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戦国時代の質問です。

大学の授業で戦国時代は一部の英雄視された著名によって語られた戦国大名が少なくなくまた、戦国大名同士が戦った合戦についても江戸以降に作られたといわれました。では実際にいた大名は誰でまた実際にあった合戦はどのようなものだったんですか?

  • 歴史
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みんなの回答

  • hurasuke
  • ベストアンサー率18% (191/1056)
回答No.7

 大学生ならば、もう少し踏み込んで考えましょう。まず、歴史に正解も不正解もないんです。あなたなりに疑問を感じているからこそ、正解を知りたいとお思いなのだと思います。しかし、もっと近い歴史である、第二次世界大戦すらお互いの思惑ばかりが論じられて、事実がどうであったのかわからないではありませんか?それが戦国時代ともなれば、資料も限定されて・・・確かなことがいくつかあり、その行間は個人個人が考えることなんです。  できるだけ正確に把握したいとご希望ならば、何か題材を決めて本を二冊読めば、その矛盾はよくわかるようになりますよ。例えばですが、石田光成と徳川家康を読めば、あなたなりに公平な価値観を持てるようになります。他にも明智光秀を読むと、織田信長がいかに最低の人間であったかもよくわかるようになります。基本的に習う歴史とは、総見記・太閤記等が元になっていて、勝者の御用作家が書いたものです。しかし、御用作家が歴史を捏造しても、一般民衆レベルまでは手を加えられません。明るみに出なかった資料に、事実が残っていたりするのです。また、武将によっては和歌を通じて言いたいことを残した人もいます。それら全てを考えていくと、寿命が足りませんが・・・それもひとつの楽しみです。  ちなみにですが、戦国大名という名の大名家はありません。下克上の時代に、主君を倒して大名にのし上がった武将も合わせて、戦国時代に生きた大名は皆戦国大名とも言えます。なかった合戦が江戸時代に作られたという話は聞いたことがありません。また、存在しなかった大名が江戸時代に作られた話も聞いたことがありません。どの合戦が実際はないのにあったことにされたのでしょうか?もう少し詳しく聞いてみないと話がわからないんですが、その教授って素人でしょうか?それともあなたが、教授の話を聞き間違えているのでしょうか?

回答No.6

実際の戦ではあまり人は死ななかったそうです。 関ヶ原の戦いは両軍20万人と言われてますが死傷者は6000人~ 8000人と言われています。全体の5パーセントほどです。だからそこまで残酷ではなかったと思います。

  • tra55
  • ベストアンサー率10% (5/48)
回答No.5

何かの実験で分ったらしいことですが 大勢の人々を集めて密集陣形で一斉に 進撃したり撤退したりすることは、最も 大勢で動けるのは3000人ぐらいで それ以上、大勢だとヒトカタマリで 進退するのは効率よくやるのは不可能だと 何万人もいる軍団は、多くの部隊に分けて 行動して、それは大軍団であればあるほど 部隊も多く、それらを指揮するトップの 総大将の要求される指揮能力たるや 相当なもので、大軍団は集めるのも大変で 大したものだったのですが それを自在に操る指揮官も相当なものだと いうことですね 桶狭間の戦いは実際あったことだった以上に 万単位の軍勢を集めた今川義元も大したもの だったし、それを密集陣形で限界兵力の 三千人程度を集中させギリギリまで篭城か 野戦か態度を不明確にしていて突然 出撃して急襲するかたちで最短距離で 今川の本陣に一か八かのヒットエンドランを 狙って成功させた織田も大したものだった わけでしょう、ヒットエンドランで離脱も 重要だったのです、織田は今川本陣を 急襲し義元を討ったが今川の主力軍団の 各部隊は健在でモタモタしていたら 織田は包囲されて討たれる危険があったので 義元の首を上げたあと、さっと撤収していった 手際も見事だったのでしょう

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.4

今と変わりません 相手を研究して経済的に締め上げていきます 最終は数の力で圧力を掛けて 降参を待ちます 決戦といわれるものは ほとんどなかったと研究されているからでしょう その先生のとおりだとおもいます。いまと違って正確な情報はありませんし、 軍行動としての利用道路はかぎられていますので 前線での偶然の遭遇戦とか あるいは背を見せた敵に対しての乱戦しかありません。力の均衡しだいでしょう 睨み合って大体膠着状態で和議等での合い別れが多かったでしょう。小さな地侍の生きる道は数の多いほうに付きますしごく普通の行動原理です それによって心底 非難されることもなかったはずですから オセロゲームのように 戦いの前にどれだけ白に、黒にするかです 真田が表裏の者といわれるのは 江戸時代の武家規範から見てのことです。  信長も西三河尾張国境紛争戦(通常桶狭間戦)以降は数が有利になるまではじっと待って経済的に相手を締め上げています (相手の軍資金となるもの) 伊勢神宮に義元から ちかじか尾張表に出張するという文書が残っていますし そのあと信長の家来佐久間信盛から 義元の首を取った旨の文書ものこっているのをみますと この国境紛争戦はあったでしょうね 義元の駿河三河熱田伊勢湾の海運交易の奪取は尾張の経済の奪取にほかく 大軍(数の最大限動員最大圧力)をかけて 第一目標の天白川のラインまでの領土化でしたが 実戦としての地理地勢のまずさが 逆の結果となり 信長のこの紛争戦での偶然の勝利もそうだけども 勝利というのを過大に利用するのは 無用な決戦を避けるために知恵の産物でしょう 江戸時代に書かれたものにかぎらず この部分を含んでいるものでしょう  日本の農業史を見ますと 戦国の100年間は3、4年に1度の割合での飢饉があったみたいで 他国への出兵は 合戦とはほど遠い略奪戦がほとんどでしょう 実際あった合戦や大名は現存する1級の古文書 文献でかくにんされているものだけでしょう(ここではいちいち書けません)   

