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遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。  きみが自ら投げるものをとらえる限りは  すべては たくみと任された獲物  きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき  正確に可能にされた飛翔のなかで  神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を  若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----  そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者  投擲はきみに軽くもなく 重くもない  きみの両手から流星が輝きいでて  自らの空間を駆けめぐる・・・            (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

その他の回答 (58)

回答No.59

amaguappa様、こんばんは。 >それも野外劇で見ると、だんだん夕暮れになっていく現実と、舞台のすばやい一日とにずれがあって、 >いっそう虚しい感じになります。 はい、そうですね。 私も似た感じを抱くことがあります。 「だんだん夕暮れになっていく現実」が「現実の中の近過去の時間の堆積」、 「舞台のすばやい一日」が「過去における過去の時間の堆積」と言ったところでしょうか。 そしてその「ズレ」に一抹の虚しさを感じた際には、自ずと、内なる意識に沈澱してしまっている「何か」をも、一緒に呼び醒ましているのかもしれませんね。 >虚構が浮き彫りになると、現実もひときわ輪郭があらわになるようで、 相乗効果となるのかな。迫力がありますね。 はい、ご指摘下さった神楽や祭(宿題に持ち越します)、或いは演劇といった「遊戯」を通じ、 私たちは「現実」と「虚構」「日常」「非日常」といったあらゆる両義性の間を自由自在に行き交うことができ、 己の既存の言葉やふるまいに帯びている既存の意味と対峙することで、「新たに生成する/自ら生まれ変わる」を体験しているのかもしれません。 また、 リルケやオイゲン・フィンクからは、人間の有限を超える人間の無限の可能性を薄含みしているように感じるのですが、 amaguappa様の金魚鉢様へのコメント「仏教」「小鳥が魚が遊ぶこと」を拝見してからというもの、 お釈迦様の掌の上で遊ぶ孫悟空を想起してみたりと、 両者の間には、開きがあるように思われます。面白いです。 >肥やしにもならないものを、汲み取りません。 承りました。了解です。 そしてつまり、尻様同様、ましゅまろの笑い皺を増やすおつもりなのですね?! 最後まで稚拙な駄文に忍耐強くお付き合い下さり、本当にありがとうございました。 三寒四温の時節柄、愛しい小君におかれましては、どうかご自愛下さいますよう。

amaguappa
質問者

お礼

>「だんだん夕暮れになっていく現実」が「現実の中の近過去の時間の堆積」、 >「舞台のすばやい一日」が「過去における過去の時間の堆積」と言ったところでしょうか。 > > そしてその「ズレ」に一抹の虚しさを感じた際には、自ずと、内なる意識に沈澱してしまっている「何か」をも、一緒に呼び醒ましているのかもしれませんね。 かゆいところに届くようなお返事です。そうなのですよね。 そしてどんな場合にも虚しさを感じるときにちょっぴり気付かされる、 わたしたちに沈殿した、あの「何か」って何なのでしょうね。 > 己の既存の言葉やふるまいに帯びている既存の意味と対峙することで、「新たに生成する/自ら生まれ変わる」を体験しているのかもしれません。 たしかにそうかもしれません。遊戯の体験というのは、超現実主義を地で行くところが少なからずあるのでしょう。 > お釈迦様の掌の上で遊ぶ孫悟空を想起してみたり ふふっ。 > ましゅまろの笑い皺を増やすおつもりなのですね?! お互いつやつやのバラ色ほっぺにチャーミングな笑い皺を刻んでまいりましょう。 マシュマロさんのすべての回答群を合わせて、ポイントにさせていただきたいと思います。 簡素な運動の妙に満ちた二つの本の教示をいただいたNo.7に付しておきます。 さて、「火くぐり」も終えました。 3月6日、冬眠の夢をむさぼるのもおしまいです。 マシュマロさん、回答をお寄せくださったみなさん、そのご家族様、 御身お大切にお過ごしください。

