解決済みの質問

遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。
これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。

「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)
 したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。

 きみが自ら投げるものをとらえる限りは
 すべては たくみと任された獲物
 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき
 正確に可能にされた飛翔のなかで
 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・
 そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----
 そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば
 いや もっと不思議なことに
 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・
 あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を
 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----
 そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者
 投擲はきみに軽くもなく 重くもない
 きみの両手から流星が輝きいでて
 自らの空間を駆けめぐる・・・
           (リルケ『後期詩集』より) 」

引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

投稿日時 - 2010-02-21 23:33:18

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QNo.5696009

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。

健やかにお育ちのことと拝察致しております。
寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。
まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。

『だるまちゃんとかみなりちゃん』
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180
天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。
だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。
何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。
そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。
大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。

古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。
かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。

本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。
そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。

『ゆきむすめ』
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777

かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。
”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。
春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、
こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。

いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。
広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。
「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、
観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。

ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。
それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、
ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。

ちなみに──"j"を辞書で追ってみると…
──jeter(to throw/投げる)
──jeu(game, play/遊び、遊戯)
──jeune(young/若い、幼い)
──jeuness(youth/青春、若さ)
──joie(joy/歓喜、喜び)
──joli(pretty/綺麗な)
──joue(cheek/頬)
──jouer(to play/遊ぶ、戯れる)
──jouet(toy/おもちゃ)
──jouir(楽しむ、味わう)
…と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。

Jeunesseの古語はjouvence。
まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。

あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか──
そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と──

ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

投稿日時 - 2010-02-22 18:58:21

お礼

ありがとうございます。
核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、
何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。

なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。
絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。
だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。
落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。
はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。
ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。

異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。
そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。
世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、
身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。

jの項は、面白いご観察をなさったのですね。
jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。
throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

投稿日時 - 2010-02-23 04:44:52

ANo.4

35人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

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ベストアンサー以外の回答(58件中 1~5件目)

ANo.59

amaguappa様、こんばんは。

>それも野外劇で見ると、だんだん夕暮れになっていく現実と、舞台のすばやい一日とにずれがあって、
>いっそう虚しい感じになります。

はい、そうですね。
私も似た感じを抱くことがあります。
「だんだん夕暮れになっていく現実」が「現実の中の近過去の時間の堆積」、
「舞台のすばやい一日」が「過去における過去の時間の堆積」と言ったところでしょうか。

そしてその「ズレ」に一抹の虚しさを感じた際には、自ずと、内なる意識に沈澱してしまっている「何か」をも、一緒に呼び醒ましているのかもしれませんね。

>虚構が浮き彫りになると、現実もひときわ輪郭があらわになるようで、
相乗効果となるのかな。迫力がありますね。

はい、ご指摘下さった神楽や祭(宿題に持ち越します)、或いは演劇といった「遊戯」を通じ、
私たちは「現実」と「虚構」「日常」「非日常」といったあらゆる両義性の間を自由自在に行き交うことができ、
己の既存の言葉やふるまいに帯びている既存の意味と対峙することで、「新たに生成する/自ら生まれ変わる」を体験しているのかもしれません。

また、
リルケやオイゲン・フィンクからは、人間の有限を超える人間の無限の可能性を薄含みしているように感じるのですが、
amaguappa様の金魚鉢様へのコメント「仏教」「小鳥が魚が遊ぶこと」を拝見してからというもの、
お釈迦様の掌の上で遊ぶ孫悟空を想起してみたりと、
両者の間には、開きがあるように思われます。面白いです。

>肥やしにもならないものを、汲み取りません。

承りました。了解です。
そしてつまり、尻様同様、ましゅまろの笑い皺を増やすおつもりなのですね?!

最後まで稚拙な駄文に忍耐強くお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
三寒四温の時節柄、愛しい小君におかれましては、どうかご自愛下さいますよう。

投稿日時 - 2010-03-06 23:59:49

お礼

>「だんだん夕暮れになっていく現実」が「現実の中の近過去の時間の堆積」、
>「舞台のすばやい一日」が「過去における過去の時間の堆積」と言ったところでしょうか。
>
> そしてその「ズレ」に一抹の虚しさを感じた際には、自ずと、内なる意識に沈澱してしまっている「何か」をも、一緒に呼び醒ましているのかもしれませんね。

かゆいところに届くようなお返事です。そうなのですよね。
そしてどんな場合にも虚しさを感じるときにちょっぴり気付かされる、
わたしたちに沈殿した、あの「何か」って何なのでしょうね。

> 己の既存の言葉やふるまいに帯びている既存の意味と対峙することで、「新たに生成する/自ら生まれ変わる」を体験しているのかもしれません。

たしかにそうかもしれません。遊戯の体験というのは、超現実主義を地で行くところが少なからずあるのでしょう。

> お釈迦様の掌の上で遊ぶ孫悟空を想起してみたり

ふふっ。

> ましゅまろの笑い皺を増やすおつもりなのですね?!