  • n0042637
  • ベストアンサー率0% (0/12)
回答No.3

私は専門家でもなければ研究家でもありません。 今、大河ドラマや小説は作者が自分の思いを含んだ作品だと 考えております。 三国志と三国志演義のように 一昨年の大河ドラマ「風林火山」で活躍した武田軍の軍師「山本勘助」。 実際、山本勘助なる軍師は存在しない。 勘助という間者(諜報活動)はいた。 やはり今川・武田・北条と転々とした。 最後は、武田軍で信玄の間者として手足となって働いたそうだ。 また、川中島の戦いで勘助が得た情報が武田軍に不利を与えてしまい それを伝える途中、殺されたというのが本筋。 兄(勘助)の死を悲しんだ弟(僧侶)が勘助を武田軍の軍師として 小説書いたのが本当らしい。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>大学の授業で戦国時代は一部の英雄視された著名によって語られた戦国大名が少なくなく 確かに、「軍記物」は、後世に作られたものも多いようです。 私の考えとしては、例えば、 織田信長について言えば、永禄13年(1560)5月19日の「桶狭間の戦い」で今川義元を破った話は余りにも有名ですよね。 しかし、それ以前にも織田信長は数々の戦いを行っています。 「稲生の戦い」 尾張の守護大名斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった織田大和家当主で清洲城主織田信友が実験を握り、分家である織田信秀(信長の父)が死亡すると、家督を信長の弟信行に継がせようとしました。しかし、実際には信長が跡目を継ぎましたが、義父齋藤道三が死亡した折、これを好機として、信行(信勝とも言われた)は弘治2年(1556)8月24日に信長に戦を仕掛けています。信長の勝利で幕切れ。 また、信長が天正10年(1582)6月2日に討たれていますが、その前後の中国地方を見ると、 毛利元就なども「降露坂の戦い」なども戦いを行っています。 「降露坂の戦い」 永禄元年(1558)石見銀山の支配を巡り、毛利元就と吉川元春は小笠原長雄が立て籠もる温湯城を攻撃。小笠原の援軍として尼子晴久も出陣をし、江の川を挟んで対峙。翌永禄2年には温湯城を落城させ、さらに、進攻して山吹城を攻めようとするも、城主本城常光の奇襲攻撃と合流した尼子晴久の軍に毛利元就は大敗をする。 「月山富田城の戦い」 永禄3年(1560)尼子晴久が死去すると、尼子氏は嫡男義久が相続。尼子氏の弱体化を見て取った毛利元就は、永禄5年(1562)出雲侵攻を開始する。この後、色々な経過はありますが、結果的には毛利元就が勝利をして終結。 一方、東北地方に目を向ければ、伊達政宗もいますね。 天正5年(1577)に元服をした正宗は、天正9年(1581)には隣接する戦国大名相馬氏を攻めています。 「小手森城の撫で切り」 小手森城主の戦国大名大内定綱は二本松城主で同じく戦国大名の畠山義継と手を組み、正宗に対抗しようとしたが、天正13年(1585)、正宗は小手森城へ兵を進め、討伐の際は降伏を認めないとして大内家およびその関係者らを全て抹殺し、大内家はこれにより一族郎党が絶えた。 このように、各地で城や支城を構え広い領地を支配していた戦国大名と呼ばれる人たちもいましたが、結局は、信長や豊臣秀吉、徳川家康、上杉景勝など、京を中心に活躍した者たちだけがクローズアップされ、地方の大名の話はあまり知られなかった、また、語られなかったのではないでしょうか。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.1

「大学の授業で戦国時代は一部の英雄視された著名によって語られた戦国大名が少なくなくまた、戦国大名同士が戦った合戦についても江戸以降に作られたといわれました」 先生が言ったのは (1) 「戦国大名の事跡については誇張されている部分がある」 (2) 「戦国時代の合戦については、江戸時代以降に創作されたエピソードが多く本当のことは不明の場合が多い」 ということでしょう。 戦国大名が実際には存在せず、戦国時代の合戦が実際にはなかったということはありません。 ただし (1)の例 「前田利家は、加賀100万石の初代として実像より著しく美化されて語られている。数年前にNHKの大河ドラマの主人公になったほどだが、その生涯において『事跡』は『最高権力者の豊臣秀吉と若いころからの友人であった』『柴田勝家を最高のタイミングで裏切った』程度である」 (2)の例 武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の合戦」について、信用するに足る史料ではほとんど何も分からない。 ただし、上杉謙信の書状により『川中島で激しい合戦があり、上杉謙信自ら戦った』ことは確か。但し上杉謙信が武田信玄の本陣に単騎で突入して信玄と三太刀斬り合ったなどとは検診の手紙には書いていない。 この戦いの後に武田信玄が配下の武士に川中島の土地を恩賞としてあてがう文書を発しており、川中島の合戦の後も川中島周辺は武田領であったと考えられる。 「上杉軍が妻女山に陣取り、山本勘助が武田信玄に『きつつきの戦法』を進言した」 などという詳細な内容の「川中島戦記」は江戸時代にいつの間にか成立したもので、明治時代になって陸軍が戦史として公認したので「史実」であるかのように語られるようになった。 といったことがあるのは事実です。

sp070279
質問者

お礼

良い返事ありがとうございます。とても参考になりました。真実であるのか、作られたのかなどを調べると面白くなってきました。また、不明な点が出てきたらよろしくお願いします。

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