  • ENERGAIA
  • ベストアンサー率9% (5/53)
回答No.58

<<全体における存在者>>と、<<われわれ有限的人間>>を別のものとして言及しているので、 >最初の文に代入する  のは、少し無理がありますね。 論を展開していって、<<唯一の存在者であるということが帰結される>>と言っているのだから、それをそのまま、最初の<<全体における存在者>>に当てはめるのはどう考えてもおかしい。  リルケが間違っていたか、誤訳でしょう。  親は、「子供は無邪気でバカなほうが良い」と言うのが本音でしょう。 結論としては  カインの無罪を申し渡す。アベルも無罪。  『ヤハウェ』(親)を有罪とする。  それらの物語を作り、それを受け入れ・認め、自分も親となったものも同様。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.57

ありがとうございます。 確かに芸人さんの時代の洞察力ってするどいですよね、現代はさらに変化がはげしいし、参考になりますね。 もしかしたらその洞察の中には、時間コストの重要性への示唆もふくまれていたのかなと、ふと思いました。 文明が発達すると、人間の時間コストは高騰していくわけですからね。 「あそび」というのに、大きなコストが含まれているのかもしれません。 ポニョというお話には、サイフォンを利用したおもちゃの船が出てきますが、その原始的なからくりには魅力がありますね。 コーヒーもサイフォンの景色と一緒に楽しむとか、ミルのゴリゴリ感をゴリゴリという時間とともに楽しむ時間コスト、胡椒もあれっておもちゃみたいにゴリゴリって遊びたいだけかもしれません。 原始的なリーズンに遊びがあるなら、それを発達させた文明の中にも必ずやそれはあるはずだと思っていたけど、、、。 うーん、自然の中のキャンプを楽しむ人間の心理には、縄文人への懐古があるとも考えられるし。 ちょっと難しいですね、整理しないと。すいません。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 うーん。。。笑 時間の消費とその等価価値について考えるということでしょうか。 芸人、ポンポン船、サイフォン、ミル。。。 まあ、余剰の部類ですよね。

回答No.56

お邪魔します。 面白そうな質問と、以前から気にはしていましたが、ご質問者様と、スタート地点も、徘徊方向も違っている、私の回答は、恐らく理解されないだろう、といった危惧感から回答をためらっておりました。本日6日に締め切るということで、折角の機会ですから、無駄な回答もまた遊戯の内かと、書いてみます。 「われわれ人間は、結局のところ、十八世紀がその素朴な楽天観の中で、とかくそう思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えない。・・・  われわれのとるさまざまな行動の内容を検討するにあたって、およそ人間の認識し得る底の底まで掘りさげて考えてみれば、すべての人間の行うことは単なる遊戯にすぎないのだという思想が、あるいは浮かんでくるかも知れない。だが、この形而上学的結論でもう満足してしまうような人は、本書を読むべきではない。」(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ) 私のスタート地点は、「すべては遊戯である」というある種、判り易い結論に人はなぜ憧れるのか、そこから、なぜ人は、「遊戯とは」と、尋ねるのか、という方向に徘徊します。 ホイジンガも、前掲書の中で、遊戯と言語という項目を用意して、遊戯と言語の関係を考察しています、その簡単な結論は、遊戯というものが一つの語で表わせるような単純な概念ではなく、複雑な概念を含んでいるということ、複数の表現を持つということでした。 さて、ここで、冒険して見ます。そもそも言語の起源など私のような素人があれこれ申すのも恥ずかしいですが、漏れ聞くところによれば、全体の行動や全体の事物の中から、なにかの基準による同一性によって行動や事物を「言い分けする・ことわけする」と考えることが出来るでしょうか。 この点を遊戯に関して、言い直せば、私たちのすべての行動の中から、楽しい事・面白い事といった基準で、それらの具体的な行動に、「あそび・たわむれ」といった抽象的な概念を嵌め込んで「言い分けする・ことわけする」と表現することが出来るでしょうか。この時強調したいのは、元々楽しい事・面白い事は、単独であるわけではなく、苦しい事・嫌な事と複雑に絡み合っている、繰り返される諸行為や事物の中から、一部の同一性を引き出した、という点です。 ところで、私は決して、唯名論者ではありませんが、言語が単純な伝達の道具とは考えていません、「あそび・たわむれ」といった言葉が使われることにより、私たちの行動が、逆に、言葉の影響を受けて、益々抽象的な「遊戯」といった概念・形式を抽出して、ついには「純粋遊戯」「遊戯の本質」といった概念にまで、到達することでしょう。 つまり、最初は具体的行動とリズムを合わせて機能していた「あそび」という言葉が、抽象的な概念となりすぎることによって、具体性を欠く事になり、結局「遊戯とは」と、問う羽目になってしまったのだと。この事は、われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い、と言う事になるのですが。 ここまで書いてきて、少々不安になりました、ご質問者様はこの回答を、質問に対する批判と受け取りはしないかと。しかし、実を申しますと、私自身かって「遊戯とは何か」というテーマで質問しております。当時は上記のようなことは考えていませんでしたが、こうした言葉の問題を考慮した後にも、「遊戯とは」と思弁的な哲学、文学的な哲学を展開することは大変素晴らしい事と、敬服いたしております。ただ、回答者には文学的素養が無く、ご質問者の意図とは外れた回答しか出来ない、という事実でしょうか。長文・駄文、失礼しました。

