• ベストアンサー

悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

 次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

こんばんは。 興味深いトピで見入ってしまいました。 悪は存在しない。 私もそう思いますね。 そもそも何をして悪と呼ぶのか? 人道的な事に反していない限り(※人殺し:盗み)それは悪ではない。 元々悪とは、自分で作るものではなく相手がそう受け取るものであるのだから。 例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。 嫌い=悪 でも無いんですがね(笑) 反対に正しさとは何かといえば、結局これもまた誰かに決められたりするものでもないんですよ。 だって今ある自分の正しさは「生きてきた結果」としての価値基準としてあらわれているわけで。 そうすると、時々その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする人もいるけれど、それはその人本人の「生」を否定することになる。 だから誰も間違ってはない(悪ではない) 正義も悪も紙一重ですから、結論トピ主様が行きつかれた答えにたどりつくんじゃないのかなと。 きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって 当たり前のことだと思います。 人により、 人により、 何が正しくて何が悪なのかなんてわかりませんのですから。 人に人は裁けない。 万能な人もいない。 だからこそ悪だの正義だの言う前に、 まずは「相手を受け入れる」こと。 それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。 青二才が失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 おおっ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人に人は裁けない。  万能な人もいない。  だからこそ悪だの正義だの言う前に、  まずは「相手を受け入れる」こと。  それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一歩すすめてもらいましたね。  hamaki1978 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって  当たり前のことだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここも いいですね。ひとの《自然本性》なんだから ああたらこうたら講釈をつける前にすでに わたしたちは自由に生きている。  ★ だから誰も間違ってはない(悪ではない)  ☆ ここから出発するのでなくっちゃ。ね。そのあとでなら ただし  ★ その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする  ☆ のではなく その人の具体的な考えについて 反対意見を持つなら 大いにこれも自由に批判をもしつつ話し合っていけばよい。相手を受け容れたゆえに 考えの妥当性を互いに問い求め 自由な批判を大いにおこなっていく。ならば互いにさらにいい考えにたどり着けるでしょう。人びとの知恵というのも捨てたものではないでしょう。偉い人だから 正しいとも限らないですし。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。  嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここんところを 互いにそして広く一般にも 考え合い考えなおして行くとよいでしょうね。  批判しあって 議論がかみ合うと けっこう互いに楽しいものですよ。そこから和を以って貴しと為すが生きてくるのではないですか?  ありがとうございました。これからも自由なご批判をお待ちしております。

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その他の回答 (29)

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.9

悪は善です  善は悪 ですので善も悪もない 善も悪も人間が勝手に定義しているに過ぎないだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  これは分かりやすい回答内容とお見受けします。  つまり ちょうど直前のご回答(No.10)についてわたしが推測した内容と同じようではないかと考えるからです。  ごらんになって欲しいのですが その一部を再掲しておきます。  ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ ( bragelonne の推測として) ~~~~~~~~~~~~~   すべては先験的・超越論的に ヒトの《身体および精神》なる自然本性において 潜在的に善悪の概念もはたらきも宿っているものなのだ。   これを さらにちょっと精神をめぐらせて認識を敢行するならば これらの概念もはたらきもすぐさま 顕在化するものである。   あとは いちいち個別のものごとについて 善だの悪だのと言っていても ほとんど世界は始まらない。汝自身を知り 世界に生きよ。人びとは共生せよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ こういう神託であるように思えますが どうなのでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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回答No.8

