• ベストアンサー

ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

 あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.46

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。  悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。  また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です)  従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。  “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか  《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。  これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。  つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。  ☆ と考えるのですが いかがでしょう?  これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。  お役に立てれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。  諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。  このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。  ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。  諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。  ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。  つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。  これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。  神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。  つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。  どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。  有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。  おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。  * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。

その他の回答 (59)

noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 二度の補足要求でbragelonneさんと見解について特に正す点が無いことを了解できました。 ほぼ同一の解釈であり教養や知識にも優れたbragelonneさんに、私から観想のような事を述べる必要はなさそうです。 神の定義で思いついたのですが、人間が絶対ではないと定義しても、絶対の神への信仰は持ちうるのではないかとも考えました。神への信仰が絶対に及ぶ心境です。 それは無の悟りとは表現しないで、どちらかと言うと完全非思考と言った方がいいでしょう。 私の何も考えない状態になれる特技を定義するならそんな感じです。その中身は信仰のみには限らないで、生きている自覚全般に及びますけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  オコリザルさん  ○ われわれは おのおの誰もが ブッダである。  ☆ これでいいのですね?   ○ われわれは 一人ひとりが 〔小文字の〕キリストである。  ☆ とも表現してみたいところですが これは語弊があります。つまり 括弧書きが必要でしょうね。  ★ どちらかと言うと完全非思考と言った方がいいでしょう。  ☆ ブディスムは 阿弥陀仏信仰としての有神論を別とすれば けっきょく   ○ 《完全なる相対主義》 あるいは 《絶対としての相対 / もしくは 相対としての絶対》――つまりは 世界はまったく相対的な時空間のみという見方――  ☆ であるようにも このやり取りをするほどに考えました。  ★ 神の定義で思いついたのですが、人間が絶対ではないと定義しても、絶対の神への信仰は持ちうるのではないかとも考えました。神への信仰が絶対に及ぶ心境です。  ☆ これは そうでしょう。つまり 《絶対》のことを 相対の世界にあって相対としての存在でしかない人間が 何を考えても何を言っても どのように言葉で規定してみても 《絶対》はまったく痛くもかゆくもないということでしょう。  おそらくそのような関係――これは 人間の側からのみ言うことになるのですが そのような神との関係―― これが そのまま《信仰》という非思考のことであるでしょう。そのときにはわづかに われわれのこころが その窓を明けたかのように感じられますし もしくはやはりこころがそちらのほうへ伸びたかに感じられるのだと思います。  このこころの明けもしくは伸びを おのれがみづからの内面に認め受け容れたとき 信仰は成り立つのだと考えます。  つまりはこのこころの明けをあたかも促したかのようななぞのおとづれ これが 聖霊による洗礼であると考えます。  そしてこれをなんで水による洗礼としても 儀式のかたちでおこなわなければならないか。こういうことも考えていました。  ○ 仏性  ☆ はこの神なる聖霊にひとしいのか? これが問い求めのひとつですね。

回答No.8

b:神の定義は 絶対 ということです。  この経験世界を超えている という意味です。  ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。  相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。  要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 ◇なぜ、こう思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか?

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ なぜ、こう思ったのか?   ◆ これは異なことを! 表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。  ◇ 誰かの文章を読んでか?   ◆ 影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。  そうですね。字句どおりとしては 《ひとり満ち足りている》が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。  ◇ それとも経験と思考によるものか?  ◆ つまり このとおりです。  こんなことがかかわってくるのですか?

回答No.7

【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。  神とは?

bragelonne
質問者

お礼

 この定義も けっきょく  ○ 《絶対》  ☆ ということを示しています。  ○ 《この経験世界を超えている》  ☆ という意味です。  ○ 《ひとり満ち足りている》なら 《何ものかとの関係が要らない》  ☆ ことです。  ○ 《相対的な相互関係としての存在ではない》  ☆ と自己を指し示すことになると思われます。  ○ 要するに 《非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの》等々  ☆ です。どうでしょう?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