amaguappa
質問者

お礼

さて、fishbowlさんの冒険譚に入ります。 言語の起源、といいますか、言語機能と同一の働きをすると考えられる認知、といったほうがより核心に迫りますが、 言語とは、まちがいなく、何かの同一性を行為や事象のうちに見出して、対象化と認識の統合を可能にし、 その本質はおっしゃるように「ことわけする」という営為であると言えるように思います。 ソシュールの連辞・範列関係を考えてもよいと思いますが、 「これはソファですか? 電車ですか?」に答えるためには貯蔵池をいくつも持つ地下水脈が必要ですね。 その意味で、fishbowlさんの示唆なさったように、あそび・たわむれの抽象概念は、 恣意的な同一性によってみいだされた「ことわけ」の結果にすぎません。 もしヴィトゲンシュタインに「遊戯とは」と尋ねたら、 複雑な場合分けや範囲の変数を含む回答をくれるとともに、わたしが一つを選び出すことによって また一つ回答を増やさなければならないと言うかもしれません。 > われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、 > 真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。 > 言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い そのとおりですね。 ただ、一つだけ付け加えさせてください。 わたしたちは、遊戯という対象化された概念についてばかりではなく、 その対象化された概念の、使用について、考察することができます。 その問題の中へはいっていくと、無数の行為の観察はいうまでもなく、 遊戯という概念を保つことの意味、遊戯の反復性、遊戯の変質、遊戯の権利と主体性、遊戯はなぜ意味を失うか、など、 たいせつなことが、目の前にひろがってくるかもしれないと思うのですよ。。。 (補足欄から続けて使用いたしました)

amaguappa
質問者

補足

ありがとうございます。どうか、そんなに恐る恐るおはなしなさらないでください。 というのも、わたし自身はフィンクと意見を一にしてはいないのです。 書棚から一冊出して、ひとつの考え方をフィンクから借用することから始めました。 そのとき手が触れた隣のウィニコットはすばやく却下されました。(『遊ぶことと現実』) だからこの質疑の最初の発言者が、フィンクというわけです。 みなさんが、それを足がかりないしたたき台に、考察をすすめてくださることを願ったにすぎません。 胸のうちを一つ明かすと、仏教のいう遊戯が視野に入っていました。ことさら取り上げる意図はないのでしたが、 小鳥が魚が遊ぶことについて回答を寄せてくださる方がいれば、この方面で伺ってみようかなと思っていました。

回答No.55

amaguappa様、こんばんは。 この度も、たくさんお礼を下さりまして、本当に嬉しく思います。 ありがとうございます。 何度でも読み返そうと思っております。 明日締め切りでしたよね、間に合えば、厚かましくも再度投稿させていただきたいと思っておりますが、 「はい。楽しみにしております。今回でなくてもまたの機会もございますゆえ。」 とあたたかく仰って下さったのが、殊のほか何よりも嬉しかったです。 ありがとうございます。 そして、間に合わないことのないように、肝心なこと一つだけ申し上げますと、 この度は、私の拙文が元でamaguappa様に対し多大なご心労をおかけしてしまったことにつき、 大変申し訳なく思っているのです。 心で思っていても、伝わらないと意味が無いことに思われますので。 本当に、ごめんなさい。  その上で、難儀な諍いにまで発展した点も含めて、amaguappa様におかれましては、我が意をお汲みとり下さった証として、お礼/補足欄はブランクのままになさって下さい。 どうか、お願い申し上げます。 そして、本当にありがとうございました。 (間に合えば、また明日夜にでも投稿させて下さい。)

amaguappa
質問者

お礼

肥やしにもならないものを、汲み取りません。

amaguappa
質問者

補足

たびたびのご回答、ありがとうございました。 感受性の豊かさの滲み出るご回答、楽しませていただきました。 > 我が意をお汲みとり下さった証として、お礼/補足欄はブランクのままになさって下さい。 とのことですが

