単に集まり、それを鎮圧できる部隊も十分にいたのです。中には、今泉義道少尉のように、たまたまの大雪で原隊に帰れず7中隊にとまったら、7中隊が決起部隊だったので巻き込まれた、という気の毒な人もいます。 当時、内閣を組閣するためには、天皇が命令しなければなりません。この事を「大命が降下する」といいますが、昭和天皇は徹底した立憲君主論に立っておられたので、自分が大命を下して任命した臣下が殺されたことに激怒しました(この「大命が降下」の名残が、今でも内閣・閣僚が変わると、大臣が天皇陛下に頭を下げに行く『認証式』です)。 このとき唯一天皇の脇にいた侍従で、武官だった本庄繁中将は 「陛下は大変ご不満で、陸軍が自分の使命を果たすべく厳命され、一刻も早く鎮圧の命令を厳達せよと繁に厳責あらしめらる」 と書き残していますが、宮中用語で「ご不満」は「大激怒」そして「厳命」「厳達」「厳責」と、ものすごく怒られたようです。 帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあるので、陸軍のトップである天皇がお怒りですから、合法的政権を作れません。また、行動も合法になりません。 また海軍関係者が大勢殺害・襲撃されたので、海軍が敵にまわっています。このあたりで、失敗といえるでしょう。 2番さんが言われているように、2・26の黒幕はあの二人という線が濃厚ですが、どうも昭和天皇を納得させられるとかんちがいしたようです。一部では昭和天皇を廃位、秩父宮(陸軍)を天皇にという極論もありましたが、さすがに口にした人はいませんでした。 安藤輝三大尉は銃殺されるとき、天皇陛下万歳ではなく、秩父宮殿下万歳と言っています。 最後に蛇足ですが、憲兵隊はこのような争乱を引き起こしそうな将校たちを当然マークしていました。だから、ビラを作る道具などを部隊で集めだしたら、決起準備だとバレてしまいます。 なので、2月26日の深夜、一部の部隊が銀座の文具店・伊東屋に行って、ガリ版、紙、その他一式をピン札で買っています。今の感覚でいえば複合コピー機を買ったようなものですが、普通は軍隊向けの伝票があるのに現金で買った、というのは、部隊の金、つまり税金を勝手に使ったわけです。その程度の意識だったことは、考えさせられるものがあります。

その他の回答 (8)

  • shin1417
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回答No.9

部隊長(中隊長クラス)が首謀者だったからです。 質問者殿は大きな勘違いをされておられるようです。 2.26事件に参加した将兵の99%は意味も知らずに参加させられました。 上官の命令が絶対の軍隊で、上官の命令通りに行動しただけであって、 思想的に共感して自主的に参加したような下士官、兵は皆無でした。

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.8

部隊長(中隊長クラス)が首謀者だったからです。 質問者殿は大きな勘違いをされておられるようですが、 2.26事件に参加した将兵の99%は意味を知らないで参加させられたのです。 上官の命令が絶対の軍隊において、上官が命令したから行動しただけです。 思想的に賛同して自主的に参加した訳ではありません。 そこのところを間違わないように。

  • buck
  • ベストアンサー率14% (97/678)
回答No.7

No,1の方の回答が全てだと思います。 兵達は、将校の思想に共鳴して参加したわけではなく、上官の命令に従って行動しただけです。

回答No.6

 上官の命令に従った155の兵士は、何も考えを支持するからではなく命令です。  そして明智の兵卒と同じに何も理解・認識しておりません。  これを支持する思考もあったでしょう。  そして国の動きの一定の傾向を運転できなかったのが日本の歴史でした。  そういう不幸なことであったという事実以上ではないでしょうね。無念ですが。

noname#125540
noname#125540
回答No.5

これは有名な話なんですが、落語家の柳家小さん師匠が当時若い一兵卒で、自分の部隊が出動するというのでついて行ったら、後に2.26事件と呼ばれるものだったと。 兵隊さんは意味を分かってなかったんでしょう。

  • hinode11
  • ベストアンサー率55% (2062/3741)
回答No.4

>しかし、こんな恐るべきテロが正当化されるには相応の理論があった事と推測されます。 二・二六事件を惹き起したのは、いずれも陸軍皇道派に属していた将校達でした。ですから当然、皇道派の重鎮と目された荒木貞夫や真崎甚三郎が蔭の指導者ではないかと疑われました。 しかし、実際に彼らを指導してクーデターに走らせたのは、北一輝らの思想家でした。↓ 北一輝とその思想 http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/kita-ikki.htm 満州事変(1931年)の頃から日本陸軍の将校の間では皇道派と統制派の派閥争いが生じ、このことは世界的にも有名でした。皇道派とは、端的に言えば天皇を中心とする国体を護持する政治思想の集団であり、統制派とは、国体を社会主義体制に変えようとする(≒共産革命)政治思想の集団です。 しかし満州事変から5年も経過すると、皇道派の将校たちの間でも社会主義思想(≒共産革命思想。赤い思想)に染まる者が増えてきました。北一輝ら国家社会主義者(ファシスト)は、昭和天皇に社会主義者になって頂いて日本を社会主義化するという思想戦略を打ち出し(⇒上からの革命)、皇道派の将校たちを洗脳しました。天皇を倒すのではなく天皇を温存できるのであればと、皇道派の将校たちはクーデターに動いたのです(二・二六事件、1936年)。 >どうして、こんな狂気とも言える思想によって1500人もの兵士を動員できたのでしょうか? 兵隊は、上官の命令に絶対服従するよう訓練されていますから、極端に言えば、一人の師団長が配下に「国会議事堂と首相官邸を攻撃せよ」と命令すれば、約9000人の兵隊がクーデターに動員されることになります(平時編制における1個師団の人員は約9000人)。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.2

この2名が如何に関わっていたかが大きな問題です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E 小説などではこれを大きく取り上げ、 奉勅命令が遂に降りたと将校達を行動させた。 行動後にそれを貰う予定であった。 これに失敗すると尻尾を切った。 (極一部の将校としか接触しておらず、将校は皇道派の為に口を割らなかった。) などと推理しています。 実際には、奉勅命令など降りてはおらず、 行動後に蹶起趣意書を大臣から天皇に上奏させますが、 天皇は激怒しており、国賊と決め付けていました。 一般的には青年将校のクーデターとなっています。 また、下士官には何も知らされていなかったようです。 通常であれば、 国内で日本人を撃てと命令されればおかしいと気が付きます。 現在ならいざ知らず、 上官に逆らえば軍法会議→銃殺。 このシステムでは、下士官の行動は正当な行動であり、 逆に下士官の罪を立証するのは難しいかと思います。

noname#210617
noname#210617
回答No.1

士官が命令すれば、その部下である兵士は無条件に従います(従わなければなりません)。 それが軍隊です。 だから多数の兵士が動員できたことに何の不思議もありません。

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