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土岐は今。。。本能寺でのIF

私を含めて、あたかもそれについて考察しないと、戦国時代については何も嗜んでいないという雰囲気で人は語ります。 なぜ明智光秀は織田信長を弑逆したのかを。 領土の問題、親族の問題、家康への接待不備、信長への怨恨など色々と理由は考察されているようですが、今ひとつ定説とはなっていません。 おそらくこれはタイムマシンができない限り、事実は露呈しないでしょう。 私には歴史における事実とは、その時代が求めていた真実とは異なる気がします。 『歴史にifは禁物』と言いますが、私あえては皆様にお尋ねします。 本能寺の変が起こっていなかったら、後世はどうなっていたでしょうか? 信長は天下をとり治世を築くことができたでしょうか? 大陸へは出兵したでしょうか? 日本を統一できたと仮定して、どのような政策を展開したでしょうか? 私見では、その時代の稀有といってよいほどの合理主義者であり、おそらくは唯一無比の唯物論者(!)であった信長は、西洋との物資・識の交流を盛んにし西洋社会の文化思想をもっと色濃く受た日本になったと思います。 その前に、天下を統一できたかは非常に微妙なところと思います。 合理主義者の反面、彼が不合理とみなした対象には徹底した撲滅政策をとっていた気配がありましたから。 秀吉のような他大名・他勢力への人心掌握は困難だったと思います。 長々と書いてしまいましたが、信長の人物論・当時の時代背景などを材料に(もしくはご自身のオリジナルでも!)、どうか私に心地よいセンス・オブ・ワンダーを提供してください。 娯楽的にでも、学問的にでも全然どちらでもかまいません。 よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • rczd
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回答No.6

信長が存命であれば楽々と天下一統に至ったことでしょう。早くて天正十一年、遅くとも同十三年までには完了したと考えます。 毛利・長宗我部両氏は天正十年六月から数ヶ月の間に滅し(武田氏は木曾氏が反旗を翻してからわずか一月余りで当主が倒れています)、遠征から帰るとすかさず高野山を比叡山同様に焼き、朝廷は信長を三職のいずれかに補任し、その後信長は上杉討伐の軍を進めるでしょう。 その間遠隔地から続々と恭順の使者が安土城に列をなすでしょう。使者を受け入れるか、追い返すかは信長の意のままです。この選択によって天正十一年から数年ずれ込むかどうかといった程度と思います。 九州は大友氏と島津氏の和議を信長が斡旋していましたし、後北条氏は武田氏撲滅戦に参加していました。関東以北で「信長公記」だけから抜き取ると次の通り馬や鷹などの贈り物を信長に送っています。<五十音順> ・会津の蘆名氏(天正九年八月) ・秋田の安東氏(天正九年七月) ・出羽の大宝寺氏(天正七年七月・同九年七月) ・常陸の多賀谷氏(天正七年四月) ・奥州の伊達氏(天正三年十月・同五年七月) また、信長の子供たちが不出来とよく聞きますが、確かに信雄と信孝は秀吉にしてやられました。ただ信長が帝王学を学ばせていたのはあくまで嫡男の信忠です。天正六年あたりから織田軍を統括し始めていますし、武功だけは実績を上げています。また(天正十年)五月廿七日付け森乱宛織田信忠書状の乱への気遣いを見ても単なる武骨の人という印象は持てません。織田政権を二代目で潰すようなことは無かったと考えます。 織田家中ナンバー3といえば柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀だと思いますが、いずれも実子の嫡男が居ないか若年かといった共通点があります。信長の信忠への政権委譲後の配慮でしょうか。 大陸への出兵・政権の性格は…想像力がわきません。 new2さんwrotr; >信長は49歳でなくなりますが、当時からいえばそろそろ寿命に近づいていました。 戦国末期当時、結構長生きしている人が多いですよ。よく平均五十歳と書かれていますが、戦死込みとか、幼年死込みとかじゃないでしょうか。六十から七十歳が天寿を全うした人の平均寿命といった感触を持ってます。信長はキレ易かったみたいですけど、健康だったみたいですし。

