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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

serpent-owlの回答

回答No.36

 哲学と科学について。こちらを先に述べてしまいましょう。  以前述べたことと重なりますが、科学の拠って立つ基盤たる「実証主義」は、「あるものを、あるがままに」観察することを規範としています。「客観的に」ということです。  「客観的観察」は、いわゆる「デカルト的切断(カルテジアン・カット)」にその妥当性を根拠付けられてきました。観察対象と観察主体を切断する、ということです。「私が見るからこう見えるのではなくて、誰が見てもこう見えるのだ」ということであり、「観察する」という行為が観察対象に影響を与えないということであり、さらに言い換えれば観察対象からの「私」(個別的主体性)の排除です。  しかし、この点については、他ならぬ科学自身の中で、その限界が指摘されてきています。例えば量子力学では、観察するという行為自体が対象を攪乱することが確認されています。「量子の位置を確定しようとすれば運動量が確率的になり、運動量を確定しようとすれば位置が確率的になり、両方を同時に確定することはできない」という不確定性原理がここから導かれています。  また「客観」を人間が「知」として我が物となしうるかという点についても疑義が呈されています。halkaさんが名前を挙げておられるラプラス。「ラプラスの悪魔」で知られておりますね。「宇宙のすべての物体の位置と運動を知ることができれば、未来の宇宙の姿を余すところ無く予言できる」という機械論的自然観への信仰です。が、これについても、他ならぬ科学自身が「バツ」をつけています。未来は決して予測できない。例えば「三体問題」です。質量点が2つの系ならば、その運動は解析的に解ける運動方程式で表すことができ、未来永劫、いかなる瞬間の状態でも予測できます。が、質量点が3つ以上になると、その運動方程式は解析的には解くことができず、その都度その都度計算を繰り返すしかないことが証明されています(オイラーによる)。これだと未来は予測できません。運動そのものは「客観的」でしょうが、その振る舞いを「知」として人間が所有することはできません。ケプラーが十七年の歳月を費やして発見した太陽系の美しい秩序すら、細かく見れば「多体問題」の揺らぎに絶えずさらされています。この他にもカオス論絡みで「長期予報は当たらない」とか「生態系内のある生物種の個体数変化は予測できない」とか、類似のものは随所に見られます。  上記のことから、旧来の自然科学が志向した「客観性」とは、一つ「私とは関係なく自立・自存しているもの」であり、一つ「時間的に完結しており、今後新たなものを生み出す可能性がないもの」であると言ってよいでしょう。…後者に関して補足すると、「歴史やら時代やらに左右されない普遍性に高められたもの」ということです。ケプラーの法則も、アインシュタインのe=mc^2も、原理そのものとしては「無時間的存在者」に列せられています。  がしかし、そうした要素還元的な帰結だけでは現実は説明できない。これを示したのがカオスの発見であり、複雑系の議論です。現実そのものを見るためには、有限時間内には完結しない現象を相手にせざるを得ない。すなわち、「現実」をめぐる「知」は完結した体系としては示されえないのです。「知」は永遠に完結しない開放系です。自然科学においてすら、そうなのです。  いわんや哲学をや、でしょうか。  少々話は飛びますが、私には微妙に世代を異にする社会学専攻の友人がおります。彼らと交際が始まったごく最初の頃、彼らが異口同音に言ったことがありました。  「社会学って…学としての基盤が…なってませんけど…」 と、だいたいそのようなことです。知る限りにおいて、社会学専攻の方々はこの面において謙虚ですし、また社会学の本を読んでも、この手のことは最初の方に書かれていることが多いです。曰く、「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。  「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が…  ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?)  その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。  「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。  で、哲学にも似たようなことが言える。しかも、開放系の学たる社会学も基盤とせねばならない「実証主義」に必ずしも足場を置かなくてもよいので、一面において自由であるともいえますし、一面においてだからこそ慎重でなければならないともいえます。  