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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

halkaの回答

  • halka
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回答No.42

fwappyさま、お相手頂きましてありがとうございます。 ちょっと強引だったことお詫びします。 あなたとのお話がsatonohukurouさまの疑問解消に役立ちますように・・・。 おふたりとのお話の中で懸念事項があります。 (serpent_owlさま) >なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。 (fwappyさま) >全ては主観的判断でしょう。 これらは言葉の定義段階での問題のように思われます。 serpent_owlさまはわたしに1~6の質問に答えさせた上で有り余る知識に基づき その不備を指摘して過去の先人の権威のもとに無意味さを指摘するものと思い ます。もちろん先人の有益な主張は省みてより有効に使われるべきでしょう。 わたしがこうしてお話できるのもそうした先人たちの知識をもとにいくばくひねくり まわしたものを提示しているに過ぎないと考えます。 しかしそのひねくり回したものが意味を持つためには、すくなくても三者の間では 基礎となる合意部分が必要ではないでしょうか? 基本的に使用している術語に付き、合意に達するかどうかそこからはじめたいと おもいます。まず私が提示しますので合意調整ができればと思います。 1.概念:対象を名辞したもの。内包と外延より形成される。 2.命題:概念と概念が結ばれたもの。この結合の仕方に「すべての」と「ある」がある。「AはBである」A:人間 B:哺乳類として 厳密には「(全ての)人間は(ある) 哺乳類である」と記述される。このときAはBの外延でありBはAの内包である。 結合の仕方には a.(全ての)-(全ての) b.(全ての)-(ある) c.(ある)-(全ての) d.(ある)-(ある)         の四区分がある。 3.意識は概念を生み出し命題を判断するものである。判断には真と偽がある。 真の否定が偽であり、偽の否定が真.である。 2-aのサンプルとして「東京は日本の首府である」が真のとき「東京は日本の 首府でない」は偽。個者は(全ての)において適応される。 4.存在:命題の表示形式である。 「AはBである」を命題の繋辞表示という。 「BにAがある」を命題の存在表示という。両者は同値である。 5.存在表示における前件を議論領域という。 代表的なものに事実(時空)、可能、価値がある。 「棚の上にコップがある」のような命題は、これら三区分の命題の中で語られる。 この命題をFとしたとき ・Fが事実であれば感覚がこれを判断する。 「棚の上にコップがあるのが見える」「棚の上のコップをつかんで確かめた」 ・Fが可能であれば推測がこれを判断する。 「コップは棚の上かもしれない」「棚の上のコップがあるはずだ」 ・Fが価値であれば意識自身の満足度においてこれを判断する。 「コップは棚の上に置くべきである」「コップは棚の上において置いておきたい」 これらの命題は2-dの形式である。 「机の上にコップがある」が事実において真である場合、時空の部分である 「いま、机の上」(ある時空)に対して「あるコップ」が結びついたものである。 以上の三区分の根拠となるのは我々の使用する言語の助動詞の区分である。 助動詞の添える意味として イ.使役(せる、させる) ロ.受身(れる、られる) ハ.可能(れる、られる) ニ.自発(れる、られる) ホ.尊敬(れる、られる) へ.希望(たい、たがる) ト.打ち消し(ない、ぬ) チ.推量(らしい)     リ.様態(そうだ) ヌ.伝聞(そうだ)    ル.比況(ようだ)     ヲ.断定(だ) ワ.ていねい(ます、です)カ.過去完了(た)   ヨ.推量・意志(う、よう) ツ.当為(べき、べし) のような分類に対して尊敬のような特殊なもの、意志の絡むものを除いて (それは行為の宣言であり判断ではない)振り分けられたものである。 なお、価値を表す助動詞として希望、当為があるが前者は自分自身の満足度 をもとめるものであり、当為はこの満足度を自己の所属する仲間内、社会ないし 行動基準の信念に投影したものである。 6.判断は時空内部での意識によって命題に対して行われる。 (1)全ての時空において一致する判断が客観的判断である。 (2)ある時空において特異である判断が主観的判断である。 fwappyさまぜひあなたの定義をお示しください。 棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。 その観察事実はtmよりtnにおいてあったとしよう。 コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、あるい はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに至るまでのそれらの 測定値を観察することにより得られるのが客観的判断である。 観察によって記述された記録は全ての時空に対して真理値1をもつものと する。