Astroia
質問者

補足

rczdさん、今晩は。 ご回答どうもありがとうございます。 回答プロフィールには「一般人」と書かれていましたが、専門家、若しくは専門家に近い方とお見受けしました。 非常に興味深く回答を拝読いたしました。 >信長が存命であれば楽々と天下一統に至ったことでしょう。 私の主張(主張と呼べるものでもありませんが意見として)は、 「私が想像する信長の性格・戦略からして、多くの既存勢力から反発を買うだろうし、革命児のような気質を持った彼はそれらに最終的には妥協しないだろう。と言うことは時間がかかっても一つ一つ徹底抗戦するのではないだろうか。だから天下を統一するには早くても寿命尽きる頃にならないと無理なのでは?」 と言うものです。 武田氏は、長篠の合戦以降、勝頼の民政に問題があり、民衆・家臣が離れていったので、それほど抵抗勢力になるとは思えませんが、毛利氏・北条氏・九州勢・東北勢はどうでしょうか? 毛利氏は交戦中ですし、毛利家の家訓と言うべきその保守性から言っても簡単に滅するとは思えません。小早川や吉川といった名将もいますし。また外交役の恵瓊にしても、信長よりも秀吉に対してしか好意を持っていなかったようにも思えます。 北条氏は・・・。微妙ですね。 秀吉の時代に氏政が小田原に篭ったのは、私には凄く謎なんですよ。それほど時勢から外れた感覚の持ち主だったとは思えませんし(特に家康がどう動くかなんていうことは氏康の時代から生き抜いてきた氏政には分かりきったことだと思うんですが)、諌める家臣にも耳を貸さないほど、己を知ることができなかった人なんですかね。 武田氏撲滅戦に参加していたのは、信長に対する一時の戦略として行ったものだと思います。つまり、その方が北条氏にとってより地盤を固くすることができるから。 本願寺勢もどう転ぶか分かりません。秀吉の時代にさして抵抗しなかったのは、彼の政策・人心掌握術に拠ることが多かったと思います。 信長とあれだけ泥沼の戦いを行っていて、一時的な和平ならともかく、それこそゲリラ的に蚤が獅子にたかるようになるでしょう。 信長公記は、おそらく信頼に足りる第一級の史料だと思いますが、贈り物の受領だけでは、その心底ははかれないと思いますがいかがでしょう。 時が下って秀吉の時代には、おそらく長い戦乱に対する厭戦思想からその幕下に入る事は、抵抗なかったと思います。 少し前まで、信長に対する包囲網ができてた時代背景から判断して、特に地方における信長の人気(若しくは権威?)は芳しくなかったのではないでしょうか。 小寺氏における官兵衛などは希代の先見性を持ってたというべきでしょう。もっとも私は官兵衛が毛利氏より信長寄りだったのは、官兵衛の気質が陰気な毛利家よりは織田家の方が肌に合っていたからと思っていますが。 信長は、おそらくはその兵農分離や関所の撤廃、楽市楽座等の政策からして、中央集権型の国家像を描いていたと思います。中央集権国家は、地方に行けば行くほど統制するのが難しくなると言うことも、少し根拠になっています。 >信長の信忠への政権委譲後の配慮でしょうか。 特に秀吉はそれが顕著ですね。でもそれ以外の二人については、言われてみるまで気がつきませんでした。「そういう側面もあるのか」と新しい見方にわくわくしています。 確かに、勝家には、彼の実質右腕とされていた佐久間が、光秀には従兄弟の光春等がいましたが、実子については遠慮していたと考えても不思議ではありませんね。 信長の吝嗇ぶりは林や佐久間の例からも明らかですし。 以上、私は単なる一戦国ファンとしての知識しかもたず、まともに研究をしたわけではないので色々と論理に穴があるとは思いますが、またお暇なときにでもご教示ください。 ご回答どうもありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • cafebon
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回答No.9

NO.8の補足として。 光秀の娘(玉子:洗礼名ガラシア)はキリシタンであっただけに、信長の手にかかってしまうのでしょうか?だとすれば… 変の可能性はあったのかも… しかも本能寺の変に取って代わる変。1582年以降の変の結果。秀吉、家康の天下の可能性は薄くなり、スペイン人などの(インカ帝国におけるピサロ)の天下があったのやも知れません・・・ などとは私の誇大妄想です。