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.54

お礼ありがとうございます。 思想の潮流については、もうすこし考察しても面白いですね。 日本独特の「大衆性」と「遊び」についてですが、最近ちょっと挑発的なダダイズムもどきのひとにスノッブ(ええかっこしい)って言われちゃいました。自分では大衆の中の大衆と思ってたんだけど。。。 そういえば、テレビで浜ちゃんがある読書好きなタレントさんに「ええかっこしいか」って言ってたなー。「なんじゃそれ」って思わず突っ込みたくなっちゃったんだけど。 文庫なんてワンコインで買える様な、たこ焼き買って食べるくらいの遊びだと思うんだけど、まさかたこ焼き買って食べて 「まあー優雅にたこ焼きなんてお食べになっちゃって」なんて言わないと思うんだけど、おっかしーですよね。なんか日本人て。 どうも、お話にもならないような、潜在的な大衆性の堅持に、まだまだ奥深いものを感じるんですよね、最近。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 んんん。 思想の潮流について、考えてたんですか。 そうですね、面白いでしょうね。 歴史、政治、経済、いろんな方面から考えますからね。 そして過去や現在の社会現象の観察。観察。観察。 ノートしながら、繰り返し繰り返し、考えないと、 思想の潮流について考えることはできないかもしれません。 ダダイズムもどきのひとですか。 既成の価値観の転覆をはかろうとしつつ、流れに従順な人なのかな。 「自分では大衆の中の大衆と思ってたんだけど」 というheartmindさんの「潜在的な大衆性の堅持」も、なかなか奥深いですよ。 スノッブのええかっこしい、ってなんで言われたのかわかりませんけれど、 ダダイズムなら、 二畳間カイコ棚暮らし、飲食は知人にタカる、お風呂は恋人の家で使う、口論と芸術に明け暮れる、 あたりの視点から言ったのとちがいますか。 たこ焼きなんて、そんな、生ぬるい既成価値に迎合しちゃだめ。。。って考えかもしれません。 芸人さんは、たぶん、 視聴者層を「低め」に見積もって、さらに視聴者層より「低い」ところを意識する、というプロ意識があるでしょう。 小中学生が反射的に笑うくらいで、ちょうど、仕事になるのではないですか。 テレビというのは、番組制作している人に、アホ・俗物 が大変多いのですが、 あの箱の中で働いている芸能人は、経験や忍耐を積むので、相当賢くなるのです。 だけど、いつまでも、小中学生の反射神経とおなじ感覚を忘れないようにしなければ現役でいられません。 だから自分の成熟を捨て続けるのではないでしょうか。 ここに何度も来てくださりありがとうございました。 でも、楽しかったですか? それならいいのですが。 楽しいと思うことをしてくださいね。

  • ENERGAIA
  • ベストアンサー率9% (5/53)
回答No.53

 神(全体における存在者)をオハナシ(遊戯)として存在せしめるという、この異様な世界形式は、われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で試されている(賭けられている)のだという予感をよびおこすであろう。 ↑神に試されていなければ、これだけの発展はなかっただろうね。  世界の本質がオハナシ(遊戯)として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(する?)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。 ↑そうかな... オハナシを作ったのは誰だろう?そして、それを破壊する者はどうなんだろう?  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性 ↑ オハナシを前提として成り立っている雨合羽。