参考までに  【問い1】 ブッダは 神か? 答え:YES God=神という解釈が混乱を与えてる。God=仏陀。神(かみ)=上(かみ)、つまり尊敬される上位の者という意味しかない。上の者を人は神と呼んでもよいがその場合、最上位に位するものが仏陀です。このときは「God Of Gods」あるいは「Master of Masters」を仏陀といいますね。そういう意味では仏教は一神教ですが仏陀は寛容ですから上(仏陀以下)を神と呼んでもよいとしているだけですね。  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 2つに分けて 1)ブッダは 人間の境地か? 答え:NO 2)仏性は 人間の境地か? 答え:YES ・・全ての人間が有するものが仏性という意味。 仏陀は宇宙の英知、創造主ですから人間ではありえない。人間は仏陀が自身の英知の一部で創造した生物だから仏陀の一部、つまり仏性が宿っているということですね。 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 答え:YES 仏陀は宇宙の英知であり宇宙そのものである。それゆえ、梵(宇宙)我(仏陀)一如(同じもの) 付け加えれば、仏陀の悟りは全ての宇宙即我(ご自身が創った宇宙ですから当然なこと)ですが仏教の高僧の梵我一如はよくて地球即我ぐらいのもの。  【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。 答え:無関係 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄の書きなおしです。  おしまいのところで  ○ 神(かみ)≠上(かみ)  ☆ と言いたかったのです。  ・まちがい: ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami  ・ただしい: ○ かむぃ kamui ≠ かみ kami  ○ 諸法無我と梵我一如との関係について おぎないです。  ▲ (ヰキぺ:梵我一如) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82  梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。  ▲ (ヰキぺ:アートマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3   ○ 仏教における解釈  釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。しかし、個の中心にある「無」を知ることが悟りとされることもあり、この場合、「無」が「アートマン」と同じものだと捉えることもできる。  仏教が最終的にインドから消滅した理由に、「我はない」とした初期の仏教の教えにあるとする説もある。「我の中心にある偉大なアートマンは祝福に満ちて、花びらが舞降りている」という説明を聞くと人はアートマンを求めようとするが、「我は存在しない」という事など人は知りたくもない、というわけである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ゴータマ・ブッダがそうしたかどうかを 別として ブディスムは けっきょくアートマンもブラフマンもともに認めて 梵我一如の思想に戻ったということでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。  ☆ この《神》が 異なる存在として二つより多くあるとおっしゃっているのですが それはまとめて一つ(つまり全体としての一)と見なして すすめます。  もはや復唱をはぶきますが 二点 疑問が残ると考えます。  まづ  【問い9】 《神であるブッダが 人間の境地ではない》とすれば 歴史上の人物であるゴータマ・シッダルタは この意味でのブッダではないということになりませんか?  つぎに  ★ 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。  ☆ みなさんとともに つぎの説明を参照します。  ▲ (ヰキぺ:諸法無我) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91  諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman )は、・・・釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。  諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。   ・・・これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在を否定し、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。  ・・・この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。  〇 神の存在について  有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、    (α) 他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我で   あることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々   との関係の上にのみ存在することを意味している。  仏典の中にも神が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【問い10】  ★ 仏陀は宇宙の英知、創造主です  ☆ と上の(α)とは 矛盾するように思いますが いかがでしょう? 《創造主》は 《絶対者》であることが一般です。  * なお  ★ 神(かみ)=上(かみ)  ☆ これは 日本語学では  ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami  ☆ と説かれていることを添えます。大野晋『古語辞典』。

回答No.5

【問い1】いいえ 【問い2】仏陀とはどういう意味か?      仏性とはどういう意味か?      人間の境地とはどういう意味か?

bragelonne
質問者

補足

 IdeaMaster さん ご回答をありがとうございます。  ★ 仏陀とはどういう意味か?  ☆ そのひとが思っている概念でもいいと考えますが 次のような定義をおきましょうか。とっかかりだけのかたちですが。   ▲ (ヰキぺ:仏陀) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 修正・訂正してすすめられてもよいと思います。  ★ 仏性とはどういう意味か?  ☆ 同じくヰキぺの記事をひとつのたたき台とします。   ▲ (ヰキぺ:仏性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7  仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教の教理である。また『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、「仏に成る種」)、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。  仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 特には 《山川草木悉皆成仏 / 一切衆生悉有仏性》というときのそれを ここでは考えに入れようと思っています。       ★ 人間の境地とはどういう意味か?  ☆ 次の辞書の説明に従います。   ▲ (goo 辞書:【境地】きょうち) ~~~~~~~~~~~~~  (1)修養や経験を積んで得られる、心の状態。心境。   「無我の―」「悟りの―に達する」  (2)その人独自の心境の反映としての世界。   「新―を開く」  (3)その人がおかれている立場や身辺の事情。   「せっぱ詰まった―に立たされる」  (4)場所。土地。環境。[日葡]   *  補足説明(4)が原義  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 【問い1】 いいえ  ☆ まだ保留します。  どうでしょう?

