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ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

 あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

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noname#135843
noname#135843
回答No.46

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。  悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。  また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です)  従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。 > ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。  “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。 > この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか  《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。  これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。 698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。 また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。  つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。 > ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。  ☆ と考えるのですが いかがでしょう?  これは愚見ではございますが、 「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」 とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。  お役に立てれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  ううーん。論証していただいたと思います。感謝申し上げます。と同時にわたしも やはりもっともっとさらにさらに経典に分け入って 研究および論証ができたらなあと思いました。とうぜんそういうものなんでしょうね。  諸行無常を徹底させて行った。その先には まさに消え入るというかのような涅槃があって しかもこの状態において 或る種の安心を見たということなのでしょうか。解脱を得たのでしょうか。  このさとりの系譜から とうぜんのごとく 仏性の説は現われ出ることができた。  ただし この仏性の説とは別に シャカムニの入滅に際して その神格化は始まった。これは さとりや仏性の問題とは別個に いわば通俗的な事象として 行なわれるに到ったもののようである。  諸行無常あるいは諸法無我の説に立つなら とうぜんのごとく 経験世界が仮りの現象として成り立っているというのと相即的に 超経験の世界については いわゆる無神論である。  ただし とは言っても ブッダは 無記という捉え方をしているかも知れない。つまりは 相対世界を超えた絶対の領域については 有るとも無いとも言わないという姿勢であったかも知れない。  つまりはこれは もしそうであるなら 非思考という態度である。《経験思考を超えた領域の問題である》と捉えた。  これは わたしは 大きくは信仰のひとつの形態であると捉えたいと思うのです。  神については考えを及ぼさないし 触れない。言いかえると 神の想定じたいは 受けとめている。つまりは 神との関係として 非思考という態度ではある。  つまりは 無神論もしくは《無記神論》としての信仰であると捉えたほうが 一般的ではないだろうか。信仰を無記とする信仰(非思考)。なぜなら 非思考の態度じたいは 一たん採用していると捉えられる。  どうなんでしょう? 神の想定に対して 片や その想定は要らないとするのと 片や 想定を有とも無とも決めないとするのとでは違うと思われます。もし後者であるなら 正当な無神論であって それは 信仰をいっさい表現しないかたちの信仰であるように思われます。なぜなら それは 経験思考を超えているという前提の領域じたいは 認めているし 受けとめていると考えられるからです。むろん 信の対象にするのではないですが。  有神論と無神論とは 非思考という柱を挟んで背中合わせに互いに同等な《信仰》の形態であるように思うのです。  おわづらわせ申すと思いますが どうでしょうか。  * つまりは 無神論は 経験世界に絶対的に閉じこもるのではないと思うのです。もしそうであるなら 超経験世界に対して 信をめぐらすのではないが こころは開かれている。ならそれは 非思考というこころないし人格ないし存在のあり方であるように思われます。

その他の回答 (59)

回答No.19

No.7の回答欄~~~~~~~~~~ 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。  神とは? No.7のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ b:神の定義は 絶対 ということです。  この経験世界を超えている という意味です。  ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。  相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。  要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。 No.8の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇なぜ、こう(No.7のお礼のような考え)思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか? No.8のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ なぜ、こう思ったのか?   b:表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。  ◇ 誰かの文章を読んでか?   b:影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。  そうですね。字句どおりとしては「ひとり満ち足りている」が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。  ◇ それとも経験と思考によるものか?  b:つまり このとおりです。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b: 経験世界を超えている  ◇ とは、どういう意味か?    No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  b:この四次元の時空間から自由である。 という意味です。  因果関係から自由な特異点である。という言い方でもよいのではないでしょうか?相対の世界によってまったく影響を受けない。つまり 絶対 であり それは 無限という概念でも説明できますね。 No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に? No.11のお礼欄~~~~~~~~~~  b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。

