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村上春樹現象は 異常ではないでしょうか?

 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。  けれども かれの小説をもし大事に読むとすれば それは 哲学の観点から言って 異常ではないでしょうか?  ここで哲学の観点というのは 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題とするという意味です。  ○ 村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。  ○ 死の状態で面白可笑しく生きる。死んだようにして さまよいつつ生きる。大いなるもやもやの中に いつも いたい。――といった情況を描いているのみである。  小説を材料とすると 主題が拡散しますから 今年にかれがおこなった例の《〈エルサレム賞〉受賞演説》を例にとります。  ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php  ・・・私の心の壁に刻まれているものなのです。   「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、   私は常に卵側に立つ」ということです。  そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?    この暗喩が何を意味するのでしょうか? いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。    しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。  そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。    私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。  私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちここで  ○ 卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を なぜ 見なくてよいのか。  ○ そうだけれど 変えて行くと言いたいのなら そういう趣旨で 表現しなければいけない。  ○ われわれは 卵であるのだから ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。  より一層妥当性のある評価を問い求めます。ご見解を明らかにしておしえてください。

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noname#96295
noname#96295
回答No.28

うん、ホフマンもそうですが、1830年以降に多く描かれだしたディスコミュニケーションや個の世界、室内の系譜ですね。 人間の生活様式にそれらが生じる以前は、情報網や生産消費形態によってモザイク状に「繋がる」群衆というのはありませんでしたし、 それにともなう特有のコミュニケーションの分裂もなく、 個という人間も捏造されず、室内という意識によって独特に醸される宇宙もないのですね。 この系譜では、ご質問の要点にある「人間を描く」という視点そのものが手段を変えたというところでしょうね。 繋がっており、断絶している群衆の存在、こんにちでは人間一般の存在、というべきでしょうが、 これを書かずには人間を描くことにならないという感性が延べ180年にわたり培われ、 これを自己の問題と受け止める読者の感性も同様に培われたということです。

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん ご回答をありがとうございます。ありがたいですね。かゆいところに手が届く式で 講義を受けることが出来るわけです。みなさんに感謝!!  いろいろしゃれたお応えが出来ないものかと 或る程度考えましたが 今回は ありがたく啓蒙をしていただいたとお受け取りするのみです。  ★ うん、ホフマンもそうですが、1830年以降に多く描かれだしたディスコミュニケーションや個の世界、室内の系譜ですね。  ☆ 思えば 最近【Q:オタクは 他者性を避けているか】を問いましたし いまも【Q:日本人は 死んだのでしょうか】を問うています。  オタクという社会現象もおそらく この新しい――と言ってももう二世紀近くですか――思潮の系譜にあるということでしょうか。