Astroia
質問者

補足

cafebonさん、続けて再度のご回答どうもありがとうございます。 >1582年以降の変の結果。秀吉、家康の天下の可能性は薄くなり、スペイン人などの(インカ帝国におけるピサロ)の天下があったのやも 「ぎゃー」と言う感じですが、これは十分にありえそうですね。 もしも、1582年以降に謀反が起こっていたら。 その当時の、西洋の日本への進出度合いによるでしょうが、信長存命だと、十分に外国勢力の干渉を受けていたでしょう。 (ここからは物語的に話を考えるとします) 外国軍は日向や薩摩に上陸、肥沃な土地を得て兵糧の憂いを絶ってから、圧倒的な技術力を盾に九州・四国を併呑していきます。 兵站を上手く行うために、それまでに中継基地をいくつか築いていることが条件となりますが。 日本は、国内の領土争いをしている場合ではなくなってきました。 家康を中心とした、徳川・羽柴・雑賀根来連合軍が結成され、地形を活かした戦術の巧みな真田家も、鬼人の如く外国軍を防ぎます。 一方、もしかすると、可能性は低いと思いますが、大友や進行を支えきれなくなった竜造寺は外国軍に与するようになります(島津はありえないでしょうね)。 最初の決戦は壇ノ浦。奇しくも源平の合戦が行われた古戦場です。 元寇の際の神風は吹かず、火力のわずかな(!)差と日本にはない戦術によって、僅差で、しかし決定的な敗北を喫してしまいます。 意外と上手に戦う日本軍をみて、外国軍は殲滅方式から懐柔方式に戦略を転換し、ひたすら政治的な取引と懐柔によって、土着武者や民衆を従えて行きます。 果たして、結局のところ最後まで抵抗するのは・・・。 そうなると、この文章も全てアルファベットで書かれ、名前にも「ホセ」や「マリア」等聖人の典拠が見られる世の中になっていたかもしれません。 ぞっとしますね。 駄文大変失礼いたしました。 ご回答どうもありがとうございました。

  • cafebon
  • ベストアンサー率39% (19/48)
回答No.8

おもしろい。 私も戦国時代のifシナリオを考えるのが好きなので意見しますが、結論から言ってありえないというのが私の結論です。私は明智光秀ファンなのでみなさんの視点にない光秀視点で意見します。 光秀の軍事クーデターの理由は定説がはっきりしなくとも光秀について調べていけば何となく実感できそうな気もします。光秀はそもそも足利将軍家へのコネで 信長に取り入った感があり(それにより出世したわけですが)、将軍家滅亡後も光秀の持つ朝廷へのコネにより信長に優遇されていた感があります。 つまり、信長の朝廷をないがしろにする政策方針(官位の返上、事実的任官拒否(征夷大将軍、関白、太政大臣)、公卿への冷たいあしらいetc)。それらを考慮すれば、いわゆる“本能寺の変”は必然であり避けがたいものと1光秀ファンは考えております。 なぜかといへば信長の政策路線に光秀はうまくフィットできないからです。それまでの光秀の既得権益ともいへる朝廷軽視の路線に光秀は耐えることできたでしょうか?(光秀は信長より大体10歳ほど年上、御子息は本能寺の変時点で未元服)それら条件により光秀の謀反は避けられないものと私は考えます。 ――――――――――――――――――― が、しかし。信長の光秀謀反至るそれらが存在せねば どうなったか?それは江戸幕府に取って代わる織田幕府的なものが誕生していた気がします。(それは鎖国を伴う) なぜか? 秀吉のキリシタン撲滅から徳川家光の鎖国はイエズス会の植民地政策が、あかるみにでた結果の発露だと私は考えたいますし、それは歴史的な常識だと思います。(史実秀吉は布教を禁じ貿易は認めた。家光は布教を当然禁じ、貿易は一部認めた) さてイエズス会の植民地政策があかるみにでた場合信長はどうするでしょうか?怖いですね。合理主義者信長の決断。それは…私には想像したくないシナリオです。