amaguappa
質問者

お礼

フィンクの二つ目の文章から  世界の本質=遊戯  自分だけが・全体に言応ずる(ママ)・唯一の存在者 ということが読み取れるので、これを最初の文に代入すると以下になります。  唯一の存在者たる自分(全体における存在者)を  世界の本質(遊戯)として存在せしめるという、  この異様な世界形式は、  われわれ有限的人間がまさに  魔術的生産の創造力と栄光のなかで、 ....(a)  深刻な意味で「賭けられている」のだという  .....(b)  予感を           .....(c)   よびおこすであろう。 ここで、ENERGAIAさんのおっしゃる「神」や「オハナシ」と考えられるものは、(a)の魔術的生産という力動ではないでしょうか。 「有限的人間が・なかで・賭けられている」という記述からも、外部的な 力の場 を想定しているものと読み取れます。 そこは、魔術的であるので明証性がなく、また、創造力と栄光をともなう生産をおこなう場です。 (b)の「賭け」は、遊戯として存在するのでなければ「自分」が存在しない「全体」であることから、 「自分」の存在や「全体」の存在を、非在や消失でないほうに「賭け」ているものと思われます。 それは、根拠や確証のない意思である ということもできるかと思います。 しかしこうした想定、設定的想念というものが、(c)「予感」であることを、フィンクは明記しています。 そして、フィンクは次のように続けます。  したがって  一切の存在者の遊戯的存在根拠への  人間的生存の遊戯的開示性を、 .....(d)  詩人(リルケ)は次のように歌っている。 つまり、ないものへのひろがりかた、意思としてのあらわれかた、をフィンクはリルケの詩に見出したといえるかと思います。

amaguappa
質問者

補足

念のため確認です。「 」のなかは、すべてフィンクの本からの引用です。 のちほど、あらためてお礼させていただきます。

回答No.52

amaguappa様、こんばんは。  日付が変わって、昨日は雛祭りの日、楽しくお過ごしになったことと拝察致します。 先にいただいたお礼について、就寝前にちょっとふれさせていただきますね。 [回答番号:No.64] >これは、小林秀雄でないと雰囲気が違ってしまうことでしょう。 そう、そうなんですよね。 耽美、スタイリッシュ、整合性ある独特の偏屈めいた存在感。 殊に喜劇の場合は、部類の骨董好きときてますから(失敗の武勇伝も数知れず)、 意味ありげな風呂敷包みを、是非とも小道具として添えてあげたい気分なのです。 >詩と演劇とが、表現者にとって二つの頂点というのは、世界的に東西にも南北にも広く認められることですが、 >人間の遊戯のすべてがそこにあるからなんでしょうね。 はい、仰る通りだと思います。 そして両者において「言葉」を巧みに(魔術的に?)操ることで、 さらなる≪「言葉」で表現し尽くせない多義的で複雑な諸々のもの≫を表現するべく、日々邁進するのですよね。 常に私たちがそれを知りたがってやまないという衝動に突き動かされているかのようでもあり。 >舞台は不思議です。むしろ劇場がそうなのでしょうが、なんでも包み込んでしまえる気がします。 >「異様な世界形式」が本領を発揮する時空なのでしょうか。縮図というのとも少し違うし。 そうですね。 「これは演劇なんだ」と承知の上だからこそ、とことん混沌を極めたり遊びの冒険が出来るのかもしれませんね。 劇場の様式や面(仮面)装着の有無などにおいては、古今東西、異種異質なものが、様々に見受けられましょう。 またさらに、野外能や野外の円形劇場でのオペラなど、屋外で繰り広げられるという「非日常の舞台、世界に放たれた劇場」だからこその妙、 迫真、崇高、そして過去と遠方への憧憬などといった共通性が見い出せると思うのです。 また、ご指摘下さった「祭りや神楽などの日常/非日常」についても、引き続き思案中です。 >そういえば「ご神託」もどっかに落ちてたような気がします。 「ご神託」って、誰かが訊くことを願い出て、そして初めて得られる性質のものですよね。 ですから、誰も訊いていないのにどっかに落っこちているなんて、 ちょっと、奇異に映るのです。 [回答番号:No.54] >やっぱり、関心を持ち持たれてそこにもある意味で自分がいるような、 >自己反映的な感覚と自分がここにあるという充足感とが、うまく育っていないんじゃないかとも思われてきます。 なるほど、そういうことなのですね。 そしてそれは、「遊戯の質量」だけが育むものではないのでしょうね、きっと。