お互いつやつやのバラ色ほっぺにチャーミングな笑い皺を刻んでまいりましょう。

マシュマロさんのすべての回答群を合わせて、ポイントにさせていただきたいと思います。
簡素な運動の妙に満ちた二つの本の教示をいただいたNo.7に付しておきます。

さて、「火くぐり」も終えました。
3月6日、冬眠の夢をむさぼるのもおしまいです。
マシュマロさん、回答をお寄せくださったみなさん、そのご家族様、
御身お大切にお過ごしください。

投稿日時 - 2010-03-07 01:48:01

ANo.58

<<全体における存在者>>と、<<われわれ有限的人間>>を別のものとして言及しているので、

>最初の文に代入する

 のは、少し無理がありますね。

論を展開していって、<<唯一の存在者であるということが帰結される>>と言っているのだから、それをそのまま、最初の<<全体における存在者>>に当てはめるのはどう考えてもおかしい。

 リルケが間違っていたか、誤訳でしょう。

 親は、「子供は無邪気でバカなほうが良い」と言うのが本音でしょう。

結論としては

 カインの無罪を申し渡す。アベルも無罪。

 『ヤハウェ』(親)を有罪とする。

 それらの物語を作り、それを受け入れ・認め、自分も親となったものも同様。

投稿日時 - 2010-03-06 20:48:07

お礼

 

投稿日時 - 2010-03-06 21:26:55

ANo.57

ありがとうございます。

確かに芸人さんの時代の洞察力ってするどいですよね、現代はさらに変化がはげしいし、参考になりますね。

もしかしたらその洞察の中には、時間コストの重要性への示唆もふくまれていたのかなと、ふと思いました。

文明が発達すると、人間の時間コストは高騰していくわけですからね。
「あそび」というのに、大きなコストが含まれているのかもしれません。

ポニョというお話には、サイフォンを利用したおもちゃの船が出てきますが、その原始的なからくりには魅力がありますね。

コーヒーもサイフォンの景色と一緒に楽しむとか、ミルのゴリゴリ感をゴリゴリという時間とともに楽しむ時間コスト、胡椒もあれっておもちゃみたいにゴリゴリって遊びたいだけかもしれません。

原始的なリーズンに遊びがあるなら、それを発達させた文明の中にも必ずやそれはあるはずだと思っていたけど、、、。
うーん、自然の中のキャンプを楽しむ人間の心理には、縄文人への懐古があるとも考えられるし。

ちょっと難しいですね、整理しないと。すいません。

投稿日時 - 2010-03-06 13:43:00

お礼

ありがとうございます。
うーん。。。笑
時間の消費とその等価価値について考えるということでしょうか。
芸人、ポンポン船、サイフォン、ミル。。。
まあ、余剰の部類ですよね。

投稿日時 - 2010-03-06 21:37:07

ANo.56

お邪魔します。
面白そうな質問と、以前から気にはしていましたが、ご質問者様と、スタート地点も、徘徊方向も違っている、私の回答は、恐らく理解されないだろう、といった危惧感から回答をためらっておりました。本日6日に締め切るということで、折角の機会ですから、無駄な回答もまた遊戯の内かと、書いてみます。

「われわれ人間は、結局のところ、十八世紀がその素朴な楽天観の中で、とかくそう思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えない。・・・
 われわれのとるさまざまな行動の内容を検討するにあたって、およそ人間の認識し得る底の底まで掘りさげて考えてみれば、すべての人間の行うことは単なる遊戯にすぎないのだという思想が、あるいは浮かんでくるかも知れない。だが、この形而上学的結論でもう満足してしまうような人は、本書を読むべきではない。」(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

私のスタート地点は、「すべては遊戯である」というある種、判り易い結論に人はなぜ憧れるのか、そこから、なぜ人は、「遊戯とは」と、尋ねるのか、という方向に徘徊します。

ホイジンガも、前掲書の中で、遊戯と言語という項目を用意して、遊戯と言語の関係を考察しています、その簡単な結論は、遊戯というものが一つの語で表わせるような単純な概念ではなく、複雑な概念を含んでいるということ、複数の表現を持つということでした。
さて、ここで、冒険して見ます。そもそも言語の起源など私のような素人があれこれ申すのも恥ずかしいですが、漏れ聞くところによれば、全体の行動や全体の事物の中から、なにかの基準による同一性によって行動や事物を「言い分けする・ことわけする」と考えることが出来るでしょうか。
この点を遊戯に関して、言い直せば、私たちのすべての行動の中から、楽しい事・面白い事といった基準で、それらの具体的な行動に、「あそび・たわむれ」といった抽象的な概念を嵌め込んで「言い分けする・ことわけする」と表現することが出来るでしょうか。この時強調したいのは、元々楽しい事・面白い事は、単独であるわけではなく、苦しい事・嫌な事と複雑に絡み合っている、繰り返される諸行為や事物の中から、一部の同一性を引き出した、という点です。

ところで、私は決して、唯名論者ではありませんが、言語が単純な伝達の道具とは考えていません、「あそび・たわむれ」といった言葉が使われることにより、私たちの行動が、逆に、言葉の影響を受けて、益々抽象的な「遊戯」といった概念・形式を抽出して、ついには「純粋遊戯」「遊戯の本質」といった概念にまで、到達することでしょう。