Astroia
質問者

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cafebonさん、初めまして。ご回答どうもありがとうございます。 >私は明智光秀ファンなのでみなさんの視点にない光秀視点で意見します。 実は、私も信長のその精神の気高さ(当時としては考えられない合理主義的発想や唯物的な精神)を尊敬するとともに、幾分懐古主義的で、繊細で、たおやかな精神を蔵していた光秀も愛すべき存在と思っています。 たとえ誰かに「そんな節操のない」と言われようと、これが私の両者に対するイメージです(うすうすお気づきかもしれませんが司馬遼太郎の著作に非常に影響を受けています)。 信長にとって光秀とはどのような人物だったのかを考えると、その貴重さがよく分かります。 まず、室町式の礼式に長じていた点。織田家譜代の武将や信長自信にさえも、足りなかった点です。 そして、cafebonさんも仰ってるように、流浪の足利将軍に対してコネを持っていた点。京都に旗を立てるという出来事は、光秀の役割があってこそなしえたことでしょう(それでも世論は暴挙だと見たでしょうが)。 信長が朝廷をないがしろにしていたというご指摘については、信長自身の政治的な判断も多少はあったでしょうが、中世の幻と信長が考えていた悪伝統、弊害について、光秀はきっと異なった趣で見ていたと思います。 将軍家に近かった存在として、光秀は終始、身のあり方に疑問を抱いていたでしょうね。 聡明だった光秀が、自らの感情を慰撫しきれなかったのは、やはり繊細すぎたからでしょうか。 各方面司令官は地方の攻略に従事し、京に空白ができた。そこに信長が嫡男信忠とともにいる。。。 こういう運命のいたずらが彼に魔をさしたといっていいでしょう。 でも直接的な動機は、質問でも書いたように正直わかりません。 >さてイエズス会の植民地政策があかるみにでた場合信長はどうするでしょうか? それでも信長は、少なくとも秀吉と同等かそれ以上には、交易を盛んに行ったと考えます。 実証主義者で合理的な文物やシステムに対する好奇心が並外れて大きい信長は、結局は領土欲云々よりも、新しい世を開きたいと願っていたのではないかと、最近考えるようになりました(それがこの質問を行った理由の一つです)。 唐入りを行うよりも、積極的に西洋の文物を取り入れたい。そんな思いを感じるのです。 もちろんそこは自尊心が強かった信長のこと。イエズス会の陰謀(?)に気づいたとしてもただ指を加えているだけではなかったでしょう。 商人を味方につけ、新技術を吸収しつつ新たに興し、したたかに体制を整えたことと思います。幕末の薩摩藩や宇和島藩のように。 ご回答どうもありがとうございました。

  • rczd
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.7

>専門家、若しくは専門家に近い方とお見受けしました。 いやいや、単なるモノ好きです。 >多くの既存勢力から反発を買うだろうし こと天正十年六月にまで至ってしまえば、反発すること自体、自らの死に直結するということを過去の信長の挙動を見ていれば分かり切ったことではないかと思います。そこまで根性が座った既存勢力が新たに生まれることは考えにくいと思います。ですので、本能寺の変当時、敵対していた勢力だけを考えました。 光秀のように内側から崩れることは、前提としておりませんし、最近流行の朝廷云々も…。 >毛利氏・北条氏・九州勢・東北勢はどうでしょうか? 毛利氏は秀吉率いる一方面軍だけで拮抗しているわけで、ここに信長本人と畿内軍が加わると圧倒的に不利になります。前線が崩れると一気に瓦解する可能性が非常に高いと考えています。信長死後、秀吉の大返しにつけ込めなかった毛利氏は、武田氏末期と同様に民政に問題あり(というか長期間にわたる信長・秀吉との抗争により軍事に重きを置かざるを得なかった?)と判断しました。 後北条氏は一応は武田殲滅戦に荷担しましたが、動きが遅かったようです。ですので、戦後、信長に対してしこたま贈り物作戦を展開しています(「信長公記」)。信長からすれば、いつかは…と思っていても不思議ではありません。ただ優先順位が低かっただけでしょう。旧武田領が安定してから具体的に動き出すのでしょう。 東北勢は先に示した通り、早い時期から接触が多くありました。武田氏滅亡後、滝川一益は「関東八州の御警護」と「東国の御取次」を信長から任されています(「信長公記」)。後者は東北の味方づくりと、これと平行して危険分子を見分けるという類の職務もあったように思います。一益がちゃんと仕事を遂行すれば、東北平定までそう時間はかからなかったでしょう。というか、東北に手を出す頃には既に大勢は固まっています。信長に抗うこと自体、あり得ません。 *一益も実子の嫡男は??です。 いずれにしても、前回・今回と私自信の考え方です。みなさまの考え方・史観を否定するモノではありません。特に今回の設問はifモノですので、誰も断言すべき確たる根拠というものはありません。 長文、失礼しました。

