• ベストアンサー

現代では慣用表現が縛られていませんか?

現代では、なまじ辞書などデータベースが潤沢に身近になったせいで、 新たな慣用表現が生まれにくい、または既に大多数の人が変遷した意味で使っている慣用表現を「誤用」と斬り捨てられるようになっています。そのせいで現代では「言葉が呼吸し辛くなっている」ように私は感じます。 現代においては、たとえば「敷居が高い」は、「その場所の程度が高すぎて入り辛い」、「確信犯」は「わかってやっている」という理解の方が、自然で、しかも使い道も広く感覚に馴染みます。 現に、大半人々が無意識にこれらの意味が正しいと感じて用いています。 本来の意味の方がむしろ使い辛かったり、いまいちピンと来なくなったりした慣用表現は、時代に合わなくなったとして廃するか新たに現在「誤用」とされている方の意味に置き換えてみた方が、「生きている」言葉に対して当然の処置ではないでしょうか。 そういう声は国語の学者さんの間では上がっているのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • denbee
  • ベストアンサー率28% (192/671)
回答No.2

>新たな慣用表現が生まれにくい、または既に大多数の人が変遷した意味で使っている慣用表現を >「誤用」と斬り捨てられるようになっています。そのせいで現代では >「言葉が呼吸し辛くなっている」ように私は感じます。 新たな慣用表現は、毎年流行語大賞などでいくつも選出されていますから、 新しい表現が生まれないという意味では「言葉が呼吸し辛くなっている」とは思いません。 しかし、その年の流行語は次の年には殆ど忘れ去られているように、 定着しづらくなっているという点では確かに「呼吸し辛い」ように思われます。 #「言葉が呼吸し辛くなっている」というのはうまい表現ですね。 >本来の意味の方がむしろ使い辛かったり、いまいちピンと来なくなったりした慣用表現は、 >時代に合わなくなったとして廃するか新たに現在「誤用」とされている方の意味に置き換えてみた方が、 >「生きている」言葉に対して当然の処置ではないでしょうか。 現代は余りにも情報量が多い上に、言葉の変化のスピードが速すぎるために 追いつけていないのではないでしょうか? 言葉の変化はいつの時代にも起きていますが、言葉の用法はある程度の期間広く使われ続けないと、 定着したかどうか判断できません。 例に挙げられている「確信犯」の場合、確かに誤用の方の意味が広がっていましたが、 最近は、雑学番組で誤用されている言葉の代名詞のような扱いをされたため、 逆に本来の意味の認知度が高まると言う本末転倒な状態が発生しています。 すると、この場合はどの意味で使うのが「生きた」意味になるのでしょうか? 判断が難しいところです。 このような変化のスピードの速さが「生きた」言葉を反映させることの 遅れにつながっているのではないでしょうか?

dendenaaa
質問者

補足

※全然質問とは関係無いのですが※ 「確信犯」については、誤用としての認知が広がったのですが、 「正しさを確信してやっている」よりも「わかっていてやっている」という意味が使いやすいので 誤用と分かった上で敢えて使ってる人がいたり、また誤用している人に対しては間違っているけれども「敢えて使っているんだな」と周りが空気を読んで意味を解釈したり。 誤用という認識があまりに広まりすぎて、かえって誤用に対する暗黙の同意、指摘する方が逆に野暮だという空気も広まっているという、そういう奇妙な現象が起きているような気がしました。

その他の回答 (2)

  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.3

国語学者ではありません、ごく普通のおじさんですが一言。 慣用句や諺の類は、謂れがあって成り立つものです。 仮にもです、“「誤用」とされている方の意味に置き換え”るなど考えられません。 勝手に解釈して不勉強を恥じることもなく、解釈を変えよとは、 きちんとした社会人は賛同しないと期待します。 ご指摘のとおり言葉は生き物ですし、社会の変化とともに新しい概念や、 生活習慣さらに人間関係が生まれ、それぞれの事情と環境に即した言語の形が 派生するのは避けられません。必然性が受け入れられ共感を得られる変化は定着するものです。 新たな文化の生まれるきっかけにもなるでしょう。 明快なのは科学技術用語や業界用語です、そこには必然性が認められます。身内の通用語や ギャル語などはローカル社会で勢力を張り外部にも漏れ広がりますが、「めずらしい語」程度の 位置づけで、国語として社会に認知されません。そこに必然性が認められれば定着することもある でしょう。その結果に対して好悪を述べても始まりません。 慣用句や諺は日本人が代々引き継いだ財産です、意味が正しく世代間に受け継がれないのは、 教育の不始末です。学校教育に加えて家庭教育もその責を免れません。 AV系のメディアや娯楽が増えたせいで活字に特に文章(読み書き)に真剣に対面する機会が 減ってきたことも環境的には大きな要因ですが、 国語の時間が減らされるなど言語道断の施策がとられています。 国語が出来ないと他の学科もダメです。子供に英語を教える暇があれば先ず国語です。 (このあたりは、『祖国とは国語』藤原正彦/新潮社         『日本語はなぜ美しいのか』黒川伊保子/集英社新書 をご参考に) 「パソコンで文章を書くから難しい言葉が分らなくなった」との発言も多く聞きますが、 パソコンを使えるのだからこそ、都度辞書にあたる習慣をつけさせればよいのです。 教育者すなわち一般の社会人たちの責任放棄の発言に過ぎません。 従って、質問に端的に回答するならば、  “「誤用」とされている方の意味に置き換え”・・・反対です。                        誰がどういう権限・立場で変えるのですか。                        正しく使っている人はどうなるのでしょうか。                        各種文章や文献が正しく理解されなくなる。    “慣用表現は、時代に合わなくなったとして廃する”・・・反対です。                        廃するとは具体的に何をどうするのですか。                        正しく使っている人を排除する権利はない。                        無用ならば自然に消えます。  推奨策:    誤用であると気付いたら、正しい意味を覚えればよいのです。・・・教育の姿勢。   それが嫌ならば、その言葉を使わなければよいのです。・・・なんら困難はありません。     そうすると、誤用の意味を表すのに不便だなどと言い出す輩が出るでしょう。  自分の誤用を表す慣用句や諺を欲しければ、自分で考え、世の中に受けいれらる程に価値ある  形で残す努力をするしかありません。  歴史的に著名な詩人・作家・政治家・学者・芸術家諸氏が発した言葉や句が年月をかけて  世間に受け入れられたようにです。  そこらにあるものを勝手に流用して悦に入るような臆面のなさを認めてはいけないのです。