あるいは 後者の質問にて もうあからさまに言いますが どうしても理解し得ず応答の仕方について見当がつかない内容の投稿をもらっています。  その以前にも一例あったのですが 一般化してそれは相対主義であるように感じました。(独我論がからむかどうか)。今回は 相対主義につけ加えるところの礼儀と道理の尊重 でしょうか。礼節はできるだけ重んじ実際にそう努める。けれどもひとの思いや考えは いっさい相対性のもとにあるから 世の中のことについて分かったようなことは決して言うな。でしょうか。  ★ 繋がっており、断絶している群衆の存在  ☆ 自由につながり 自由に断絶しているのなら 自由に話し合っていけるとも思えますが うまく行かない部分も出てくるというところでしょうか。  ★ 室内という意識によって独特に醸される宇宙  ☆ が居心地のよいと言う人びとも 類型を成して現われた(?)。  ★ 個という人間〔が〕捏造され  ☆ 自由を自由に使えないと言いますか 自由に使い過ぎているというのでしょうか。  ★ ディスコミュニケーション   ☆ わたしが憶測するには だとすると 話がずれていても 自由につなげることを知っており 話がまともに返って来た場合にも 自由に断絶させるすべを知っている。自由電子は動きまわっているが 相手との間で 結合することもなく分子とはならない。  ★ これを自己の問題と受け止める読者の感性も同様に培われたということです。  ☆ もう出来あがっているのですね。  ふうむ。こちらは浦島太郎状態ですか。  でも いまのわたしをつらぬくしかないでしょうね。つらぬくなら 変わるべきところは変わることができるでしょう。  村上作品に違和感をおぼえるひとが ここで二人いらっしゃったのですから。  ですから  ★ この系譜では、ご質問の要点にある「人間を描く」という視点そのものが手段を変えたというところでしょうね。  ☆ の変わった手段によって 浦島太郎次郎・・・たちと同じ視点同じ中身が描かれ伝えられたと了解し得ればよしということになるでしょうか。(中身は 完全に変わり得ないということでもないでしょうけれど)。  ふうむ。  ★ 1830年以降  ☆ ですか。追い追いすすみます。ありがとうございました。

その他の回答 (27)

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.27

>まともでしょう? 死は死のほうの風が吹くというわけです。生は生の風が吹いているのだから 死はほんとうには関係ないと考えるべきでしょう。哲学としてはです。  本気でそんなふうに思っておられるんですか?「☆☆(村上の死生観)」として切り取られた部分ですけど――作家の意図はともかく、ブラジュロンヌさんは、嘘をついているんじゃないですかねぇ。あるいは、僕の耳が悪いのか。  つまり、こういうことですか。死生観は人間には語り得るものではなく、だからこそ礼儀や節度として弁えるべきものだ。その礼儀や節度ゆえの事だから、哲学としても扱わない。生は生であり、死は死なのだ――と、こんなふう? それとも、お辞儀の仕方が哲学なのだから、あいさつをしない死生観は、哲学では扱わないと?  てっきり僕は、こう思ってました――死生観を礼儀の問題だとする小説に対し、それって本当ですかねと問うのが哲学じゃないのかなと。まさか死生観が、お行儀の問題だとは思わなかった。小さな子が、食事のときに衣類を汚さないように付ける、よだれ掛けのようなものが、つまり哲学だということでしょうか。よだれ掛けでは、確かに死は扱えない。 >マンは残念ながら読んでいません  でしたら、まず僕の思う村上春樹作品の概観を先に書きます。  こう思うのは僕だけかも知れないですが、まず売れる小説って、どこかにモデルがあって、その真似事をしているから売れるような気が僕はするんですね。確かに全くの創造で描かれる作品もあるけれど、そういうのは簡単には売れない。  これは商売人としての勘です。だから、流行を生むような売れる作品は、作家の力量以前に、モデルの持つ力が大いに関係しているのだと思います。つまり、質問文にあるように、個人に帰される現象ではない。流行になるくらいの物語には、古典的とも言えるような型が骨格としてあって、それに時代的な肉付けがされている。こう、思ってます。  システムが――とか言いつつも、その村上春樹さんだって「モデル=型」に従って書いていると思う。もちろん、僕が作品を読む限りにおいては、ですが。そして、型によって物語られてきた主題には、とても従順であるように見える。  短編集には独創的な作品があったけれど、その独創的な物語のひとつを長編化する際、『ノルウェーの森』という題にして、しかもトーマス・マンという型に嵌めたところから、売れる作家、村上春樹の像は、定着したんじゃないのかなと思います。