amaguappa
質問者

お礼

洞察に富んだご回答をありがとうございます。 > (詩と演劇の)両者において「言葉」を巧みに(魔術的に?)操ることで、 > さらなる≪「言葉」で表現し尽くせない多義的で複雑な諸々のもの≫を表現する なるほど、そのとおりですね。言葉の不完全性を補完すべく。 > 屋外で繰り広げられるという「非日常の舞台、世界に放たれた劇場」だからこその妙、 > 迫真、崇高、そして過去と遠方への憧憬などといった共通性 これはほんとうに、屋内とはまったく違った効果が生じますね。 虚構が浮き彫りになると、現実もひときわ輪郭があらわになるようで、 相乗効果となるのかな。迫力がありますね。 古典悲劇などは、時間の経ち方などに、非常に気を配りますでしょう。 なにか法則があると聞いたような気がしますけれども。 それも野外劇で見ると、だんだん夕暮れになっていく現実と、舞台のすばやい一日とにずれがあって、 いっそう虚しい感じになります。 > 「ご神託」 くだらない冗談ですので。。。 あるいは、時空がねじれるのかも。 まあ、おみくじだって初めから書いてありますし、 製造すると邂逅するとで成り立っていますから。 > 「祭りや神楽などの日常/非日常」についても、引き続き思案中です はい。楽しみにしております。今回でなくてもまたの機会もございますゆえ。

  • heartmind
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回答No.51

お礼ありがとうございます。 わたしが、「おしゃれ」を恥ずかしいのは、日本人の大衆文化に対するちょっとしたあらがいなのかもしれませんね。ブランド物のバックを持ち歩く大衆層みたいな独特な日本文化にたいする、赤面みたいなものかもしれません。日本人であるがゆえに、うすっぺらい節操のなさみたいなものにあらがいたくなっちゃうんですね。興味を持って、積極的にカスタマイズして取り入れることはいいことだと思うんですけどね。 日本社会はこのちょっとてきとーな大衆心理でのびてきた部分はあると思うんですね。決して一流ではないって認めてあきらめてるところを美徳とするところが超一流みたいな。 でもね、これもいきすぎてもミスリードなんですよね。 ポエムを作る課題で、 「こういう時にかぎっておそらの雲が急にお友達にならないように」と人間関係のみをテーマにかかせるとか、 写生の時間で、 「風景の中にいきづく人間社会がちゃんと感じられるように」とか、 こういう保守思想の変なミスリードは、人間の成長をかえって止めてしまうと思うのですね。 保守自体は、もっとこころもちが大きいのに、それをミスリードする人が個人的には嫌いなんですね。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。なるほど。個人的にわかる気がします。 「超一流」だけちょっと承服しかねますけれど、 あきらめとないまぜのプライドや、偏向した美徳の照準があるのは、感じますね。 型にはめた教育指導ともつながっているのでしょうか。 >「こういう時にかぎっておそらの雲が急にお友達にならないように」 >「風景の中にいきづく人間社会がちゃんと感じられるように」 これはひどいですね。 前回のご回答にもありますけれども、 好きに作らせる、好きに描かせる、 だめでもさせる、 これ、仕事のできる人を育てるのに大切だと思います。 職人仕事の方たちは、ある程度はそうしているふしがありますけれど、 逆にそこまでの準備ができていない人間には、厳しいですよね。 触らせもしないし、ダメ出しばかりすることもあるかも。 春風亭小朝さんは、入門してすぐ、掃除も雑用も命じられず、落語の稽古をしたそうです。 指導者からみて、もう、差があるということでしょうね。 先生でも先輩でも上司でも、 背中を押すくらいの力加減がいいと思うのですが、 家族や地域で、目いっぱい人間を成長させてあげられなくなったいま、 かれらに変にリードが期待されているのかな、という気がします。 それに答えようとして、また変なリードをするのかもしれないですね。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.50

こんにちは。 「あそび」とは、くちさきばっかりで、けいけんもない、おおぼらふきのやる気だけのある新人に経験や苦労を重ねた先輩が、「そんなにやりたいなら、やってみろ」という包容力のもとで仕事をさせる場面が想像できます。 みんなだれでも初めは初心者、だから薄っぺらいのはあたりまえ、だから経験させてみよう、という土俵はきっと日本にもあったと思います。 子供ならなおさら、自由な失敗の経験値は、あった方がいいと思うのですが。 すいません、もう少し考えてみます。

amaguappa
質問者

補足

答えのないことですから、どうか考えを急がないでくださいね。 6日あたりに締めようと思っていますから、ごゆっくりと。 あと、ご自身の質問についてですが、 アスペルガーの方は、ストレスを避ける工夫を怠ってはいけません。 ストレスにならないように。。。少し心配しています。

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    「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  ↑この文章の意味が解る人いますか?また、妥当性はありますか?