>組織の内外での組織化 個体も細胞の組織です。 組織の中の「組織化」は個体の一部であり、 組織の外の「組織化」は組織の延長です。 あらゆる現象は、ある単位の相互作用に生じる進化 ≒組織化>階層現象上位単位化のくり返しです。 ここでは「悪」という認識を発生する意識体を 個体としているので、それ以降の相互作用に生じる 組織性が「組織化」の対象です。 >相互作用の編成 認識の本質は五感を通じた感受を脳内に再構成する事で、 外的存在として把握=相互作用の予測を行う事です。 その予測は、単なる自己中心的な欲求の延長だけでなく、 環境の変革による二次的効果の予測による道具や、 個体同士の協力による社会性を派生させます。 >経験の移入 先の「認識の本質は五感を通じた感受を脳内に再構成」 において、その「五感の相関」には本能=生理的欲求の 先入が不可欠です。 たとえば「赤」という色は物理的には存在せず、単なる 可視光線の連続的変化の途中の波長において、炎や血と いった生理的に影響のある経験(個体的&遺伝的)を 蓄積する事で、「波長の連続的変化」という一次元に、 四次元的な(五感の相関した)経験が先入化した結果、 生じるのです。 (空間的広がり自体、光や音といった情報性の強い相互 作用に対する、触覚や味覚といった生理的相互作用を 先入化したものです=“そこ”何が起きるかの予測)。 (あとは長くなるので、自分で考えて下さい。 大事なのはこの言葉を理解する事ではなく、日常の 感受にこうした観点を投影する応用力です)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  そうですねぇ。  まづわたしの質問を確認します。次の二点であらましを述べていると思います。  ☆☆ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q‐4】 衝動が意志として〔展開される〕とは 衝動をわたしが意志において引き受けるということでよいのか? もしよいなら それは すでに衝動そのものではなくなっていて ふつうの経験行為としての意志であり意志行為となっている。  ところがそれが 《認識上に〔展開される〕》とある。ならば ただ認識するというのみであるということになるが そういうことか? 衝動の内容を意志として採用するかどうかを決める過程での出来事を言うに過ぎないのではないか?  【Q‐10】 ・・・わたしにとって どういう役に立つものとなるのか? 知らなくても済んでいく《常識》ではないだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どういうことかと言いますと 《認識》の問題と《生活日常における実践》のそれとに分けるならば 前者に片向いておられる。のではないか? こういう疑問です。  理論と現実とをまとめて認識しようとしておられる。けれども その認識の成果を実行に移すとなると むつかしい。それは何故かというと 理論がどうも その視点として あたかも宇宙のかなたのどこかの地点に足場を置いたものとなっているのではないか? と考えられるからです。  言ってみれば  ○ わたしは憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ。  ○ わたしは 双子の兄のエサウを憎み 弟のヤコブを愛した。  ☆ と悪びれずえこひいきをも堂々と言う神の立ち場のごとくであるのですが どうですかねぇ? つまりこの世の経験的・相対的なものごととしての善悪をとうぜん超えたところの視点 であるように伺うのですが それの現実性や如何に? というところではないでしょうか?  あるいは いやいや現実的なのだよという反論が返ってくるとすれば それは 次のような内容になるのかも知れません。  ★ ( bragelonne の推測として) ~~~~~~~~~~~~~  すべては先験的・超越論的に ヒトの《身体および精神》なる自然本性において 潜在的に善悪の概念もはたらきも宿っているものなのだ。  これを さらにちょっと精神をめぐらせて認識を敢行するならば これらの概念もはたらきもすぐさま 顕在化するものである。  あとは いちいち個別のものごとについて 善だの悪だのと言っていても ほとんど世界は始まらない。汝自身を知り 世界に生きよ。人びとは共生せよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう神託であるように思えますが どうなのでしょう?

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  • ota58
  • ベストアンサー率27% (219/796)
回答No.7

人類にとっての悪は存在しません。。 自分にとって都合のいいことは善です。 自分にとって都合の悪いことは悪です

bragelonne
質問者

お礼

 応答のしづらいご回答内容であることに間違いないでしょう。  ★ 都合のいい・悪い  ☆ これらの内容をさらに具体的に分析すると いかがあい成りましょうか?  簡略であい澄みません。

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  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.6

