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「身代わり地蔵」的な発想というのは日本独自でしょうか

肩代わり的な発想で、信仰者の身代わりになってくれる存在を信仰するというのは、東洋的なのでしょうか? たとえば、生贄というのがあります。自然神にささげ物をするから、静まって人々に安息をくれと。 縄文時代の土偶的な人形にも、わざと壊して自分の安全を願う風習があったそうです。 これらは、東洋的なのでしょうか?

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noname#163492
noname#163492
回答No.1

こんばんは。 生贄というのは、地球上の多くの場所で見られる習慣のようです。 ユダヤ教の神殿とは生贄を捧げる場所のことなのだそうです。 また、牛などの動物だけでなく人間を生贄にするという残酷な習慣も各地で見られるようです。 日本では人柱の習慣が近年まであったようですが イギリスのロンドン橋という民謡も人柱のことを歌ったものだと聞いたことがあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B 上記サイトには 中国殷代の殉死(日本でも卑弥呼が死んだときに多くの人が殉死したことが記されていますね。) ギリシャの贖罪・アステカ人が人間の心臓を捧げたこと 聖書にも生贄と思われる内容の記載があることなどが記されています。 身代り地蔵、土偶というのは人間や動物のかわりに人形(ひとがた)を使って神に祈願するという信仰ですね。 水無月の大祓、流し雛なども同様の信仰ですね。 人形に息を吹きかけて穢れを移し川へ流すというものです。 おっしゃるとおり、日本にはこの手の信仰が多いですね。 中国の兵馬俑も、一種の身代り人形といえるかもしれません。 殉死のかわりに人形を作ったのではないでしょうか。 また唐や高句麗の古墳には壁画が描かれていますが 宮廷の女官などが描かれているものがあり、これも一種の身代り人形といえるでしょう。 西洋ではどうなのでしょうか。 イエスキリストは人類の身代りになって死んだ、と聞いたことがあります。 ということは、クリスチャンの人が十字架を身につけているのは 日本人の「身代り地蔵」のような信仰なのではないかなあ、などと思いますがどうなんでしょうか。

garcon2001
質問者

お礼

宗教の原始的な段階においてよくあるのでしょうね。キリスト教はそのようなものから脱するという性格を持ったものだったのではないでしょうか?完全な精神性の優位を掲げる。 日本の宗教は、このような原始的なものを存続させつつ、仏教と融合させた性格を強くもつきがします。

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その他の回答 (1)

noname#125540
noname#125540
回答No.2

生贄の風習は世界各地にありました。 キリスト教以前のヨーロッパ(ケルト、ゲルマン文化など。泥炭の中の人や動物のミイラ) 南米の文明(生贄の心臓を載せたといわれるチャックモール像、山で発見された子供のミイラなど) 旧約聖書では山羊を捧げものとして「ほふる」場面がしばしばあり、 アブラハムは信仰の証明として、自らの息子を生贄として捧げることを神から命じられます。 (直前で神様がストップ) 身代わり地蔵的かどうかは分かりませんが、 キリスト教のカトリックでは、メダイユ(メダル)というお守りがあります。 聖人や聖母などの名前や像を刻んだものです。 しかし確かにイエス・キリストは大きな身代わりですね。 私はクリスチャンではありませんけれど。

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  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

  • 宗教の発生、そしてそれが可能な生物

    もし、動物と人間を分かつ基準があるとすれば、 「己は何者なのか」 「自然は何者なのか」 を問うか否かがあると思われます。 おのれの身体活動、人間の活動、自然現象に対する畏怖、それらを「問う」という活動。 生命豊穣の象徴である男根の石像を作り、身代わりの人形を破壊し、雨乞いをし、それらのアニミズム信仰の起源、「畏れ」 つまり、哲学するかどうか。 この哲学が始まったので、現生人類は宗教を起こしたのでしょう。 では、この精神活動は現生人類だけの特権だったのでしょうか? ネアンデルタール人は、埋葬の儀式があったそうですが、だからといって、現生人類の作り上げたような宗教を作る可能性はあったのでしょうか。または、実際あったのでしょうか?