Astroia
質問者

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rczdさん、再度のご回答どうもありがとうございます。 >天正十年六月にまで至ってしまえば、反発すること自体、自らの死に直結するということを過去の信長の挙動を見ていれば分かり切ったことではないかと思います。 なるほど。 例えば斎藤山城守が稲葉山城下で行った楽市・楽座も、当時の座から猛烈な反発を受けましたが、巧みに懐柔し政治力を活かして解決に臨みましたね。 それに対し信長は、舅のやり方ではなく「すり潰す」方針を立てました。 そのことによって畏怖感を与えたとなると、仰る通りほとんどの抵抗勢力は気概を殺がれていたかもしれませんね。 それでも抵抗するのは、一向宗徒くらいでしょうか。 本願寺と形式的(だと思われる)和解を結んでも、仏敵に対して「進めば極楽退けば地獄」と吹聴されていた一般門徒及び雑賀衆は、果たして長島や伊賀のことを忘れるでしょうか? 私は戦国時代の小説を読むと、つい「もしも戦国の世に普通の農民として生を受けていたなら」と空想してしまいます。 当時の長い戦乱に継ぐ戦乱。それにより引き起こされる圧政、治安の低下。施政者への不信。 いままで一部の貴族のものだった宗教(というより世界観)に初めて触れたとき、私は、西方十万億土の彼方に導かれることを夢見なかっただろうか。 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」 「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 といった言葉は、果たして、鋭くしかし煌びやかに、まるで母鳥に付き従う小鳥のように、私のアイデンティティに収まったことと思います。 江戸時代と異なり、それほど儒学の影響を受けていなかった武士よりも、民衆の方が抵抗勢力になりえるのではないだろうか。 その最たるものが一向門徒だと思いました。 毛利氏、北条氏、東北勢についてのご意見ありがとうございます。 ありがたく自らの考えを再構築する判断材料とさせていただきます。 再度のご回答どうもありがとうございました。 長文全然苦になりませんでした。 私は毎回具体的な史料を挙げられず、業務が暇になったら図書館に篭ろうかと思ってきました(笑)。

  • shota_TK
  • ベストアンサー率43% (967/2200)
回答No.5

No4の者です. 「とらえられたスクールバス」は,こんな感じだったと思います・・・ 未来から来た「時間犯罪者」が歴史を変えようとたくらみ,時間を移動する.そのとばっちりで,「現在」に暮らす少年少女がスクールバスごと過去にタイムスリップさせられる.「犯罪者」が本能寺の変を防止しようとするので,少年たちが阻止する. 家康の国家運営についてですが,儒教の思想を取り入れて階級の差別化を図りながら,実は法家を基本としたシステムを構築しましたよね.法家の考え方は,「無能な君主でも政治が行える」ということですから,徳川幕府の制度は見事な法家の実践だと思います. それに対し,信長は単なる覇王であり,仮に日本を統一したとしても,国家戦略があったかどうか,疑問です.また,秀吉については,豊富姓を名乗ったあたりから精神障害を起こしてたんじゃないでしょうか.朝鮮出兵に家康を送り込まないというのは,下の下策ですよね. 徳川幕府については,最近,2代将軍・秀忠の評価が上がっていますね.家康のようなカリスマ君主でなくても政治が滞りなく運営できる「組織」を構築した人間,という位置づけですね. 思ったままを述べましたが,自分は日本史はサッパリ詳しくないので,史実に反することがあるかも知れません.あしからず(汗).

Astroia
質問者

補足

shota_TKさん、再度のご回答どうもありがとうございます。 >儒教の思想を取り入れて階級の差別化を図りながら,実は法家を基本としたシステムを構築しましたよね 応仁の乱以来続いた戦乱を、再び秩序だった時代に戻すには、強力な支柱としての制度が必要だったでしょう。家康の政策は、(おそらくは)いささか信長の考えと異なっていましたが。 結果的にみれば江戸時代という諸外国から見ればそれこそ奇跡的な太平の時代を迎えるには、信長の(天下を取っていれば行っていたであろうと私が推測する)政策は不適当なものであったかもしれません。 私は、信長には国家戦略は大いにあったと思います。 もちろんそれは、例えば家康が行ったような、徳川家と武士が永代に支配することを目的としたものではないと考えています。 誤解の無い様に申し上げますと、家康(と秀忠・家光)の政策は、太平をもたらしたと言う点では、まさに天才的と言いようがないと考えています。 もし信長が天下をその手中に治めていたならば、もっと対外意識を盛んにする政策をとっていたと思います。 それは、単に信長が南蛮好きでキリスト教の保護を行ったからといった単純なことではなく(彼がその当時のキリスト教に心を打たれ信心したなんて話はないでしょうから)、その時代にしては稀有な合理主義者であり、『人は死ぬと何も残らない』と断言し、不合理を憎み、破壊したという革命児的な要素が私にそう思わせるのです。 「合理主義者=西洋好き」とは似て非なりですが、フロイスの雷の話に心を躍らせ、地球が丸いことに感銘を受け、まやかしを葬り去るために実証主義的な行動を行った信長は、少なくとも、そういう科学的な考え方を生んだ西洋の土壌にあこがれ、知識を欲したに違いないと思うのです。 そこから考えると、例えば江戸時代に平和をもたらした要因の一つである鎖国などは、信長からすれば考えられないことだったでしょう。 あえて語弊を恐れず敷衍すれば、信長が天下を取っていれば、竜馬や勝憐太郎以前に、「日本」人的な思考をし得る土台を創ってたと思うのです。 >朝鮮出兵に家康を送り込まないというのは,下の下策ですよね. そうですね。確かに家康を日本に置いておく積極的な理由は、何もないと思います。家康は政治的に、朝鮮出兵など愚策と思っていたでしょうから、身の置き場としては鮮やかな決断をしましたね。日本で体制固めをすると言うのは。 >2代将軍・秀忠の評価が上がっていますね. 確かに2代目と言うのは、かなり大変だと思います。 戦国時代一世を風靡した一向宗についても、親鸞以降は蓮如が出るまで振るわなかったのは、先人の教えを刺激的に解釈するだけの土壌作りをする人物が蓮如まで出なかったからだと思います。 蓮如は大政治家だったと思いますね。 そう考えると、秀忠も見事な手腕を発揮したと考えます。 再度のご回答本当にどうもありがとうございました。 「とらわれたスクールバス」仕事が一段楽したら読んでみます。