つまり、最初は具体的行動とリズムを合わせて機能していた「あそび」という言葉が、抽象的な概念となりすぎることによって、具体性を欠く事になり、結局「遊戯とは」と、問う羽目になってしまったのだと。この事は、われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い、と言う事になるのですが。

ここまで書いてきて、少々不安になりました、ご質問者様はこの回答を、質問に対する批判と受け取りはしないかと。しかし、実を申しますと、私自身かって「遊戯とは何か」というテーマで質問しております。当時は上記のようなことは考えていませんでしたが、こうした言葉の問題を考慮した後にも、「遊戯とは」と思弁的な哲学、文学的な哲学を展開することは大変素晴らしい事と、敬服いたしております。ただ、回答者には文学的素養が無く、ご質問者の意図とは外れた回答しか出来ない、という事実でしょうか。長文・駄文、失礼しました。

投稿日時 - 2010-03-06 06:14:00

補足

ありがとうございます。どうか、そんなに恐る恐るおはなしなさらないでください。
というのも、わたし自身はフィンクと意見を一にしてはいないのです。
書棚から一冊出して、ひとつの考え方をフィンクから借用することから始めました。
そのとき手が触れた隣のウィニコットはすばやく却下されました。(『遊ぶことと現実』)
だからこの質疑の最初の発言者が、フィンクというわけです。
みなさんが、それを足がかりないしたたき台に、考察をすすめてくださることを願ったにすぎません。
胸のうちを一つ明かすと、仏教のいう遊戯が視野に入っていました。ことさら取り上げる意図はないのでしたが、
小鳥が魚が遊ぶことについて回答を寄せてくださる方がいれば、この方面で伺ってみようかなと思っていました。

投稿日時 - 2010-03-06 16:44:35

お礼

さて、fishbowlさんの冒険譚に入ります。
言語の起源、といいますか、言語機能と同一の働きをすると考えられる認知、といったほうがより核心に迫りますが、
言語とは、まちがいなく、何かの同一性を行為や事象のうちに見出して、対象化と認識の統合を可能にし、
その本質はおっしゃるように「ことわけする」という営為であると言えるように思います。
ソシュールの連辞・範列関係を考えてもよいと思いますが、
「これはソファですか? 電車ですか?」に答えるためには貯蔵池をいくつも持つ地下水脈が必要ですね。
その意味で、fishbowlさんの示唆なさったように、あそび・たわむれの抽象概念は、
恣意的な同一性によってみいだされた「ことわけ」の結果にすぎません。
もしヴィトゲンシュタインに「遊戯とは」と尋ねたら、
複雑な場合分けや範囲の変数を含む回答をくれるとともに、わたしが一つを選び出すことによって
また一つ回答を増やさなければならないと言うかもしれません。

> われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、
> 真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。
> 言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い

そのとおりですね。
ただ、一つだけ付け加えさせてください。
わたしたちは、遊戯という対象化された概念についてばかりではなく、
その対象化された概念の、使用について、考察することができます。

その問題の中へはいっていくと、無数の行為の観察はいうまでもなく、
遊戯という概念を保つことの意味、遊戯の反復性、遊戯の変質、遊戯の権利と主体性、遊戯はなぜ意味を失うか、など、
たいせつなことが、目の前にひろがってくるかもしれないと思うのですよ。。。

(補足欄から続けて使用いたしました)

投稿日時 - 2010-03-06 16:44:05

ANo.55

amaguappa様、こんばんは。

この度も、たくさんお礼を下さりまして、本当に嬉しく思います。
ありがとうございます。
何度でも読み返そうと思っております。

明日締め切りでしたよね、間に合えば、厚かましくも再度投稿させていただきたいと思っておりますが、
「はい。楽しみにしております。今回でなくてもまたの機会もございますゆえ。」
とあたたかく仰って下さったのが、殊のほか何よりも嬉しかったです。
ありがとうございます。

そして、間に合わないことのないように、肝心なこと一つだけ申し上げますと、
この度は、私の拙文が元でamaguappa様に対し多大なご心労をおかけしてしまったことにつき、
大変申し訳なく思っているのです。
心で思っていても、伝わらないと意味が無いことに思われますので。

本当に、ごめんなさい。 

その上で、難儀な諍いにまで発展した点も含めて、amaguappa様におかれましては、我が意をお汲みとり下さった証として、お礼/補足欄はブランクのままになさって下さい。
どうか、お願い申し上げます。

そして、本当にありがとうございました。
(間に合えば、また明日夜にでも投稿させて下さい。)

投稿日時 - 2010-03-06 01:27:11

補足

たびたびのご回答、ありがとうございました。
感受性の豊かさの滲み出るご回答、楽しませていただきました。
> 我が意をお汲みとり下さった証として、お礼/補足欄はブランクのままになさって下さい。
とのことですが

投稿日時 - 2010-03-06 22:05:49

お礼

肥やしにもならないものを、汲み取りません。

投稿日時 - 2010-03-06 05:38:24

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