  • ふしぎ遊戯【漫画本】好きな方!

    私は、ふしぎ遊戯が大好きです!! ふしぎ遊戯【漫画本】が好きな方、よろしくお願い致します☆ 原作が大好きなので、アニメは第一部と第二部しか見ていません☆ でもOVAは無理です嫌いです(;_;)少し見てしまい、とても後悔しました。 あれはほんとに別物として考えているので、漫画本限定でお願い致します。 最近、再びふしぎ遊戯にハマりました!! 自分なりに解釈していたつもりなのですが、 理解したいのに理解できない壁にぶち当たりました。 好きすぎて、どう解釈したら良いのか困っています。 なので、ふしぎ遊戯が好きな方たちは、どういう風に考えて捉えているのかなぁと、とても気になり、質問させて頂きました☆ ●美朱は、鬼宿を美朱の世界の人間に生まれ変わらせてと、朱雀に願いました。 そして、第一部の最後の所で、生まれ変わった鬼宿(魏)と出逢いました。 ●ところが、第二部で、鬼宿を美朱の世界にした瞬間、鬼宿は四神天地書の世界に、記憶(心)(7つの石)を置いてきてしまった。鬼宿は美朱への愛だけで魏に生まれ変わった。と、朱雀星君が言った。 ●そして、太一君は、魏に、『宿南 魏』として、今のお前の持っている記憶は朱雀によって作られたもの。朱雀に祈ったその場で、お前は美朱と一緒になるために美朱の世界の人間になった。 だが、やはり異界への完璧な『転生』は望めなかった。お前は『鬼宿』としての記憶をこちらの世界に忘れていった・・・と。 ●魏『半年前に生まれ変わったんなら今の家族も小学生のオレの記憶もその時、朱雀に作られたってことなんだな・・・』 ●朱雀の力でさえ不可能かも知れなかった美朱の世界への転生、その奇跡が起こった時、出来た時空のひずみに天こうが圧力をかけて、鬼宿から7つの記憶を奪い、散らせた。 ↑天こうが邪魔しなければ、完璧な転生が出来たってことですよね! ●魏は、鬼宿の心(石)だけで作られた人形(よう師)を受け入れた。オレの中へ帰れ!お前の全部を受け止めてやる。おまえはオレだと。 魏(オレ)は鬼宿を受け入れられた。魏は鬼宿(オレ)を受け入れた。 魏(オレ)は最初から魏(オレ)だったんだ。美朱と出逢って愛するために愛されるために、鬼宿を受け入れるために魏(オレ)はきっとこの世に生まれた。 ●最後、朱雀星君の言葉 魏ーーーそなたは朱雀(われ)が作ったものではない 宿南 魏の記憶も想いもそれは真実 そなたのために『鬼宿』の存在はあった 時も次元も越える力を我は貸しただけ 2人の出逢いは、そなた達自身のあいの力だったのだよ。と・・・。 とても長くなって申し訳ないのですが、ここから質問です!! (1) ★本の中の時間と現実世界の時間は、比例していないことはわかっています。では、 朱雀に祈ったその場で、転生した鬼宿、半年前に生まれ変わったと知った魏、 ↑”その場”と”半年前”はイコールで結ばれますか? 半年前というのは、本の世界での半年前なのでしょうか? 本の中では、時間が進むのが早いから、考えてしまいます・・・。 (2) ★太一君は魏に、『宿南 魏』として、今のお前の持っている記憶は朱雀によって作られたもの。 ★朱雀星君は、魏に、そなたは朱雀(われ)が作ったものではない。宿南 魏の記憶も想いもそれは真実。 ↑太一君と、朱雀の言ってる事がちがいますが、朱雀の方が正しいのですよね? (3) 魏★鬼宿を受け入れるために魏(オレ)はきっとこの世に生まれた。 朱雀★そなたのために『鬼宿』の存在はあった。 ↑鬼宿は、本の世界から美朱の世界に転生して魏になった。 なのに・・・現実世界に魏は最初から存在していた・・・ということにも捉えられますし、 そうすると、転生とは言わないですよね・・・? 魏は最初から存在していて、鬼宿の事、美朱のことを忘れていたとか・・・? 美朱が、魏の前世(鬼宿)と出逢って、朱雀に願ったことにより、魏は美朱のことを思い出したとか・・・? 本=過去へのタイムスリップみたいな・・・ 半年前に生まれ変わったのなら、魏のこれまでの18年間の記憶は一体・・・? だけど、魏は朱雀が作ったものではないから、宿南 魏の記憶も想いもそれは真実・・・ 鬼宿は、本の世界から美朱の世界に転生して魏になった。 私、鬼宿と魏の関係を上手く解釈できないのです・・・(;△;) (3) 時も次元も越える力を我は貸しただけ ↑転生したということ 2人の出逢いは、そなた達自身のあいの力だったのだよ。 ↑これは、 ★本の中で鬼宿と出逢ったこと?それとも、 ★現実世界で転生した魏と出逢ったこと? まとめ◆要するに、鬼宿が美朱との愛のために生まれ変わったと純粋に単純に想えればいいのに、好きすぎて、難しく考えすぎちゃって、グルグルしてしまっているのです(T_T)マニアックでバカですよね・・・自覚しているのですが、なかなかコレだ!というひらめきも考えも浮かばず、こうして質問させて頂いています。 参考にさせて頂きたいので、気軽によろしくお願い致します☆

