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悟りへ転換した後の真実の世界は何か?

arayata333の回答

回答No.12

なぜ? 悟ってないと思われる私たち一般の人や哲学者達に その質問をされるのですか? 貴方は 悟りへ転換された方なのですか? 私の場合も、悟っていない人間であるわけですが、悟りについて、それはどういうものか?という点についての推理なら それなりに考えたことがあります。 言葉では どうしても説明が付きがたい、もし言葉を使うとするなら「深い」としか言いようのない感動の世界は 悟っていなくても 音楽や大自然に触れたり 深い優しさに触れたりした時に やってきたりします。 そこから推理される《悟りの世界》とはどういう世界かというと、そのさらに奥の しかももはや消えることのない、 いつも新鮮な 生き生きしたしかも静寂の安らかさにも満ちた状態に入り込んだ世界を まずそこに連想的に推理する者です。 涅槃とかいう境地も そういう静寂さに満ちた感性の極として考えることができたりします。 tumaritou1さんが 指摘されている右脳の世界が活性化した状態とも言えるところかもしれません。 また「永遠の命」という概念も おそらく実感として明確に感じられたりもする世界と思われます。(このへんは、 詳しく書かないと何を意味してるのか解からない人が多いと思いますが、 ここでは貴方が悟られた方と想定して書いているので 説明とかは抜きにしているわけです) もし、頭では、そういう命の姿をはっきりと捉えても、 また、すべてが過ぎ去る(無常)と、これも頭ではっきりと理解しても、 かつ、 上記 もはや揺るぐことの無い深い感性の中に身をおけるようになったとしても、 それだけならば生物としての苦しみや そこからの恐怖の世界を ほんとうには越えることは出来ないはずです。 具体的には、 私の子どもの頃の体験が解かりやすいと思うのですが、 重い肺炎の中でも、 肺胞が1つ1つつぶれてゆく苦しい肺炎の中、 最後は右の肺胞は全部つぶれ 左の肺胞もあと少ししか残っていない という状態でも意識を失えないでいるような 状態の時    頭で考える何かがその苦しみから少しでも解放出きるものなのか?  その他の極限の苦痛を幾つか知ってきた人間の一人として それは無理だと思ってます。 が、 推理では そういう状態でも ほんとうに悟った人ならば、静かに安らいでいられるということとなります。 Kitaroo77さん、貴方が「悟りへ転換した」状態とは そのような状態なのですか? ならば それは、私たちにとって、それ自体が 、言葉にするなら「めちゃくちゃなまでに」大きい希望でもあると思いますが、 同時に、 私たちの 苦悩や苦しみをはたして思い出せるのか? そこが疑問となります。 大乗仏教は 慈悲を説いていると聞きます。 摂大乗論は それをまとめた経典とのこと。 私は そのへんにも無学な人間に過ぎませんが、 ならば その経典には、 苦を思い出せなくても 思い出せなくても そこに力があるなら それを無くすための役割を見つけるべきだ、ということが そのどこかに書いてあるのではないですか?(そんなふうな推理が働くということです) もう あまりにも幸せだけとなった人(それが悟った人と思えるので)は、   そうすると、 おそらくなんとか その道筋と もちろん「より大勢の人が悟れるようになる」道筋を、 まだ悟ってない人の中に見つける役割を自覚することとなり、 その役割を 天命とするわけでしょうが、  思い出せない世界が多すぎて、 天命は むしろ知的迷いに満ちていて  おそらく多くの経典や哲学書をその境地から逆に さぐりゆく事となるのかと思われます。 もちろん心理学や脳科学とかも、その最先端はどこにあるのかと、 常に命を捨てるような気持で目をこらしていたりするのでしょう。 が、tumaritou1さんの お話の右脳左脳の方から推理すると、kitaroo77山の場合は、 それでもなお、 うまく左脳(論理的な明確さのある言葉の世界)は うまく操れなくなっている状態なのかもしれませn 》最清浄法界《という言葉は おそらくどこかの経典に出てくる言葉なのでしょうが、 その漢字の感じからは、無学の私にも意味合いは推理されたりします。 まさに、上記の悟った人の状態を示す言葉として捕らえると、とても解かりやすい言葉だとも思えるのです。 が、 これ一言では、私たちは、高い空から真実を眺めているかのように うっすらとしかその意味合いが解からなかったり、 いろいろな解釈が出来てしまったりして、 それそのものの世界が 実際には見えてこなかったりします。 貴方は、言葉は 解かるのですよね。 頭脳はむしろ明晰なのですよね。 ならば、 同時に、 表現の世界を様々に追求されてみることを、私たちの側からお勧めします。 これが、私の方からの回答となります。 さて、 《というよりも、 そう「命令したい」気持になります。》 この《 》内の 言い回しは 理解できますでしょうか? 私たちには、名誉欲とか自尊心とかが絡んだ複雑な自我がありますが、貴方には自我の実感はもう思い出せないと思われます。 そうならば 上から命令しても下からお頼みしても 悟った方(かた)にとっては同じだろうという気持からのものです。 もし もし、  そうではなく 悟った人にも、名誉心がまだ残っているのならば、 私は今、ほんとうに失礼なことを書いてしまったと思います。 いえ、 この回答はすべて、 意味が無くなることでしょう。 まったくとんちんかんな回答でしかなかったということになるでしょう。 どうなのでしょうか? 悟っているからこその、質問なのですよね?  そう 信じたいのですが!!! もし、そうであるのならば、 「悟りへ転換した後の真実の世界は何か?」という 困り度最大マークのこの質問への 私の方からの回答は 上記のごとくとなります。 ごいっしょに、表現の世界を探究してみませんか? 補足要求質問です。   以上です。

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