  • shota_TK
  • ベストアンサー率43% (967/2200)
回答No.4

ご存知かも知れませんが,眉村卓さんの「とらえられたスクールバス」(角川)という本で,そういう話が出ています.SFなんですけど,本能寺の変をタイムマシンに乗って阻止しようとする,という内容です.ちょっとだけですが,阻止した後の(現代までの歴史)も書かれています. ネタバレになっちゃうので,書くのはやめておきますね. SFに関心がおありなら,読んでみてください.関心がなければ,下巻の最後の方だけよめば,「その後の世界」が出ています. ぼく個人の考えでは,本能寺の変がなくても,あまり変わらずに,家康が政権をとったと思います.「国家運営」という明確なビジョンを持っていたのは,家康が一番でしたからね.

参考URL:
http://www.kadokawaharuki.co.jp/book/199901/4894564890.html
Astroia
質問者

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shota_TKさん、おはようございます。ご回答どうもありがとうございます。 >SFなんですけど,本能寺の変をタイムマシンに乗って阻止しようとする,という内容です. 半村良の『戦国自衛隊』みたいな話でしょうか? あいにく両者とも未見です。 SFは多少嗜みますが、ホーガンやクラーク、フォワードなど海外のハード系が多いです。 実は日本の方のSFはほとんど読んだことがありません(星新一くらいかな)。 時間を見つけて読んでみます。 >「国家運営」という明確なビジョンを持っていたのは,家康が一番でしたからね. つまり、江戸幕府の体制や諸制度のことを仰ってるのでしょうか? よろしければ、この点についてもう少し詳しくお聞かせ願えませんか? 質問は未だ開けておきますので。 よろしくお願いします。 ご回答どうもありがとうございました。

  • babuo
  • ベストアンサー率17% (177/993)
回答No.3

本能寺の変がなくても、信長の天下統一は果たせなかったでしょう。 東には、上杉・武田・北条・伊達など・・・西には、毛利・長曽我部・大友・島津など・・・たくさんの有力大名が抵抗していたでしょう。 信長の残りの寿命が尽きるのが先でしょう。 跡継ぎは・・・嫡男の信忠に受け継がれたものの、個性の強い織田家臣団をまとめる程の器量は持ち合わせていなかったでしょう。 信長をよくおもっていなかった光秀が力をつけはじめ、手がつけることができなくなります。信忠は失脚します。その後、織田の勢力が秀吉と光秀と勝家の三つの勢力に分割されます。よって、群雄割拠の世の中に逆戻りです。 それから、秀吉・勝家・光秀はそれぞれ寿命で、後継者も有力でなく、天下人によって滅ぼされます。 天下人とは・・・そう、みなさん否定されている”徳川家康”です。家康はここぞとばかりに勢力を拡げ、天下統一を果たします。 そして、平穏な時代がやってきます・・・そう、今ここに・・・。