質問者の本文とNo.3さんへのお礼を基にして見解を述べます。 善悪の定義は過去の多くの哲学者が試みた所ですが、明確な(だれでもが納得する)定義はまだないと思います。 ましてや「善悪」の基準を「一人ひとりの主観」に置くという前提となると水掛け論を防ぐもう一つの仮説が必要でしょう。哲学的な方法では答えが出せませんのでここでは「脳科学」的な面から少し意見を述べます。 一人ひとりの主観ということは自分の脳がある事柄を「善」と考えるか「悪」と考えるかということに帰着されます。脳の働きには遺伝的に決まる部分と生後の環境との関わりで決まる部分があります。・・となれば「一人ひとりの主観」そのものがその人が生きてきた環境・社会に影響されざるを得ないと言えます。(特に善悪という抽象的な考えを司るといわれる前頭葉前部は死ぬまで発達を続けると言われています。) ということは厳密な意味で「一人ひとりの主観」でとらえられる善悪はその人だけのことです。普遍的な悪(あるいは善)の定義は主観的には出来ないというのが脳科学の結論です。 「究極の悪」はこの前提で一つの定義を与えられます。 ・・地球上のすべての人間が悪とみなしたことこそ「究極の悪」である。 これは面白くない結論でしょう。ここには御説のような善の減少(不足?)による悪という説(質問者の方の真意が十分理解できていないのですが)は出てきません。こうした説は自分が悪人であることを心底考え抜いた親鸞聖人のレベルに達したら考えられるのかもしれませんが今の私にはまだわかりません。 殺人は多くの人が悪だと考えますが例外は山とあります。 チャップリンがいった「戦争の英雄」・・多くの場合「善」とされます。 介護疲れで妻を殺した夫・・「善」とはされないが多くの人はこの夫に同情する。 極端な例をあげると 地球を破壊する爆弾を発明した人がいて「これだけ悪を犯す人間は宇宙のためにならない。これを滅ぼさねば自分は宇宙に対して善をなしたことにならない!」と言ってその爆弾を破裂させた。本人はこれが「善」だと思ってやったことだとしてもこれを究極の「善」とは言いにくいでしょう。 つまり人類滅亡といった最大の殺人・・これは多くの人が最大の悪だと思うかもしれませんが少なくともこの本人にとっては「善」だったわけで・・実は「人類がいるから環境破壊が起こる。人類は早く滅亡した方が良い。」と思っている人は決して一人や二人ではありません。こうした人々は「脳神経症」として病人と扱われる場合があります。しかし過去の多くの著名な哲学者や芸術家が「病人」となっていったことは人類の思想を研究する上で重要な事だと思っています。 御質問の内容とはかなりはずれた見解になったかもしれません。その場合は読み飛ばしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 juyjuy さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。正直に申します。残念ながら わたしの出した条件が ちがった方向に持って行かれました。つぎのところです。  ★ 一人ひとりの主観ということは自分の脳がある事柄を「善」と考えるか「悪」と考えるかということに帰着されます。  ☆ わたしが《主観》を言うのは 《うそでない心》と《うそをつくときウソと知っている心》とに分ける〔(2)〕のであって そのさらに具体的な基準は 《感性》つまりそのとき《やましさ・後ろめたさを感じるかどうか》〔(1)〕だと言っております。    この基準で善悪を区分してみます。  ★ 脳の働きには遺伝的に決まる部分と生後の環境との関わりで決まる部分があります。  ☆ 遺伝で決まろうと環境によって決まろうと 決まったかたちの脳の働きにおいて 何らかの主題を前にしてその事態や由来や関係者のことやなどを知解してその情報を整理し そこからわたしの意志に合ったことを取捨選択する そうして最終的な判断をくだす さらにこれを実行する。この判断について わたしの心が《やましさを感じたか感じなかったか》 これで悪と善とに二分されるという方程式なのです。  ★ 地球上のすべての人間が悪とみなしたことこそ「究極の悪」である。  ☆ それは どうでしょうか 投票するのでしょうか? それよりは《顔を赤らめるかどうか》 この基準のほうが てっとり早くてしかも確実であるようですよ。なぜなら 他人は分からなくても 当人は必ず知っていることだからです。  ★ 殺人は多くの人が悪だと考えますが例外は山とあります。  ☆ ありません。本人が必ず知っています。  ★ チャップリンがいった「戦争の英雄」・・多くの場合「善」とされます。  ☆ 多くの場合かどうか分かりませんが もしそうだとしても それは 社会的な・政治的な第二次の――辻つま合わせの――判断であるでしょう。第一次での判断は 決まっているということです。  ★ 介護疲れで妻を殺した夫・・「善」とはされないが多くの人はこの夫に同情する。  ☆ 同情するけれども その行為が悪だということは 誰もが知っています。  ★ 本人はこれが「善」だと思って  ☆ というのは 社会的に他人に向かって言うときの《思い》は すでに第二次の判断です。  ★ 人類滅亡といった最大の殺人・・これは多くの人が最大の悪だと思うかもしれませんが  ☆ これはわたしには分かりません。一人のひとを殺すという悪と何人ものひとを殺すという悪とは 同じ悪だと考えます。  究極の悪とは どうもほかにあるように考えています。  どうでしょう? 一方的に批判をこころみましたが このように考えております。