文章に見せる独特のユーモアや日常的なモチーフを好んで選ぶ作風、そういう独自性は最初から特徴としてあったけれど、何作をもを、世に出せるような力量では無かった。  芥川賞を狙った作品は、けっきょく二作品だけだったし、羊のはなしは、個性のある登場人物を中心にした連作です。あの頃の村上春樹さんは、連作を描くというのが唯一の生き残り方だったと思う。当時の評論家たちも、そんなふうに見ていたんじゃないでしょうか。  あるいは、ジョージ・オーウェルとトーマス・マンを並べて評論してみせるのが、ひところの早稲田では流行っていて、(作家の栗本薫さんだとか、割と早い時期に作品にしている)その在学時代の影響があったかもしれない。SFに始まり、ヤオイ系とかゴーストものとか(何で早稲田の連中はああいうのを書きたがるのか知らないけど)、新しいジャンルを開拓して、それぞれのモチーフで人間社会の不条理さっていうか、(ペシミズムなんでしょうけれど)望郷感っていうか「どこか遠く」と表現するような、そういう感情に傾倒する向きがあった。でも、語られるのは死じゃないと思います。   独創的な描画をやっていた頃はちっとも売れずに、型に嵌めたとたんに売れ始める。  書き手はそんな作品が売れれば売れるほど、実は自分が世界から真剣に憎まれているのではないか? そんなふうに思われたのではないかという気がします。だから『ノルウェーの森』が売れて一番ショックだったのは、実は作家本人ではないかと――僕はそんな気がしていて、あの作品で、どうもあの作家は子どもの自分と縁が切れた。  『憂鬱症の解剖』っていう本を書いたデモクリトス・ジュニアっていう初期近代の人物がいますが、彼はラテン語のストーリーに英語の対訳を編みこむという二重物語を初めて作品化しました。ふたつのテクストが複雑に絡み合い、とても解剖なんてできない神秘的な冊子です。このスタイルは、戯曲やオペラに移植され、後々多くの作家が取り入れますが、村上春樹もまたこのスタイルをお得意とするようです。  この型が描き出すのは、善と悪とか、光と影といった二項対立の不条理さです。こういうのを採用しつつ物語を組み立てているとしたら、作品が売れるというのは、不可解な現象というよりも、むしろ当然のことだとは思えてきませんか?  片山さんの作品はあんまりお勧めはしません。前にもどこかで書きましたけど、同じ型で書かれる作品は、概ね例外なく、くり返されるたびにどんどん質が悪くなってゆくように思われるからです。それでも売れるのは、きっと原型が忘れられているからでしょう。  せいぜいが、村上春樹さんで止めておいた方が良い。  むしろ、遡ってトーマス・マンのほうが良い。今度の作品だってきっと、オーウェルを読んだほうがまとも(前のカフカは、カラマーゾフを読んだほうがマシ)だろうと思います。人気があった――と評される19世紀の著名な作家たち(トーマス・マンはノーベル賞を取っていますね)は、多かれ少なかれホフマンらのドイツ・ロマンから影響を受けている。自動人形やドッペルゲンガーというモチーフに傾くのはその名残かもしれないし、その影響はやはり、「売れる」という点ではないかと思います。  読者は、無意識にそういうのを選んでいるんですよ。あんまし、哲学の領域には踏み込まなかったけど、こんな感じを受けました。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしは正直に申して つかみどころがなかったのです。むろん これにかんする ri_rong 理論についても補足要求です。《ろん》の三重押韻!  露悪趣味ではありませんが。カラマーゾフはぱらぱらとめくったことがあります。(映画を見た記憶があります。友人のひとりは こういう土くさいのはきらいだと言っていました。わたしは ともかく深刻な様子だけを覚えています)。  マンは そう言えば ヨセフとその兄弟でしたか 日本語訳で途中まで読んだ記憶がよみがえりました。ただし捉えどころがなかった。オーウェル ホフマンも論じ得ないですし 『憂鬱症の解剖』っていう本を書いたデモクリトス・ジュニア――なんで ジュニアと英語読みなの?――も初耳ですし。まったくのお手上げ。わやです。澄みません。  * けれども あれですね。もしこのように売れ筋の中身を分析するとすれば――ニ番煎じには中身はないと言っているも同然なのですから―― これは 一般読者暗愚論になりますね。  * アレクセイでしたか 少し記憶がよみがえりました。たぶん要するに 聖職者にしろ政治家にしろ理想の人物像を作りあげ 実際にその人間になるかどうかが 主題の一つでしたか? これは わたしに言わせれば アマアガリ症候群ではないでしょうか?――取り止めもなく。  * 早稲田論がありましたが これもピンと来ていません。城島が早稲田ですが そういう話は聞いていません。(最近は ホラーものを書いています)。