Astroia
質問者

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babuoさん、おはようございます。ご回答どうもありがとうございます。 >その後、織田の勢力が秀吉と光秀と勝家の三つの勢力に分割されます。よって、群雄割拠の世の中に逆戻りです。 なるほど。群雄割拠になるのはそうかもしれません。 しかし、寺社勢力や有力商人、公達はそう思っていないかもしれません。つまり、世論の総意として。 そうすると、史実に近い形が形成されるのでしょうか。 秀吉は、例えば信長の四子於次丸を貰い受けることによって、家臣に対する信長の吝嗇な点を、鮮やかに逆手に取りました。 このように政治、人間関係に巧み過ぎる秀吉は、諸勢力を味方に引き入れるのは他のライバルよりずっとたやすいことだったでしょう。 >秀吉・勝家・光秀はそれぞれ寿命で、後継者も有力でなく、天下人によって滅ぼされます。 確かに、若い時分はその実直性・篤実性が顕著な家康も、後年になってくると神業というか、強引と言うべき政治力を発揮します。 また、若いと言うことは非常に乱世では有利に働くでしょうね。 なるほど。それもありですね。 私は、信長が本能寺で倒れず、信長-秀吉のラインが完成した場合は、商人や南蛮勢力に力がつきすぎると思っています。 それに対して家康がどのように対抗していくか。本願寺の場合のように上手く料理できるのか。いろいろ考えてみたいとおもいます。 ご回答どうもありがとうございました。

  • new2
  • ベストアンサー率34% (33/95)
回答No.2

 信長は49歳でなくなりますが、当時からいえばそろそろ寿命に近づいていました。本能寺の変当時、信長は、毛利・長曽我部・上杉・武田残党という4方向と戦っていました。さらにその後ろには島津や伊達といった勢力がありました。とても全国平定に至らなかったと思います。  kijineko3さんのおっしゃるとおり、信長の子どもはそれほど優秀ではありませんでした。やはり家臣同士で後継争いがおこると思います。  そこで、この後継争いに誰が勝利したかどうかです。もちろん秀吉は有力候補ですが、当時、織田家大番頭的存在であった柴田勝家がいますし、また(反乱をしていない)明智光秀も可能性もあります。ただ家康は三河や信濃の領国経営で忙しく、まだ天下取りとしては候補外です。  勝家・秀吉・光秀で消えるのは勝家です。どうも勝家は戦略はうまくないでしょう。本能寺直前、秀吉が順調に毛利の出城を攻略していく時、勝家が任されている上杉責めは相当苦戦していまし、賤ヶ岳の戦いの敗北、そしてその前に信長の妹であるお市の方の亭主としての地位を上手に活用できなかった点などです。  最終的に秀吉が勝ったか光秀が勝ったかはその時の運で決まります。やはり最終的には秀吉と光秀の直接対決は避けて通れないものと思います

Astroia
質問者

お礼

蛇足として。 new2さんへの補足の内容は、kijineko3さんへの補足と相反することを書いてしまいましたが、これはどちらも検討してみてそれぞれに根拠があり、私がまだその時代の背景に対しての結論が出せないからです。 いや~。皆様の意見を拝聴して自己の論理を再構築する。楽しいですね。 失礼しました。

Astroia
質問者

補足

new2さん、ご回答どうもありがとうございます。 >とても全国平定に至らなかったと思います。 そうですね。 信長は、その独創性、合理性からすると、武将(国政を敷き戦乱を終結させる)と言うよりは、革命家(中世を終結させ近世を創る)の臭いが強いと思っています。 逆にいえば、彼の考える世直しを代行する人物がいなかったからこそ信長は自身で実行し、逆に平定するという事業は、それこそ秀吉や勝家、光秀などに任せ得られたのでしょう。 寿命が尽きれば、平定事業の支柱とも言える倫理性・行動規範を失い、糸の切れた凧のようになってしまうでしょうね。たとえ本能寺の変が起こらなくとも。 >勝家・秀吉・光秀で消えるのは勝家です。 有名な話らしいですが、本能寺の変が起こったとき毛利と早々と講和を結び、後方の憂いをなくした秀吉に対して、景勝と講和しなかった勝家はそれだけで二手三手遅れたと言われています。 秀吉にはありがたかったでしょうね。 勝家もその武勇を信長に重用されましたが、対極を見渡す能力は遥かに秀吉、光秀が上だったのでしょう。 賤ヶ岳は、配下武将の勇み足だから丸々勝家に敗因を負わせることは酷かもしれませんが、やはり将たるものの統率ができなかったと言うことでしょうか。 この点、後年の秀吉対家康・信雄の長久手の戦いにおける状況は似ていると思います。 結局秀吉と光秀の対決になるなら、結果はどうなるのか微妙ですね。 史実の山崎の戦いの場合、いくら戦乱とはいえ「主殺し」の汚名をかぶった光秀の人気がないであろう事は容易に想像のつくことです。 その引け目がない分、光秀もいい戦いをするかもしれません。 惜しむらくは、官兵衛や三成といった人材が少ないのが難点です。 ご回答どうもありがとうございました。