dendenaaa
質問者

補足

>仮にもです、“「誤用」とされている方の意味に置き換え”るなど考えられません。 誤用と正用の如何に拘るあたりは、一般人のおじさんを自称するに相応しいと思います。 まず言っておくと、言葉の意味が時代と共に変遷しているのは常識です。そこに現代ほどの言葉の正誤の拘りはありません。 あなたは、現代のように辞書がまだ広く流通しておらず、まだ言葉が変幻自在に生きていた時代において、慣用句などの言葉の意味が全く変遷しなかったと思っているのでしょうか? 当時の人々の誤用や、転によって生まれた語(現代のギャル語などに通ずる)が「国語として社会に認知」される事が全く無かったと思っているのでしょうか。 本当に、「かわいい」という言葉の意味の変遷なんて、まんまギャル語の言葉遊びと同じではないですか。しかしこれも今や立派な「国語」なのです。 >誤用であると気付いたら、正しい意味を覚えればよいのです 質問の意味も全く理解されていないようですね^^;

noname#106800
noname#106800
回答No.1

スピードは遅いけどやってると思います。

dendenaaa
質問者

補足

そうなんですね。聞いた事がありませんでしたが。 マスコミでは「○○の意味を間違えて使っている人が約70%」だとか よく報じていますが、過半数超えちゃあ、既にそちらの意味が日本で通用しているという事に他ならないですよね。 世の中が既にそうなっているのですから、国語にも迅速に反映して欲しいものです。

関連するQ&A

  • 誤用しやすいわかりにくい慣用句

    先日ネットで「気の置ける仲」という言葉を見かけました。これは「気の置けない仲」の誤用なんですが、常々私はこの「気の置けない仲」という慣用句がピンと来ず、「気遣いの必要のない仲」ということであれば、「気を置かない仲」とした方がピンと来るよなぁと思います。 「隅に置けない」・・・意外と異性にモテる人の事かと思ってましたが、実際の意味は「思いのほかに知識・才能・技量があって、油断できない」だそう。じゃあ無能な人は「あいつは隅に置ける」になるのかな?笑 「食えないやつ」はずる賢くて油断ならない人だそうですけど、そうでない人は食えるやつ? あなたはピンとこない慣用句、何かありますか? ちなみに「汚名挽回」は誤用ではないんだそうです。「挽回」は元の状態に戻すという意味だからだそうで。「疲労回復」も同じ構造だけど誤用とはされてませんからね。まぁ誤用が誤りと言われてももう取り返しつかんと思いますけど、、、

  • ドイツ語の慣用表現「牡牛を角でつかまえる」

    ドイツ語に「牡牛を角でつかまえる」というような意味の慣用表現があるらしいのですが、それはドイツ語で書くとどのようになるのか、そしてどんな場合にどんな意味で使われるのか、ご存知の方、よろしくお願いいたします。

  • 「家鴨が文庫を背負うたよう」という慣用表現がありますが、この場合の「文

    「家鴨が文庫を背負うたよう」という慣用表現がありますが、この場合の「文庫」ってどういう意味ですか? やっぱり手文庫のことでしょうか。でも背負うって? 気になっているので、ご存知の方はよろしくお願いします。

  • 慣用句 「背筋が伸びる」?