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。  こうやって文学談義をすることになるとは思っていませんでした。ありうると思っていたはづですが わたしの文学の履歴は――哲学史ないし哲学の研究史についての履歴と同じように乏しく―― 極端に片寄っています。この質問のように 特定のものを対象にして扱う以外に無理だからです。  むろん いつものようにぶっつけ本番でついてまいります。  あっ もう一点は やはり哲学思想と同じように 時代の情況の中に位置づけて――もしくは他の思想家や作家と対照させて――捉えるというのも ほとんどそういう扱い方をして来ていないと白状しておきます。そうすればその種の誤解は防げるのではないかと考えます。横着ですが。  とは言いつつも 今回は正直に申せば  ★ あんまし、哲学の領域には踏み込まなかったけど、  ☆ とおっしゃるのは 韜晦であるとも思えない(失礼!)様子なのですが どうでしょう?  と言いますのも ここに示された売れる作品の特徴分析は――或る範型にもとづく類型的な筋であること これは―― 村上春樹という作家およびその作品にかんする評論(しかも哲学からの)にとって 半分の仕事だと思われるからです。もっと言えば 蝉の抜け殻のほうを取り扱った恰好だからです。  もし――もしですよ―― 蝉本体は どこにもいないと言うのであれば そういうご議論だと受け取ります。どうなんですかねぇ。  ★ この型が描き出すのは、善と悪とか、光と影といった二項対立の不条理さです。  ☆ たぶん村上の場合は これら対立する二項を是が非でも相対化させあたかも第三の立ち場から ものを言っているかにも思えますが そこにおける《不条理さ》にかんしては たぶんそのとおりだと思われます。  ★  書き手はそんな作品が売れれば売れるほど、実は自分が世界から真剣に憎まれているのではないか? そんなふうに思われたのではないかという気がします。  ☆ たとえば漱石は人気が出て やはり喜んだでしょうね。それは 解決――たとえば人が世間と和解するということ――に到らなくても まともに悩み考えたその蝉本体が描かれたからでしょうか。  だとすれば 村上には 蝉も蜻蛉も初めからいなかったということを ri_rong さんは言わず語らずにしかも露骨におっしゃっていると受け取られて来ますが そうなのでしょうか? 要するに 村上作品は まさに哲学としての批評において 無内容であると。  わたしの見方は (1) 一般に超常現象を描くときでさえ 現実感があり(つまり筆の力ですね) 全体として虚構の持つべき現実性を持つかに感じた。(2) 部分的にその現実性は描けているところがある。(3) 結論としては 《生きる》もしくは《他者とのあいだでこの〈生きる〉を話し合う存在としての人間》を 人びとの心に送り届け得なかった。  (4) amaguappa さんのおっしゃるような《全体としてぼんやりとした人格がともかくあって すべてにおいてのらりくらりの綱渡り》であるというよりも 《部分的に現実性がありつつも 全体としては〈いま・ここなるわたし〉》を描き出せず推し出し得なかったのではないか。  死生観については 『ノルウェイの森』のそれとは別に 引き合いに出したものは 次のごとき解釈のもとにあります。  ★ つまり、こういうことですか。死生観は人間には語り得るものではなく、だからこそ礼儀や節度として弁えるべきものだ。その礼儀や節度ゆえの事だから、哲学としても扱わない。生は生であり、死は死なのだ――と、こんなふう?   ☆ 微妙に違っていて まづ(あ) 《生は生であり 死は死である》が来る。(い) 何故なら 死んでしまったらあとでは《和解することが出来ない》ゆえ。(う) だから生ある内は 死はどうでもよい。(え) つまり死や死後あるいは誕生以前のことを考えるのではなく 生きている間にたとえば《和解なり信頼関係なり》のことを知識を尽くし知恵を尽くし心を尽くして思い実現に努める。(お) その意味でそれに必要な限りで《礼儀や節度》の重要性が来る。  (か) ゆえに哲学は 死や誕生以前のことを(つまり転生やゾンビや幽霊のことを)扱わない。(き) 言いかえると いっさい対象としないという大前提に立って――そこであたかもみづからが文学の徒にもなって―― たましいのあそびとしてなら思いをめぐらすこともありうる。  ★ 自動人形やドッペルゲンガーというモチーフに傾く  ☆ ちょっと毛色が違うかも知れませんが 村上は河合隼雄に学んでいます。そのユング観ないし河合深層心理学観について よろしかったら amaguappa さんからもお話をお伺いしてみたいところですね。お時間のゆるす範囲で。

  • ri_rong