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回答No.5

悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 psytex さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。ともかく初めて出会う文体です。  まづ個別に理解がむつかしい用語や判断箇所を挙げますので 再度説明をつけ加えてくれませんか?  ★ 深まる認識が・・・組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成〔する〕  ☆ 【Q‐1】 個体どうしの相互作用は 組織化するかどうかにかかわりなく また 組織の内外でも 起こると思われるが なぜ《組織化に於ける》とここでは限定するのか?  【Q‐2】 《認識が 個体どうしの相互作用を〈編成〉する》とは どういうことか? 認識上の整理を言うのか? ただそれを言うのか?  ★ 経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動  ☆ 【Q‐3】 《衝動》が 《経験の基底(移入)である》とは どういうことか? 人間の経験行為はすべてその基底に衝動を持つということなのか? 《移入》とはどうしてか?  【Q‐4】 衝動が意志として〔展開される〕とは 衝動をわたしが意志において引き受けるということでよいのか? もしよいなら それは すでに衝動そのものではなくなっていて ふつうの経験行為としての意志であり意志行為となっている。  ところがそれが 《認識上に〔展開される〕》とある。ならば ただ認識するというのみであるということになるが そういうことか? 衝動の内容を意志として採用するかどうかを決める過程での出来事を言うに過ぎないのではないか?  ならば 【Q‐5】 それだけの《認識》の作業過程によっては  ★ 不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。  ☆ ことはまだない。かまたは まだ不十分であると考えられる。《体系性(>価値観)を帯びる》には到らない。その前の段階にあると思われる。  それは したがって【Q‐6】  ★ 体系への編入(常識)は ・・・先験的価値領域を形成する。  ☆ というふうにつながるのか? つまりここまででは わたしの意志ないし意識にのぼらない段階(または領域)のことを言うのか? ただしすでに《認識》行為として語られている。  ★ そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、・・・  ☆ 【Q‐7】 《自己中心的〔認識〕》とはどういうことか? その《補完》とは何か?   【Q‐8】 もしそれを《善》と呼ぶのなら 《認識》とは言っているものの じつは《意識以前》の領域における先験的な《身体=精神》的体得のようなはたらきを言うのか? そういうことではないのか?  ★ ・・・それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。  ☆ 【Q‐9】 これは やはり同じく認識しうるとしても意識や意志のはたらきより前の段階における《精神=身体》的な動きを言うのか? つまりは寿命の時間的な変化だとか 身体・体力の衰え それに伴なう精神的な基礎条件の変化 こういったことを言うのか?  【Q‐10】 もしこういう内容で善悪の規定をおこなって その世界における位置やはたらきを明らかにしたとすれば それは たしかに  ★ 善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって  ☆ ということになると考えられる。つまりそれは《他律的常識》に属する。つまりそれは わたしの自律の能力と範囲を超え出ているものである。放射能が そのはたらきが物質に応じて一定のかたちに決まっているというたぐいの《善悪》であることになる。のではないか?  つまりそれだと 宇宙のかなたのどこかから わたしの経験行為を動画におさめて この部分が善であの部分が悪だと認定しているに過ぎないということではないのか?  わたしにとって どういう役に立つものとなるのか? 知らなくても済んでいく《常識》ではないだろうか?  以上 よろしくお願いいたします。

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回答No.4

 心は一つ。  ハートのマーク。  右と左に別けてみたくなります。  風船に例えましょう。  心の風船をひょうたんのようにしてみましょう。  ハートのように左右均等に形よくなれば、バランスの取れた標準的人間といえるように思います。  仮に、右を好ましい心(神や仏の世界への指向性)、左に好ましくない心(悪魔とか煩悩といった悪への指向性)と受け止めてみたく思います。  人の心はひょうたんのような形の風船のようなもの。  心の状態で、右側が膨らんだり、左側が膨らんだり。  今回のbragelonneさんの質問の趣旨は、とても良く分かりました。  真実を見るための、視点が共通しているように思いましたが、早合点でしょうか。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