noname#98384
noname#98384
回答No.4

仏教においては、神について語ることは世界について語ることである。 つまり「神は非人格的秩序で世界はそれに適合すると見なす」 この非人格的秩序こそが法(ダルマ)の概念なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 gotab55 さん ご回答をありがとうございます。  いまひとつ分かりにくかったのですが。  ★ 仏教においては、神について語ることは世界について語ることである。  ☆ ということは 【定義1】になじむということでしょうか?  そうではないということでしょうか?  ★ つまり「神は非人格的秩序で世界はそれに適合すると見なす」  ☆ 《非人格的秩序》として《ひとり満ち足りている存在》を思い描いてもよいのでしょうか?  ★ 世界はそれ(=《非人格的秩序》)に適合すると見なす  ☆ この《世界》は われわれ人間が住む経験世界 ですよね?   ★ この非人格的秩序こそが法(ダルマ)の概念なのです。  ☆ だとすれば この《法(ダルマ)》に 《経験世界 もしくは 人間の〈わたし〉》が《適合すると見なす》ということになりますね。  でしたら おおむねにおいて  【問い8】≒【問い4】 《法(ダルマ)》は《ブラフマン(梵)》に そして《世界 ないし〈わたし〉の内なる世界》は《アートマン(我)》にそれぞれ対応するようですから やはり 《梵我一如》になると思えるのですが 違いましょうか?  ☆ どうでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.3

オコリザルです。 ブッダと「人間」の関係、または仏性と人間性の関係、についていかがお考えですか。 史実に現れる「仏」とはごく単純に現代では人間のことを言うと考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  わたし自身の考えを述べよということでしたら それは 浄土系のブディスムになります。親鸞ですね。  ○ ゴータマという人は われわれと同じように その自然本性において 仏性を持つ。〔神の霊が宿るというのと同じに捉えます〕。  ○ ゆえに そのように仏性を宿す存在として ブッダ(目覚めたひと)と呼ぶ。  ○ つまり だれもがブッダである。  ☆ という見方です。という見方と同じでしょうか?  ★ 史実に現れる「仏」とはごく単純に現代では人間のことを言うと考えています。  ☆ についてです。

noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 長らく仏性に関しては意見交換してきましたが、「仏の現代語訳は人間」これのみが私の一貫した見解。 bragelonneさんの見解は明らかにはされていません。 これは信教の問題により、切り離しておく必要も、対話を継続させるためにはあり得ます。 信教から離した冷静な分析の限りでは、お釈迦様のみがブッタではないとお考えなのでしょうが、外堀は埋まったと言いうるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  えっ? えっ? そうなんですか?  ★ 「仏の現代語訳は人間」これのみが私の一貫した見解。  ☆ これは まだ飲み込めていないのです。  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  ☆ に対して そうであるというお答えなのでしょうか?  ★ bragelonneさんの見解は明らかにはされていません。  ☆ わたしの見方は この問いの中にあります。  ひとことで言えば  ○ 阿弥陀仏の信仰にあっては 神の信仰と同じようだが そのほかのブディスムでは 無神論での《無神》という神の信仰のもとに ふつうの経験思想を説いている。   ☆ これです。でもわたしは 外から見ていますので 何度もたずねなくてはなりません。はっきりさせたいと思っています。  ★ 信教から離した冷静な分析の限りでは、お釈迦様のみがブッタではないとお考えなのでしょうが、外堀は埋まったと言いうるのでしょうか。  ☆ いやぁ これもはっきりしません。そうではないと思います。いえいえ ふたたび そうではなくて   ○ ブッダが何であるかが分からないのですから なんとも見方をはっきりさせられない。  ☆ のです。  さらに尋ねるべきは  【問い7】 仏性は 神の霊と同じではないのか?  ☆ というふうにも問いたいところです。  こんな状態なのです。ぶっちゃけた話はです。

noname#131234
noname#131234
回答No.1

1X 2O 3失格 4同上 5仏陀は現実ではない。法を護持する人である。 というこたえです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ブディスムが ヱ゛-ダの《梵我一如》をしりぞけるのは分かりますが では 問います。  ★(α) 仏陀は現実ではない。(β) 法を護持する人である。  ☆ ですが 《人である》なら 《現実》であるはずですよ? つまり【問い2】で  ★ 2 O  ☆ すなわち《人間の境地である》というのですから。  ☆ (β)で《法》というのなら――細かい定義内容を問わないとすれば―― それは 宇宙の原理と言うべき《ブラフマン》とあまり違わないのではないでしょうか? その  ★ 法を護持する人  ☆ であるなら 人は《アートマン(我)》と言えそうですから やはり 《梵我一如》とすでに おおむねでは 言っていることになると思うのですが どうでしょう?  【問い6】 ブッダは 神ではなく しかし人間の境地であるということであれば それは一体どういう現実なのか?    ☆ つまりこれなら ふつうの人間の境地であり ふつうに教養があり勤勉であり人に思いやりのあるかたちで《法を護持する人》一般を言うことになりませんか? あるいは それでいいということでしょうか?

関連するQ&A

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

     なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?