bragelonne
質問者

補足

 ◇ 補足要求回答No.7 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   神とは?  ◆ 答弁 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   この定義も けっきょく   ○ 《絶対》   ☆ ということを示しています。   ○ 《この経験世界を超えている》   ☆ という意味です。   ○ 《ひとり満ち足りている》なら 《何ものかとの関係が要らない》   ☆ ことです。   ○ 《相対的な相互関係としての存在ではない》   ☆ と自己を指し示すことになると思われます。   ○ 要するに 《非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの》等々   ☆ です。  ◇ No.8補足要求& ◆ 答弁 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ◇ なぜ、こう思ったのか?    ◆ これは異なことを! 表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。   ◇ 誰かの文章を読んでか?    ◆ 影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。  そうですね。字句どおりとしては 《ひとり満ち足りている》が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。   ◇ それとも経験と思考によるものか?   ◆ つまり このとおりです。  ◇ No.11補足要求& ◆ 答弁 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ◇ へー×3   ◆ これは おどろきなのですか?   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    b: 経験世界を超えている    ◇ とは、どういう意味か?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      ○ この四次元の時空間から自由である。   ◆ という意味です。   ○ 因果関係から自由な特異点である。   ◆ という言い方でもよいのではないでしょうか?   ○ 相対の世界によってまったく影響を受けない。   ○ つまり 絶対   ◆ であり それは 無限という概念でも説明しますね。   ○ 無限の半分は やはり無限である。   ◆ つまり概念ではあるけれど しかも《表象し得ぬもの》ですから。   ◇ ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に?   ◆ ありません。あり得ません。ただし――ただしです ただし―― その《予感》はあります。あるいは《あたかも部分的な経験》ということです。   直前の二つの回答でのやり取りでわたしは    ○ こころの明け もしくは 伸び   ☆ について書いています。   ○ あたかも窓が開いたかのように 《ひとり満ち足りている存在》があるかのように予感した。   ☆ というものです。そしてそれだけです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。   ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。     これを話したのは たぶんわたしは初めてだと思う。というほどに  これまでは その体験を対話における話題や論拠にしたことはなかったのです。ですから この体験は忘れてもらってかまいません。述べようとも思いませんから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 要約するのならまだしも 一部分を切り落としてしまうかたちの引用は いただけません。

noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。  ☆ では 古代語では 《人間》以上の存在だったのですか? 《人間でありつつ同時に 人間以上の存在であった》のでしょうか? 伝承に残り、今なお禍根を残す、娑婆世界なる世界観を持っていたお釈迦様です。 全てがチョンボです。 人間以上であったなら、人間殺しを働いた殺人戦闘マシーンが「仏」となります。 新人類化に困った私はわかります。 旧人類を自然淘汰に誘導したくなります。

bragelonne
質問者

お礼

 今回も分かりません。  ★ 全てがチョンボです。  ☆ ブッダがということですか? それなら 出来のわるいブッダになりますね。  ☆☆ 人間以上の存在  ☆ というのは けっきょく《神》のことです。ブラフマンは 類型的に言って 神ですよ。それに対して批判をしたのが ブッダですから ブッダないし仏性をどのように位置づければよいかをきちんとまとめておかなかったのではないか。という物言いです。

noname#117439
noname#117439
回答No.17

オコリザルです。 ★ 「仏の現代語訳は人間」。  ☆ では 古代語では 《人間》以上の存在だったのですか? 《人間でありつつ同時に 人間以上の存在であった》のでしょうか? 神を信じることと人間を信じることの違いでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ちょっと待ってください。  ★ 神を信じることと人間を信じることの違いでしょうか。  ☆ げんみつに言えば 《相対世界にある人間》を信じることはありませんよ。それは 信頼するとか信用するとかの言葉を用いると思います。(むろん 文学表現としては ありえますが)。  古代も現代も 《信じる》つまり非思考は 神をですし それは人間をではないと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.16

A15 修正。 これは無神でなく、信じたくないとの我がままの表れでしょう。 そのようなマジギレ意見は、無神でなく、信じたくないとの我がままの表れでしょう。 マジギレ意見そのものは敗北が確定しています。 言わば、信仰心で負けた。 などと言う敗北感は不要です。 そのような勝者をおごるなら、敗者の隷属につながります。 お釈迦様は散々それをやったと伝承にありますねー。 ちょっと権現様を召喚してみましょうか。 「かの権現様は、愛すべき犬でなく、隷従の確定した奴隷である」