     こんにちは。  気持ちがピリッとなる、いい意味の緊張感が出る、というような意味で「背筋が伸びました」と手紙に書こうと思います。  これって日本語合っていますか?国語辞典で調べると「背筋が寒くなる」という慣用句はあるのですが、私が知りたい言葉は載っていませんでした。    実際にこの表現を使っているHPなどは多数ありますが、正しい表現なのかどうかが知りたいと思っています。 論文等に使うわけではないので、気軽に応えていただければ結構です。お願いします。

  • 「現代」という語について

    おそらく非常に初歩的な質問だと思いますがどなたかご回答よろしくお願いします。 「現代」という2つの意味を持つ言葉があります。 1つは「現在の時代・当世」という意味の現代。もう1つは「歴史上の時代区分の1つ」としての現代。日本史では普通「第二次大戦後の時代」、世界史では「第一次大戦後の時代」を指しますよね。(参考:大辞泉) それでは、例えば中世の人々がその当時の時代を指すときにはどのような言葉を用いていたのでしょうか。中世においては「中世」という語が(1つ目の意味での)「現代」を表していたのでしょうか。それとも中世においても「現代」という語はやはり存在していたのでしょうか。

  • 形容詞の後置修飾・慣用表現ですか?

    “Aborigine” means the people who lived in a place first. という一節があったのですが、ここでのfirstって形容詞ですか?限定用法の慣用句になっている場合の後置修飾用法でしょうか。副詞かもと思いましたが、a placeを修飾する形容詞として訳したほうが(長文に対しての一節だったのですが)自然に思えます。 アボリジニは最初の場所に住んだ人々を意味する。・・・(1)(形容詞の訳) アボリジニは最初、ある場所に住んだ人々を意味する。・・・(2)(副詞の訳) と自分なりに訳してみましたが、合ってるんでしょうか。形容詞か副詞か、どっちなのかわかりません。また形容詞の慣用句(後置修飾)の用法ならその辺の解説もしていただけるのならよろしくお願いします。

  • 「憮然とした表情」を正しく言うには?

    ご覧頂き、ありがとうございます。 (1)「憮然」 「憮然とした表情(態度)」という表現を「腹を立てている」という意味で使うのは誤用だと分かっているのですが、では、なんと表現するのが正しい(望ましい)でしょうか? 「ムっとした表情」などではなく、適切な熟語はありますか? 「憤然」だと怒り過ぎのような気もします。 (2)「檄を飛ばす」 叱咤激励の意味で使うなら、適した言葉は何になりますか? 例えば、『「みんな!あと少しだ!がんばれ」とキャプテンは檄を飛ばした。』 を適切な表現に直すとしたら、「励ました。」とか「鼓舞した。」とかになると思うのですが、熟語ではない言葉にするとしたら「活を入れた。」で良いのでしょうか? ほかにありますか? (蛇足) テレビや新聞で誤用については耳(目)にしますが、じゃあなんて言うのが正しいのか、までは触れられていないように思います。 「確信犯」の正しい意味は○○だ。までしか紹介せず、悪いことと分かっててやるのは「故意犯」や「計画犯」。という所まで伝えないのはなぜだろうといつも思います。

  • 「憮然とした」という表現

    最近「憮然とした」という表現において、誤用が目立つようになってきたと感じます。 本来、驚き呆れた様、失望や落胆した様、と言った意味ですが、最近は 「腹を立てている様」と言う意味で表現されていることが多いです。 「憮然」はどちらの表現が正しいのでしょうか。 時代の流れによって日本語が瓦解して来ていることは常々感じていますが、やはり日本人として日本語は従来の使い方で使用していったほうがよいのではないかと思ったため、質問させていただきました。

  • 「敷居が高い」を

    「敷居が高い」を誤用している人の中に、間違っていると分かっていて、わざと「ハードルが高い」の意味で使っている人は居ますか? 「ら」抜き言葉は、間違っていると分かっていても使う人が多く、「全然」の後の肯定も同様です。 「敷居が高い」は、誤用だと言うことが有名であるにも関わらず、目にする頻度が高いので、わざと使用する人も居るのか? と思い、質問致します。

  • 「普通においしい」はどの程度だと思いますか?

     「普通においしい」、「普通に面白い」などの表現は誤用であり、真面目な場面では使うべきではないとされています。年配の方などが、新聞の投書欄で日本語の乱れを嘆かれているのも多々拝見されます。誤用、日本語の乱れけしからん!!!    などとても怒っている人もいます。個人的に言葉は時代とともに変化するものであり、新しい言葉の意味、使用方法が増減するのは問題ないし自然なことだと思っています。古典など読んでいると古語と現代語の意味が違うものが出てきますが、あれらは誤用、流行語、当時の若者言葉などに影響され変化していったためです。つまり誤用の定着です。    今回の質問は「普通に~」という表現が正されるべきか、そうでないかというものではありません。この表現が多くの人に認知され定着すれば、誤用が正式な表現に替わっていくでしょう。誤用なのですぐなくせ!ではなく、もう広まってしまっているので、使わなくとも聞くことはあるので、この表現の定義を知っておく必要はあると思います。   「普通においしい」この表現は結構広まっていると思います。ですが友達と話していて、この表現の「程度」が人によってまちまちで幅があることがわかりました。個人的には まずいーーー→ 普通ーーー→ 普通においしいーー→ おいしいーーーー→ とてもおいしい (-1)       (0)        (0.5)           (1)            (2) このような感じです。かっこの中は数字で表した場合のレベルです。 「普通においしい」この表現を使用している方に質問です。この表現はどのくらいの程度でしょうか?