哲学も現実を相手にする以上、開放系の学たることを免れないでしょう。したがって、現実を見るまなざしは自然科学のものであれ、社会学のものであれ、まずは一旦受け容れる必要があると思います。しかし「それそのものではいけない」。…これがsatonohukurouさんの問題意識でしょうね。これへの答えは、やはり「実証主義 positivisum」に対する一定の negativisumだと思います。実証主義が立てる「客観」なるもの、その背後で行われている「私」の排除、その排除のプロセスに、実は時代状況に規定された「私」が混入しているのを暴くこと。「私」による「所有」の欲望が蠢いているのを暴くこと。そしてその「所有」が不可能であると宣告すること。「解体」の論理です。この「解体」は必ずしも破壊ではありません。貧しい「客観」からの脱却です。  とりわけ「心」が問題になりますと、心というのは「私」もまた持っているものであり、「他者」のそれを「観察」するのも困難なものですから、客観性の確保は難しいでしょう。さりとてこれが脳という物質的基盤と無縁に存在しているとも言えない以上、主観を基軸にした観念論も今さら許されるものではない。「心」が問題になる場合、観察主体が観察対象に影響を与え、観察対象が観察主体に影響を与えるということはむしろ当たり前のことです。すなわち「カルテジアン・カット」はなしえない。ということはやはり、「主観-客観」という二分法図式そのものの基底に潜り込んで考える方策をとるのがよい…ということになるのではないでしょうか。  …読みかけで、生半可理解の『内部観測』を交えつつ書きました。まだまとまりません。「自分で書く言葉」を媒介にして理解しようとしながら書いています。「あなたが書く言葉」も媒介になれば、と願います。     *  halkaさま  低能管理部による妨害の心配でしたら無用だと思います。もうやらないでしょう。今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。  私は、どの質問においてもそうですが、質問者の利益を最優先に考えています。この質問のようなややこしいものになりますと、回答者による逆質問や補足要求が出されてくるのは止むを得ないことだとは思いますが、しかし、質問者を無用に混乱させたり困惑させたりするようなものは好ましくないと考えます。  そこに照らして、halkaさんの立論に関してhalkaさんの善意を疑うものではありません。質問者の利益を思って考え、書き込まれているものと理解しています。  が、いかんせん、私の考えとは対立しております。そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが)。さらに、この場ではhalkaさんの考え方に批判を加え、可能ならば否定し去ることが質問者の利益に適い、かつ、後にこのスレッドを目にする読者にも参考になるものとも考えています。したがって、この場で起きたことはこの場で済ませたいと願うものです。  それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから、まともに話が進められるとも思えないのです。

satonohukurou
質問者

お礼

No.170489とNo.172620についてのお礼です。 正直「感動」ものでした。  先ず、No.170489 についてですが、幻影肢についての深いご理解に感動です。そして、身体論からのアプローチを提言していただき、参考文献を紹介していただきました。ありがとうございます。特に、エリアス・カネッティは、全く承知しておりませんのでした。最後に、私の質問がserpent-owlさまの複雑系との関連を考察するきっかけとなったと、いやはや照れくさいのみです。  次ぎに、No.172620についてです。いよいよ佳境に入ったという感じです。身を乗り出して、ご意見を聞かせていただきました。「客観」と「主観」についてのご説明は、実に理解容易でした。そして、私にとって新たな発見がありました。「知の解放性」です。そして、「実証主義の解体」については、私は新たなパラダイムとして捉えました。鋭いご意見かと考えます。  さらに、感銘を受けたのは、私の拙い質問を実に的確に掘り下げていただいたことです。人の気持ちが良くわかる人だ!という感想です。他者の心は観察することは出来ない、ということになっていますが、これは、考えてみれば、実証主義に軸足をおいての考えかも知れませんね。特に、私の質問は全くそのものでした。それと、『内部観測』(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)は、私とっても必読書のようです、早速取り寄せます。

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