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悟りへ転換した後の真実の世界は何か?

arayata333の回答

回答No.14

すみません、NO:12ですが、 言葉足らずというより、 私自身が逃げているかのような思索の世界がありました。 輪廻転生の世界なのですが、 通常のその考え方は 本当には私は肯定できないでいます。 脳死とともに 意識のすべも(一時的には  というふうに表現可能であるのかも解からないのですが)消えてしまうとしか思えないからです。 夢など見れない臨死状態の意識状態もあります^^(笑いごとではないですが)。(この説明は ここでは省きます) その体験からは、そうとしか思えないということです。 が、 誤解を避けておけば、 死後の霊を祭る気持や倫理感の世界をもちろん肯定はしています。 ただし、 それとは別に 存在自体の 不思議さというか、 驚きに満ちた姿、 荘厳さが どこまでも続いているかのような世界性といったふうに言葉では語れそうなところからなのですが、  ともかくそこを考えたら 解からなくても解かる部分あるという感じで、命の永遠性は解かる地点は 必ず感性の進化の道すがらやってくると思ってるわけです。 その時に、 浮かんでくる輪廻と関る時空の真実のことなのですが(これも、ここでは説明は抜きにします) これを含めて考えると、 私が NO:12で回答した内容は、大きく間違っているところが出てきます。 私たち凡人は それが真実であるとすると、 まさにただ必死で無我夢中に 理屈とかはもう解からないまま 慈悲とか愛の良心の世界に生きる世界しか見えてこなくなるかと思います。  いよいよの何が正しいのかなんて解からないような、盲目性の中に置かれてしまうと思います。 悟りへ転換した後の真実の世界についてなんて、何も言えなくなるかと思います。 が、推理では、これだけは確かに思えます。 ならば、なおのこと、 悟った方がたの責任は重くなる。 そして、おそらく、さらにさらに、私たちの想像を絶するような 頭脳の迷い(自分のためのではないですが)の世界が その生活の真実の世界となるかとは 思うのです。 でも、ほんとうは、この推理すら、   もはや、 解からなくなります。 謎に包まれてしまうということです。 それでもなお、 私は 悟りたくない。 もしかしたら、 kitaroo77さんも、 医学や政治の現実をこそ変えたいと思っている凡人の同志なのかもしれませんね。 その役割は、 悟ってしまったら はたしにくい のではないか? と思うのです。  こちら側からは それしかメッセできません。

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