  • kijineko3
  • ベストアンサー率22% (286/1282)
回答No.1

時は今 天を下しる 五月かな・・・ですか。 では 尊書つぶさに拝見。多幸多幸・・・とまいりましょう。 本能寺の変がなければ、信長は一時的ではあっても 天下は平定したと思います。 しかし、長続きはしなかったと思います。 何故ならば、信長の子は、皆凡庸だからです。 唐入りはしたと思います。 秀吉は身の保身の為、信長の一子を養子に迎え 自分の跡目は、その子に譲り、自分は朝鮮の領土を 賜りたいと申し出ておりました。 一時的な天下平定後は恐らく、唐入りしたであろうと 予測します。 では、信長が天下平定した後、誰が天下を取り得たか? これは、実に微妙です。 信長がいつまで生きたかにもよると思います。 しかし、徳川家康の天下はあり得なかったのではと 思います。 秀吉の天下であればこそ、家康は手を出せました。 直属の秀吉家臣というものは存在せず、皆、信長時代 の同僚・部下を力によって屈服させたに過ぎなかった からです。 家康は、信長の同盟者であり、部下ではありませんでした。この点も有利に働いたと思います。 信長存命であれば、あるいは亡き後、凡庸とはいえ 実子が天下を継承していれば、いかに家康といえども 手は出せず、また従う大名も少なかったと思います。 そして、織田家の天下の寿命が尽きる頃には家康の 寿命も尽きていたと思われます。 したがって、徳川の世はなかったと思う次第。 さて、誰が信長亡き後、天下を取ったか? これは、ロマンですねぇ・・・。 夜が更けてまいりました。 一晩、考えてみることにしたいと思います。 しからば、御免。

Astroia
質問者

補足

kijineko3さん、ご回答どうもありがとうございます。 「時(土岐)は今・・・」連歌の会で紹巴はどのような気持ちだったでしょうね。 天下が一転する。 平氏(確か信長はその当時には平氏を称していたはず)から、源氏(光秀の明智氏は土岐源氏)へと代わる。 「流転と簒奪の世はもうたくさんだ。。。」 と私が考える紹巴の声は、実は、その時代の多くの人々の声だったのかもしれません。 >本能寺の変がなければ、信長は一時的ではあっても >天下は平定したと思います。 >しかし、長続きはしなかったと思います。 >何故ならば、信長の子は、皆凡庸だからです。 もし天下を平定していたら長続きしなかっただろうというご意見には賛成します。 ただ、矢張り私には、一時的さえも信長には平定できなかったのではないだろうかと思います。 それは能力云々ではなく、人物性格の点からです。 例えば本願寺への対応方法。 信長は最初は大坂城を「譲ってくれ」と結構丁寧に交渉してますが、本願寺側にその意思がないとなると、武力によって討伐しています。 秀吉は、「触らぬ神(阿弥陀如来ですが)に祟りなし」って感じですよね。むしろ保護していたような感じさえあります。 家康は、もっと賢いと言うか卑怯(家康ファンの方:失礼!)と言うか。 東西に対立させ、その御家争いに集中させることによって、中央への関心を避けさせました。 信長のように、「自分に対抗するものはすり潰す」と言う方式では、人生が2つあっても3つあっても足りない。 殊に、世継ぎが三七や三介ではね。 秀吉のように「赦す」もしくは、「妥協する」という考えがないと天下の平定は難しかったと言うところが私の根拠です。 >一時的な天下平定後は恐らく、唐入りしたであろうと >予測します。 そうですね。もし信長が天下を得て、秀吉が尊命だった場合、確かに唐入りしたでしょうね。 分からないのは、信長にその意思があったかと言うことです。 信長愛用の品に「三国地図扇面」というものがあり、本朝・唐・天竺が描かれていたそうです。ここに信長の日本外への領土欲を見出す方がいらっしゃいます。 私は、「半分はそうかもしれない」と思っています。 なぜなら彼の合理的な思考は、唐入りした場合の収支を先見し、それが結局マイナスになることを知っていたのではないかと思うからです。 でも、この考察には全然自信がありません。 >では、信長が天下平定した後、誰が天下を取り得たか? 家康への考察は、概ねkijineko3さんに賛成です。 難しいですよね。。。 伊達や島津は、能力は申し分ないけど中央から離れていると言うだけで、無理そうな気がします。 その頃にはすっかり安定していた毛利にも無理でしょう。 とすると。。。少なくとも17世紀半ばまでは織田家のものかもしれません。 それからはどのような勢力が天下を取るのか。 信長が天下を取った場合鎖国がなかったと考えると、意外と、その時代に巨利を得たであろう豪商か、若しくは諸外国が日本を支配していたのかもしれません。 ご回答どうもありがとうございました。

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