これに対して時空に他者を認め、 水が飲みたいので棚の上のコップをとったのだろう とするのが主観的判断である。 「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。 tmよりtnにおいて発生した一連の運動の感覚観察に対して、二つの知覚 観察を持つことが出きる。これはルビンの図形に対して向き合った人を見る か酒盃を見るかのごとく、感覚情報を処理する際におこなわれるふたつの モジュールのうちのいずれかの適合である。 ・因果論的判断モジュール ・目的論的判断モジュール 前者のモジュールにおいては助動詞「たし、べし」を含む命題は介入せず, 後者のモジュールにおいて介入する。 幾つか議論の中心となる概念に付き定義してみました。 意見の違う部分および未提出の概念について追加をお願いします。 (serpent-owlさま) 以上の各概念の合意の上に以下の質問回答へのご批判をお願いします。 >質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」 >それは「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。 前回も示しましたとおり価値可能に対して主観的判断を含む論理学でひとの 心は記述可能と思われます。たとえばキリスト教や一部仏教の死後の生活 を説く宗教は例の真理表の2行目から1行目への脱却を狙うものです。 すなわち、幸せな生活は死後の意識という可能性のうちに約束されるのです。 奇跡を見せる宗教は可能性のレベルを0→1に変換せしめるものです。 前回も申しましたが老荘思想は真理表3行目から1知行目への移行をねらう ものです。これは価値へのアプローチです。 >質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 >質問3:「事例分析(2)について。自分を磨くか周囲のせいにするかに関する本人の選択は、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 >質問4:「事例分析(3)について。他の子どもがいなければよいという論理的推論の結果、幼児を殺害したのなら、なぜ一人で終わったのですか? また、幼児殺害が逆に『地域社会における我が子の肯定』を阻害する可能性の考慮は、被告女性の論理的推論には入らなかったのですか?」 わたくしはこの三つの質問を同レベルで捉えておりましたserpent-owlさまには ご不満かもしれません。 イソップの「すっぱいブドウの論理」をご存知かと思います。 意識は環境を知覚して「ブドウがある」を確認した次に「ブドウを食べたい」それに は「ブドウを取る」と推論するのかもしれません。 VF「ブドウを取るは良い」 PF「ブドウをとることが出きる」 VS「ブドウを食べて わたしは満足」となるわけです。 ここでまず「ブドウを取る」という可能性へのアプローチがあるでしょう。 ここで機軸となる論理式は、公理系Lの選言取りかと思われます。 目的的活動は最終目標Cに至れば良いわけですので 「A∨BかつA⊃C、B⊃CよりCを導出して良い」となるわけです。 すなわち目的にいたることが可能ならば、棒で持って取っても良いし、 石を投げて落とすというてもあるわけです。取りうる可能な手段を持ってPF=1 を達成するわけです。 残念なことに寓話はPF=0のまま推移しました。取りうる可能性はVF=0を 願い真理表の4行目への以降を狙って「あのぶどうはすっぱい」という未確認 の情報であり真とはなり難いので不合理とされたのでしょう。 しかしながら受験などの競争に敗れたとき、伴侶獲得に失敗した時、家族 に死なれた時など、それは一度は高い価値を設定したわけですから、その 変更は容易なものではありません。しかしながらVS=1は実現されねばなら ないとおもいます。そのためには気にしない,わすれる、きりかえる・・・などで 対象価値の削減は実行せざるを得ません。 酒鬼薔薇、バスジャック、お受験はこうした価値判断レベルの変換にまでは 行きついていないサンプルかと思います。彼らは可能性にかけていたと思い ます。しかしながら病的な手段我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を 不幸にも選択してしまったと考えます。もしかれらが戦国時代の権力者なら 罰則は加えられなかったでしょう。彼らは満足を得るのです。 >質問5:「フラクタル現象学の見地からの一般論導出とは、どのようなことですか?」 今日の脳化学であればやはり物理学や化学を前提とするものと思います。 カタストロフィーやカオスにしても基本的に現象に対して因果論モジュール を適合するわけです。ここには「たし、べし」はありません。 ゆえにそうした複雑な因果論モジュールをフラクタル現象学の一般論導出と 表現しました。 >質問6:「単純な統計的手法が哲学の方法だとお考えですか?」 わたしの示した目的論モジュールは、たとえば他者の痛みは観察できない としながらも現実には表情や反応で自分を投影して解釈を与えています。 そこから不都合が出るケースは蓋然的にはほとんどないでしょう。 私はファジィないし統計で目的論モジュールは観察可能と判断します。

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