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回答No.26

>重層低音などは まだ聞きとれていません。  先の文章は何も意図せずに書いた日記のようなものですから、重みはないですよ。それと、議論の対象に置くには、僕のはあまりに情緒的な回答でしたね。さて、  8-Cの哲学問題は、No.19お礼欄のこの記述がそうなのでしょうね。 =========================== ▲ (演説) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 哲学の問題にも重なりますね。もろに哲学に入っています。そこのところでしょうか あとの問題は。よろしかったら これまでの質疑応答をご覧になって ご見解をお聞かせください。 ===========================  独立せよ、と言っている演説の主旨は、例えば手段として小説を用いる者と、哲学を用いる者とではあまりに共通するところが多過ぎる感じがしますね。  あの作者は、根が哲学屋なのかな。というよりも、その作者に読者が付くという事からすれば、読者が哲学にかぶれているのでしょうか。  ううむ、これだけではちょっとわからないですね。  この際ですから、昔に書いた文章を掲載します(パンドラの函という小題です)。内容としては、どのような小説が(商品としての)市場価値を持つかということを、主観的に書いたものです。問い求めのお役には立つかもしれません。 ===========================   ――(略)それを標題に書いた。ギリシャ神話の有名な逸話だけど、近ごろの作家で言えば、トーマス・マンの『魔の山』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などになる。逆に言えば、この時代から売れるテーマはそんなに変わっていない。もちろん語られるのは、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』のように、(パンドラの)箱そのものに焦点を当てるのではなく、神話の語る箱の中味にテーマを当てる。  マンの作品から引用してみる。   ――私たち人間は、だれも個人としての個人生活をいとなむだけでなく、意識するとしないとにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な普遍的な基礎を、絶対的なもの、自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、善良なハンス・カストルプがそうだったように、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じられることは、大いにありうることであろう。個々の人間にとっては、さまざまな個人的な目標、目的、希望、将来が眼前にあって、そこから飛躍や活動の原動力を汲み取ることもできよう。しかし、まわりの超個人的なもの、つまり、時代そのものが、外見はいかに目まぐるしく動いていても、内部にあらゆる希望と将来を欠いていて、希望も将来もないとほうにくれた内情をひそかに現わし、私たちが意識的にか無意識的にか、とにかくどういう形かで時代に向けている質問――私たちのすべての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙を続けているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。(トーマス・マン『魔の山』)  マンの作品は、サナトリウムに治療に出かける主人公ハンスを、筆者と読者が、高みから見物するような視点で描かれるが、このような箱の不条理さを、村上春樹の『ノルウェーの森』と比べてみる。  ――死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。  村上の作品はこのテーマに従って、主人公の「僕」は、京都の山奥にある治療院へ直子に会いに出かける。この物語は直子の死までを回想する未来の主人公の口から語られるが、物語の構図は、驚くほどマンの作品と酷似している。  そしてラストは、主人公が「ぼくはどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」というふうに結ばれる。この作品が、しばらくの間、発行部数で第一位にあったのはご存知だと思う。それが、2004年に片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれる。今のところ、この作品がレコードを維持している。  