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん 今回は分かりません。  たぶん 直前でのわたしのお応えで 霊感体験と非思考との微妙なずれを確めていただきたいと思いますが いかがでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.15

オコリザルです。 ☆ 直前の回答とのやり取りで 《あたかも霊感》の体験の話を書きました。広げようとは思いません。話題になりますか。 感性の話を取り上げると、既存の哲学ではかくの如く、霊感とされます。 これは無神でなく、信じたくないとの我がままの表れでしょう。 無神はこのように信じたくない、または信仰不在?と、誤解されます。 この点に質問形式で何らかのとっかかりを頂きたいのです。

bragelonne
質問者

お礼

 いえ これは 焦点の当て方の問題です。  ○ 《霊感――という言い方をあまりしたくはないですが――の体験》を信じるのではない。  ☆ からです。体験は 表象しうるものです。象(かたち)が生じて現われており ことばでも表わし得る状態になっています。  非思考は 体験じたいからは 少しずれます。

noname#117439
noname#117439
回答No.14

オコリザルです。 少し前にした意見表明ですが、 お釈迦様は自らの信仰に関しては何も語らなかったとしても、やはり信ずることのあった人間である。 それをもってブッダである。 これでいかがでしょうか? イエスさんに関しては、人間扱いの方が正しいと助言がありますが、仏さんは人間扱いした方が正しいとの助言は、自らの見解以外に聞いたことがないです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  お釈迦様は自らの信仰に関しては何も語らなかったとしても、やはり信ずることのあった人間である。  それをもってブッダである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに捉えていましたね。以前には。  でもそれは甘いと考えたのです。甘くないかも知れませんが いま思っているのは やはり《仏性》をどう扱えばいいのか これが定まらないのではないか? こういう問題です。  例の美女マーガンディヤーとの絡みでも ブッダは あやまちがあったと思いますが この《仏性》をめぐっても ちょんぼがあるように思います。つき止めたいところです。  ★ イエスさんに関しては、人間扱いの方が正しいと助言がありますが・・・  ☆ 《イエスは人間。同時に キリストとして神》 これははっきりしています。ドグマとしては はっきりしています。  ★ お釈迦様は・・・やはり信ずることのあった人間である。  ☆ つまりこの人間が 非思考なる信仰を持っていたということは 大いにありうると考えます。そのことと すぐれて能力を磨き発揮したブッダであることとは 一対一に対応しないと思います。つまり 誰もが ブッダであるのですから どのくらい秀でた存在であったかのほうに いまは焦点をあてています。吟味しようとしています。

noname#117439
noname#117439
回答No.13

オコリザルです。 回答を一つにまとめ無いのは理解しにくくなるのかもしれません。 そのようないつも通りの失礼をいたします。  ○ われわれは おのおの誰もが ブッダである。 「仏の現代語訳は人間」。 表現がこのように分かれるのは煩悩(第三者や他者の意見)に対する受け止め方の違いでしょう。 明白に第三者や他者の意見ですよ。 そのように共感できれば、それだけで伝心の証明です。 伝心に逆らおうとするなら、経験世界重視の姿勢として自我と対面することとなります。 そういうことなんでしょうねー。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  表現がこのように分かれるのは煩悩(第三者や他者の意見)に対する受け止め方の違いでしょう。  明白に第三者や他者の意見ですよ。  そのように共感できれば、それだけで伝心の証明です。  伝心に逆らおうとするなら、経験世界重視の姿勢として自我と対面することとなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううん? わたしの場合  ★ 煩悩(第三者や他者の意見)  ☆ も  ★ 〔それ〕に対する受け止め方  ☆ も考えていないのですが どうなりましょうか?  ★ 「仏の現代語訳は人間」。  ☆ では 古代語では 《人間》以上の存在だったのですか? 《人間でありつつ同時に 人間以上の存在であった》のでしょうか?