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回答No.3

ちょっと理解がイマイチなので、質問者さんの意向と全く違ったらすみません。 善と悪といった言語による抽象的な表現は、思考の当事者によって評価が変わると思います。 同じ事象でも、Aという人にとっては善でもBという人にとっては悪であることが考えられます。 当事者にとって、直接的、或いは間接的な利益損失をなんらかの方法ではかり、決定されます。 例えば雨です。これを良いと思う人、悪いと思う人は両方います。 単純な例でいえば、前者は農家、後者は傘を持っていない濡れるのが嫌な人です。第三者がどちらの味方になるかは分かりません。 雨は意識を持たない、されど、善にも悪にもされます。 意識を求めるなら、擬人化しても良いでしょう。 どのような考えを雨が持っていたとしても、その考えが伝わらなければAとBの評価は変わりません。 別の場面で人に置き換えても、当てはまるのではないでしょうか。 善の減少が悪になるという考え方ですが、これは何を起点にするかでまた変わるのではないでしょうか。 善がなければ悪がないということは、最初は善であったということになります。 何を持って最初を善としたのかが一つの問題になるでしょう。 悪が最初はなかった前提では、悪との対比ではないです。 お腹の中にいる赤ん坊は、当然、善と悪という言語を知りません。 肉体と精神が形成されるにつれ、快感、不快感を形成していくわけですが、これをもって善と悪としてみましょう。 形成される前は無ではないでしょうか。 神経が発達して最初に感じるものは何か分かりませんが「心地よい」でも「気持ち悪い」でもいいです。 「心地よい」が赤ん坊にとっての善だとしても、「気持ち悪い」が悪だとしても、どちらを先に感じるかで善と悪を説明できるとは思えません。 究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 karelcapek さん ご回答をありがとうございます。    ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。  ( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。  ( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。  くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。  でもこの( b )の選択は 主観においては ひょっとすると善悪にからませて捉えられるかも分かりません。ことほどかように ( a )の主観による判断は 基礎を成します。  しかもそのとき 人びとに共通の・つまり普遍的な基準は じつに 感性にあると見ています。それが (1)における悪の知覚かつ認識の問題です。  ★ 雨  ☆ は( b )に入るでしょうか。  ★ 快不快  ☆ はこの快不快じたいをさらに ( a )という過程をとおします。つまり主観判断です。言いかえると この場合 快であろうと不快であろうと それが《うそにかかわるやましさ》を伴なうかどうかで悪と善とに分けられるという寸法です。  ですから たしかに展開してもらったように 世の中さまざまであり まちまちの善悪にかんする価値観を持つであろうけれど おおよそ(1)から(4)までと上の( a )( b )の条件をまとめたかたちで基準とするなら 案外人びとに共通で普遍的な区分ができるのではないかと思っております。  どうでしょう?  ★ 究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。  ☆これは 損得の極限と言うのでしょうか そういう意味での究極であるように思います。その内容をなかなかうまく定義できないところの《しあわせ》に関してなら どうかといった視点もあるのではないでしょうか。  もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは 何か? こういった観点で考えたいとは思っているのです。これについても どうですか?

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  • tp068875
  • ベストアンサー率16% (38/230)
回答No.2