抜かれはしたものの、この物語の構成は他とほとんど同じで、どれもが回想をする視点から語られ、トーマス・マンの選んだダヴォス・プラッツは、村上の選んだハンブルクから片山のオーストラリアへと代わり、サナトリウムは鞍馬山に、そして白血病治療へと細かなプロットの違いはあっても、ラストはかならず同じ――ちなみにマンのラストは「世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するのだろうか」――になるテーマが、ずっと読者に支持され続けている点に、書き手はもっと慎重になるべきだと思う。  『世界の中心で、愛をさけぶ』に似たようなテーマ取りで、一時、天使と悪魔を取り扱ったアニメーションが流行ったそうだが、どの作品も共通して、背景にギリシャ神話を背負っており(哲学的テーゼがある)――片山の作品は『恋するソクラテス』というタイトルなのだから当然だが――、パンドラの箱に備わる一回性の掟、開けてしまえばもう元へは戻らないという点を三作が巧みに描いているのも見所だろうと思う。 =============================

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★  8-Cの哲学問題は、No.19お礼欄のこの記述がそうなのでしょうね。  ☆ となりますね。今回は まだその序論ですね。そして《死生観》から入っていますね。  《死生観》については わたしもNo.8補足欄・お礼欄に書いていますので比べてみてください。  マンは残念ながら読んでいません。本(英訳)は買ったのに。  片山の《世界の中心・・・》は じつはわたしの高校の同窓生に作家がいて――城島明彦と言います――読めと勧められて読みました。(かれとは いまほぼ絶交状態です)。  それで《セカ中》は 読んだ結果 最後のところで主人公が新しい恋人と共に以前の亡くなった恋人との思い出の場所を訪れるところに 現実性があると感じましたが あとは 上手にまとめていますが 作文の域を出ないと思いました。アボリジニやその世界観でしたかを持ち出して来て 死生観をかもし出していますが 形式化していると思いました。逆に単純な筋の運びによって読者を勝ち得たのかも知れない。  マンが描きだした情況――社会総体として見たときの 希望つまり形のないものこそが希望という意味でのそれないし愛を求める情況――については どうでしょうか 一般にすべての小説がそういう主題を追究しているとも言えるかも知れませんし この場合はマンに特有の意味があるのかも知れません。――これも今の段階では保留せざるを得ないと考えます。  死生観について 村上の見解とおぼしき文章を取り上げて今回のお応えとします。意外とまともな考えを示しているところです。  ☆☆ (村上の死生観) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《ダンス・ダンス・ダンス》での主人公の述べる考えつまりその生死観は シンライ原則ですらあると思う。  それは 少女ユキの母アメの恋人であるディック・ノースが交通事故で亡くなったあと ユキはかれに生前にひどいことを言ったことがあるのを後悔して そのことを主人公に相談する場面に出て来る。主人公の答えたことは まず つぎのようである。    そういう考えは本当に下らない・・・後悔するくらいなら君ははじめ   からきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平に   なろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかっ   た。だから君には後悔する資格はない。全然ない。    (《ダンス・ダンス・ダンス〈下〉 (講談社文庫)》p.211)  その意味とはこうだという。    ・・・君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔している   と言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノー   スだったら 僕は君にそんな風に後悔なんかしてほしくない。口に出し   て《酷いことをした》なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼   儀の問題であり 節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ。      (同上・承前)  長くなるし 途切れ途切れだしするのだけれど もう一節 その続きを引用しておこう。    僕の言ってることは 大抵の人間にはまず理解されないだろうと思う。   普通の大方の人は僕とはまた違った考えかたをしていると思うから。   でも僕は自分の考え方がいちばん正しいと思ってる。