  • 性質としての精神・人間存在、唯物・唯心の融合?

    私達人間は精神です、精神は性質で出来ています、性質としての存在が人間存在です 我思う処の我は 性質としての人間存在です。実存です。 実存でなくても客観視すれば世界が存在している事は自分が世界であることから間違いありません 物質が存在し その脳内物質の性質が精神としての実存を実現してる 唯心論と唯物論の融合です。人生観と世界観の根拠です。 存在性について語りたいのですが 分かる人が少なくて困っています。 誰か分かる人はいませんか?

  • ライプニッツの最善説と悪

    ライプニッツの最善説と弁神論に関する質問です。 ライプニッツは、この世界は可能世界の中では最善の世界であり(最善説)、この世に悪が存在するのは、被造物である人間に問題がある(弁神論)があるといっています。 しかし、この主張からは 「悪に満ちた人間が、神の作ることのできた最善の人間の姿である。つまり、神は『悪をなさない』という完璧な人間を創造することはできなかった」 という、神の全能性を否定する立場が読み取れますが、ライプニッツはそういう立場だったのでしょうか?

  • 量子論? 光の粒子と私達は互いに影響を与え合うということですか?

    こんにちは。 量子論の入り口で悩んでいるものです; もともと文系です 私達は光によってこの世界を知覚しますよね。つまり、私達の世界(=私という存在)は光によって存在するとも言えると思います。 …ところが、私達が「光を介してこの世界を知覚」したことによって、光の粒子(つまり光量子)も変化または変質するのでしょうか? それによって、私達の知覚する世界も姿を変えたりするのでしょうか? つまり、私達の存在も、光(そして光によって現れる世界)というものに影響を与えているってことでしょうか?? 私は量子論について正直ほとんど理解していないような人間なんですが; 「シュレディンガーの猫」の話などを読み、量子論の本質って、もしかしてこういうことなのかな???……などとひらめきました。 これって、 ・量子論的にも ・物理学的にも ・哲学的にも 的外れな発想なんでしょうか? どのような意見・アドバイスでも構いません。 どなたかご助言、よろしくお願い致します。。。

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 「存在」について

    存在そのものに対する疑問は哲学者で誰が研究されたことがありますか?できるだけ世界的に有名な哲学者の名を挙げてください。できれば著書もお願いします。 存在は人間に認識されて初めて価値を持つでしょう。しかし人間が認識せずとも、それは存在し、そのものは自然界においての自らの役割を果たします。存在って何なのでしょうか?

  • 社会に出るにあたっての抽象的な相談。

    大学生です。 今の世界の組織は人間を代替可能な存在として扱っているように見えます。 しかしそんな組織の中にいる個人にとって自身は代替不可能な存在であって当然です。 この矛盾を解消するために個人は所属している組織にとって代替不可能な存在となることをこれからの時代より一層求められてくると考えます。 そこで、組織の中でのし上がる力、その中の自分を豊かにするためにまず他人を豊かにする力がこれからの時代重要になってくるんだと思うのですがどう思いますか。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。