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山本五十六の最後

なぜ山本五十六聯合艦隊司令長官は 危険な最前線視察などに出向いたのですか? 事前に陸軍の今村大将や小沢中将、城島少将が思いとどまるように説得していますが、聞く耳さえ持ちませんでした。 護衛の戦闘機もたった6機で大丈夫だと思ったのでしょうか? 油断していただけだったのですか? それにしてもなぜこの時期にブインの視察など する必要があったのでしょうか?

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  • myeyesonly
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回答No.1

こんにちは。 こういう行動は結構意味があります。 ◎普段、前線にいないオエライさんが、実際に弾の飛んでくるような前線を視察する事で、兵士からの信頼が厚くなる。 少なくとも、毛嫌いしてたような兵士でも少しは見直して、やる気になる人も多いはずです。 ◎その地域の兵士・部隊に対して「お前たち、こんなに気にかけているんだぞ」という最高のアピールになる。 ◎司令官自身が現地を見る事で戦略上の問題などを発見する機会が増える。 現地将兵は戦術的、遠くで作戦を作る人たちは戦略的な目が必要で、作戦はその両方がうまくかみ合わないと失敗します。 なので、視察行為自体は至極当然、前線の状態を作戦に反映したいと考える司令官なら誰でも同じ事を考えたでしょう。 ただ、移動・護衛の方法、通信がバレバレになってる可能性まで目が向かなかったというのは確かでしょうね。 あまり考えられないですが「米国の精神論では待ち伏せはしない」とたかをくくっていたのなら、とんでもない誤解であったと言わざるを得ませんが。

dosanpin
質問者

お礼

そうかもしれないですね。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (5)

回答No.6

 私は直感的にですが、死ににいったと判りました。  今村大将や小沢中将、城島少将がどう止めようとしても、それは反って決意を固めるだけのものでしたでしょう。  死に方をお考えになってのことだと存じます。  精確ではないが、そうとう正確に事ここにいたっての、事の行く末を見届けてのことだと存じます。  戦地では普通、あぁいう方は死ねないし、内地で勝手に腹も切れない。  老兵は死なず、消えるのみ、ではダメなんです。

  • shizumo
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回答No.5

いまから40年位前、両親とある小島に旅行に行ったことがあります。そのとき漁師さんの家に泊まったのですが、その漁師さんは戦争中に友人から聞いた話を父と話していたのを思い出しています。 漁師さんの友人は山本提督が攻撃され乗機もろとも撃墜された時、捜索隊となったそうで、ジャングルの中で飛行機を見つけ中に入ったところ、提督は椅子に座ったままの姿勢で、軍刀を握り締めて息絶えていたそうです。

  • tande
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回答No.4

>それにしてもなぜこの時期にブインの視察など する必要があったのでしょうか? それだけ「い号作戦」の意味合いは大きかったということでしょう。 戦後の我々には大して損害を与えていないことは知っていますが、当の日本軍からすればソロモン・ニューギニアの戦局を打開する大作戦なのです。

  • hurasuke
  • ベストアンサー率18% (191/1056)
回答No.3

 自分は安全なところから戦争継続を主張し、兵士たちには死地に赴かせる・・・そういう司令官や上官は最悪ですよ。  時期や護衛の数には問題があったと思いますが、戦争が終わるまで安全なところにいた軍司令部の方が小汚い人間に思います。

  • toro321
  • ベストアンサー率29% (1222/4138)
回答No.2

いろいろ説はあるようですが。 ミッドウエーの敗北は連合艦隊司令部の責任ですから、その責任を取って死を覚悟してたんじゃないかと思われます。 特に南方で酷暑であるにもかかわらず、開襟の防暑服を着ずに第二種軍装(白の上下の詰襟)を着ていたことは、死に衣装ともとれます。 ただ、連合艦隊司令長官は、旗艦に乗り、戦闘の時は先頭に立つというのが日本海軍(元は英国海軍式)の伝統ですから、最前線に向うこと自体は変ではありません。(日本海海戦でも、東郷長官は先頭の三笠にいて、指揮を執りました)

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