1.2.は「嘘」についてなので論点がまったくズレていますが 「嘘=悪」にするには間違いと判断します 社交辞令も悪なら世の中争い傷つけあうだけです誰の為にもなりません 嘘にも種類があって、その人の嘘の使い方次第で白か黒か(または混ざった状態か)が決まります。 物事をまったく別の物に掏りかえるのはとても罪深いことで 指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります。 さて、ここからが本題 >> ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 自分のこころ、悪と分かってての言動や思考と私は思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 tp068875 さん ご回答をありがとうございます。  まづ序論のほうですが  ★ 「嘘=悪」にするには間違いと判断します  ☆ うそをつくことは どうなんでしょう 自然本性としての心をひねくれさせませんか? ひねくれたなら 元の状態(つまり これを単純に 善と言うだけなのですが)が傷を受けませんか? 傷がつくなら その善の欠けの部分は悪であるという定義なのですが? まづそういう定義をしているということですが どうでしょう?  でも この定義によれば 一般に善悪という言葉の使い方にかんして だいたいは説明することができると思っているのです。  ★ 社交辞令も悪なら世の中争い傷つけあうだけです誰の為にもなりません  ☆ これもつまりは 社交辞令と自分が捉えた時点で おのれの心にウソが入って来ているのだと考えるのです。  ★ 嘘にも種類があって、その人の嘘の使い方次第で白か黒か(または混ざった状態か)が決まります。  ☆ これは 一たんウソだと自認した時点で 善ではなく悪〔が生じた〕とも自覚しているのですが そのあと ウソも方便というかたちで 《嘘の使い方次第で》自分の善に対してにしろほかの人の善に対してにしろ よい効果や影響があるということだと思います。二段階があるようです。  ★ 物事をまったく別の物に掏りかえるのはとても罪深いことで / 指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります。  ☆ 別の物をもって互いにすでに認め合ったほんとうの物だと言うのは 偽りです。悪です。《指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります》。つまり すでに行なった悪を持ち続ける結果となります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて、ここからが本題    >> ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  自分のこころ、悪と分かってての言動や思考と私は思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。いわゆる確信犯にあたりましょうか。言わば二重のうそ偽りですね。いちど心を偽り その偽った意志行為が偽りではないとさらに偽る。  なるほど この場合には うそ偽りという悪が 言ってみれば 《固定》します。《確定》します。一重のウソであるなら つねにそれを直す機会があり 容易に直すことができます。一たん いえ 二たん うそ偽りを固めたなら へその曲がりが 折れ曲がってしまっていることでしょう。直すのに苦労が要ります。相手に対しても 説明やらつぐないやらが むつかしくなります。  ただ この二重のうそ偽りでも 煮詰めて捉えるなら ひとは直そうと思うし 周りの人びともその心を応援すると思います。つまり 究極の悪であるかどうかは まだ定まらないように思うのですが どうでしょう?   とりあえず このように考えております。どうでしょう?  * 長くなった場合には お礼欄に代えて補足欄を用いますので あしからずご了承ください。

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  • mintarou1
  • ベストアンサー率30% (22/73)
回答No.1

. すみません。質問の意味が良く分かりません。 有名な「神戸連続児童殺傷事件」別名『酒鬼薔薇事件』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 この事件のどの状況、どの点が、上の(1)~(4)に相当するか具体的に、説明してください。 .

bragelonne
質問者

お礼

 mintarou1 さん 補足要求をありがとうございます。  ▲ (ヰキぺ:神戸連続児童殺傷事件――概要)   ☆ からは つぎの行為を取り上げます。   ○ 殺傷  ☆ これは 存在としての・おもには身体に損傷を与える行為です。身体はむろん 精神としての能力とそのはたらきの基体です。ですから  (あ) 身体=精神としての存在とそのはたらきに損傷を与えることは 善の減少であり悪です。  (い) その悪をおこなうことも 悪です。  (う) そのような悪をおこなおうとする意図も心も――もとの自然本性としての心から逸れてしまう・その同じ心の働きとしてなのですが――  善のひねくれであり悪です。  (え) つまりは 自然本性として善なる心ないし意志より 自然本性そのままの善としての具体的な意思とその行為が出てくると言えると同時に この善を偽ろうとする別の意思ないし心が現われて――つまり そこでへそが曲がって―― 善を傷つけるところの悪もおこなうようになる。  これで (1)~(4)の全体と合っていると考えるのですが どうでしょう?  その(1)は そもそも心がなぜ・どうように曲がるのかを問おうとしています。つまり 《うそでない心》と《うその心》とです。  大きくは 同じ心のいわゆる自由意志のことですが この同じ善から そのまま善なる考えおよびその行為と 善を欠けさせた考えおよび行為との二種類の意志行為が出てくるという捉え方です。  面の皮が厚くなれば ウソというものが他人から容易に見分けられるのはむつかしいようですが 本人は 死ぬまでうそ偽りがうそ偽りであることは 百も承知です。そこに へそ曲がりでない心とへそ曲がりの心とが識別され得て 善とそうでない善の部分としての悪とが起きていると捉えられます。  つまり悪は現象として現実に起きておりそれとして認識することができるが ほんとうには存在するのは 善のみであって それに従属する悪は それとして存在してはいない。こういう結論を得ているのですが どうでしょうか?

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  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。

     悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。  だから 悪は ない。存在しない。  善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。  またその傷つける行為のことである。  善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。