noname#117439
noname#117439
回答No.12

オコリザルです。 ○ 仏性  ☆ はこの神なる聖霊にひとしいのか? これが問い求めのひとつですね。 これは、いわゆる悟りを開く過程の話であり、無の悟りからのアプローチが全てでないとすると、人それぞれなんで、検証はそれを踏まえることとなります。 私からの証言なら、 私はアマテラスさんとデートしたことがある。 私はポケモンマニアである。 このように、わけのわからん、聞いてもどうしょうも無い話となります。 番外編としてリクエストですが、無神はありえないと証明する取り組みをしていただけると大歓迎です。 ならば、協力します。

bragelonne
質問者

お礼

 ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 仏性   ☆ はこの神なる聖霊にひとしいのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 直前の回答とのやり取りで 《あたかも霊感》の体験の話を書きました。広げようとは思いません。話題になりますか。  ★ 無神はありえないと証明する取り組みをしていただけると大歓迎です。  ☆ これは どうですかね。  ○ 《〈無神〉という存在がある》と言いかえるとおもしろいのではないですか?  ☆ もし《無神》があり得たという場合には その《無神》が《無神という非思考》だと言おうとすることなのですが 同じく《無神》という名も 仮りの表現だという説明にもなります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私からの証言なら、  私はアマテラスさんとデートしたことがある。  私はポケモンマニアである。  このように、わけのわからん、聞いてもどうしょうも無い話となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは残念ながら 何度聞いても分からないです。

回答No.11

へー×3 b:経験世界を超えている ◇とは、どういう意味か? b:ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。 ◇ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか?あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に?

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ へー×3  ◆ これは おどろきなのですか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   b: 経験世界を超えている   ◇ とは、どういう意味か?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     ○ この四次元の時空間から自由である。  ◆ という意味です。  ○ 因果関係から自由な特異点である。  ◆ という言い方でもよいのではないでしょうか?  ○ 相対の世界によってまったく影響を受けない。  ○ つまり 絶対  ◆ であり それは 無限という概念でも説明しますね。  ○ 無限の半分は やはり無限である。  ◆ つまり概念ではあるけれど しかも《表象し得ぬもの》ですから。  ◇ ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に?  ◆ ありません。あり得ません。ただし――ただしです ただし―― その《予感》はあります。あるいは《あたかも部分的な経験》ということです。  直前の二つの回答でのやり取りでわたしは   ○ こころの明け もしくは 伸び  ☆ について書いています。  ○ あたかも窓が開いたかのように 《ひとり満ち足りている存在》があるかのように予感した。  ☆ というものです。そしてそれだけです。  どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。  ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。    これを話したのは たぶんわたしは初めてだと思う。というほどに これまでは その体験を対話における話題や論拠にしたことはなかったのです。ですから この体験は忘れてもらってかまいません。述べようとも思いませんから。

noname#117439
noname#117439
回答No.10

オコリザルです。 完全非思考とは、 神とは(←これには?としても) 「ひとり満ち足りている存在を言う。」 この定義が当てはまります。 かと言って、我は神か?とすると、身に覚えがありません。 普段の自らの言動を客観視すると、大袈裟に表現するなら、まるで神様になったみたいなことを言っているのは自覚できます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ○ ひとり満ち足りている存在  ☆ との・われわれ人間の関係は たしかに  ★ 完全非思考  ☆ だと思います。われわれは この完全非思考としての関係において 或る者は 神を見るという表現で捉えるであろうし 或る者は そこには《無い神がいる / 神はない》という表現で捉えるのであろうと思われます。  いづれにしても われわれ人間は 神によって――もしくは無い神によって――覆われている。つつまれている。見られている。とあたかも表現したくなるのでしょう。  神に知られていると感じたときに ひとは神を知ったとおもうのでしょうね。たぶん熱い思いであるなら それは愛だと感じるのでしょう。  では ブッダはどうなっているのでしょう?

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    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

     なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?