具体的に噛み砕い   て言うとこういうことになる。    人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは   君が考えているより ずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らな   いように人と接するべきなんだ。公平に できることなら誠実に。そう   いう努力をしないで 人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人   間を僕は好まない。個人的に。      (同上 p.213)  これが シンライ原則のはずである。  シンライカンケイへの踏み出しであり つねに自らの出発点(かつ時間過程)としてすでに踏み出しているということであろう。言いかえると これが 生の主題である。生きている今が すべてであって じつは 死は存在していないと言っていて よいのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まともでしょう? 死は死のほうの風が吹くというわけです。生は生の風が吹いているのだから 死はほんとうには関係ないと考えるべきでしょう。哲学としてはです。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.25

>○ これだけ愛読者がいるということは 何を意味するのか。  ☆ こういう問いにも成り得ると思うのです。  こういう書き方が適切かどうかはわかりませんが、「人間の内面と外面とは 総合されうるか(http://okwave.jp/qa5006413.html)」という別な質問から、僕の投稿を引用をなさっている以上、同じ性質の問い語りだなと思って回答をこちらへ投稿します。  それが村上春樹さんの小説に対し、何かの回答になればと思いました。  ファンの方からすれば、何を的外れなというご意見を頂くかと思いますが、羊の話や短編集の幾つかは読んだことがありますし、それなりに面白く、感想としては良い小説じゃないのかな? という印象を持っています。また、先の投稿に書いたご飯と掃除の物語だな――というのが、僕の偽らぬ本心だし、そういう大事なことが表現豊かに書ける作家は、決して多くないように思います。さて、どう書き始めるか、  やはり、カインの言った印象的な言葉「わたしは自分の兄弟の番人なのでしょうか」に従って書いてみます(該当個所は末尾に引用しておきます)。  ここに言う「番人」というのは、いったい何でしょうか。  僕が思う番人は、自己と他者を区別する者です。区別して、その境界線を守る。自己の内においては、「批判」と呼ばれたりもするでしょう。  アベルの居所を「知らない」と言ったカインは、番人としては立派だろうと思います。このような番人を、誰もが心の中に持っていて、番人同士の間には広大な中立地帯が広がって各々の平和が保たれている。ちょうど、海に浮かんだ島々のように、番人たちはそれぞれ自分の家の事には注意を払っても、例えば中立地帯で紛争が起きようが、ゴミが捨てられて汚れようが、交通事故が起ころうが、それこそ何が起こったとしても、決して耳を傾けようとはしない。なぜなら、番人は自己と他者を区別する者であり、自らの仕事に精を出して、自己を他者から切り離し続けるのだから。  アベルはすでに、死んでいるのです。  僕は「創世記」のこの物語を「けん玉」と呼んでいます。  剣と盃で球を受ける、あの遊具のことです。なぜ、けん玉と呼ぶのか。それは世間の人々が「創世記」を上手に翻訳して、意味を汲み取るような真似が、僕にはとてもできなかったからです。むしろ両親が形見に残した「けん玉」のほうが、どうみてもそれに似つかわしく感じた。うまく言えませんが、このうまく言えないところが、後に記述することの主題になるだろうと思います。  僕らは人を殺すとき、まず両目を突いて、光を奪います。  つぎに、身に降りかかる相手の手足を伸ばし、伸びきったところへ自らの全身を絡めて、渾身の力でその関節をへし折ります。このようにして動きを封じ込めたあと、相手の頭蓋を割って決着をつける。細かなプロットは省きますが、おおむね、このようにして――これが伝統的な殺しのプロセスだと僕は思うのですが――相手を殺す。  このプロセス(まだシステムとは呼びません)をじっくり考えてみたとき、どことなく愛と同じように思えました。愛というのは三位一体と同じ、ひと言でいえば商標が登録された人間の発明品でしょう?   相手との立ち位置が常に問題となり、本人たちはじゃれ合っていただけのところが、どういうわけか、ある種の「型」に嵌ったときに機能し始める、それゆえ再現がとても難しい現象のひとつです。魔法のように呪文を唱えるとか、科学のように方法を厳密にするだけでは、まるで失敗してしまうような「困難な再現性」が、理論の持つ予言能力に対して、真っ向から対立している。むしろヤコブ・ベーメのいう「神の自己産出」と同様に、愛は自ら意思を持って立ち昇り、生まれ出るかのようです。もしもそうなのだとしたら、  愛は過程であり、どこにも存在はしないんですよ。    「父」と同じで、愛はどこにもないように、僕は思います。「父」もまた、自らが「子ども」であると宣言したとき、自ずと湧いてくるものだと思うからです。「父(=神)」は「もの」ではなく、「過程」です。  その意味で、神は無限であり、絶対であり、それゆえ過程なのだと思うんですね。  フィヒテの言葉を借りれば、定立することで生じる反立、つまり相矛盾する働きがひとつになって、自分のなかで、この動的な緊張関係を常に生かし続ける――これが、ご質問「人間の内面と外面とは総合されうるか」の「総合」の意味だと思います。  僕らは、父や愛を求めます。子どもである自分を束縛し、管理し、コントロールするそれらを求める。それらが無い世界は、とても不安で暮らしてゆけないし、身を委ねて安心してしまいたくもなる。けれど、保身という安直な定立は、それに反する働きからの逃避であるだけで、生きたものにはならない。  「神の自己産出」というシステムを知り、システムに対して緩い関係を保ちつつも、その存在を認めてあげた者にのみ、システムは約束された微笑を返すのだと思います。  逆に支配を嫌い、逃れ、システムを破壊しようとする者には、そのシステム自体がゼウスのような神力に映るかもしれない。けれど、どう受け止めようとも、自らを「子ども」だと宣言したことから、そのシステムは機能し始めるので、立ち位置を変えて自分が「父親」の名乗りを挙げれば、システムは呆気なく失せてしまいます。いずれにしても、  ――「父」が欲しい。これは、とても正常な人間的反応だと僕は思います。  だから、それが描かれない物語には人間味を感じない。ちっとも人間が描かれないじゃないか――村上春樹の評価は、このような表現にもなるんでしょう。  でも、そんなことはきっと、彼が小説家ならとっくにわかっているはずだと思う。「父」というものは、子どもにしか生み出せない概念であり、そのくせ、子どもほど、自らを「子ども」だとは名乗りたがらないものですから、結果的に何時までたっても本物の父は生まれて来なかったのです。むしろ、  あの作家が関心を持っていることがあるとすれば、自分が何かを語って父になる(あるいは、その無様な真似事をする)のではなく、自分の読者(子どもたち)が、いったい何を話し始めるかということにあるのではないかと思います。  卵や壁なんて、僕のリカちゃんと同じですよ。もしも作者の意図がそこにあるなら、あのスピーチを知った僕たちが話すべきことは、自分がもしもあの作者だったら、そしてエルサレムというあの宿命の土地へ招かれたなら、そして演壇に立たされたなら――いったい自分は、何を語り始めるだろうかということだけです。「卵の側に付く」と宣言することは、湧きあがってくる「父」を、彼もまた待っているのでしょう。それとも、  ブラジュロンヌさんはその場でずばりと、言いますか? 《信仰類型論》を出して。  ――確かにみなさん方の神は違いますし、その違いはちゃんと認めますよ、それでも我々は話し合えるんですと。それが、日本人に必要な哲学なのですと?   たぶん、誰もが微笑んで聞いてくださるでしょう。  でもきっと、その話の行く末は実効性がない――いわば、絵に描いた餅であり、標語として壁に飾ることはできても、生きたものとして総合はされないでしょう。なぜなら、その発言自体が、物語の進行を停止させているからです。  そしてたぶん、「《忠実に読》んだ結果の批評です。言いかえると 今のままの作品だと どこかやりきれない思いを抱くと思うのです。哲学の徒は です。」と仰る理由は、ここにあるのだろうと思います。というのは、理論が宿命的に持ってしまう再現性によって、人々の信じる愛が無邪気に損なわれているんですよ。  だから人々は、書物を捨ててまだ生まれぬ愛を選ぶ。物語を読むことで立ち昇る「何か」に期待感を寄せる。物語なんて、内容は実はどうでもよかったりする気がしませんか。あの作家の描く物語は、一回読んだらポイッと捨ててしまって良い物ばかりです。忘れた頃に、また似たような物語が書店に並ぶでしょう。  ただ、あの作家が偉いと僕が思うのは、物語は主張ではなく、どうやって届くかという、その配達(ラベルの質問を覚えておられるでしょうか)にしか意味がないのを、よく知っているからです。どの作品が届くのかは、発送する側にもわからない。けれど、書き続けていればそのうちひとつくらいは届くだろうし、問題なのは届き方のほうなのです。  「神の自己産出(僕のお師匠さまは流出とおっしゃりますが)」「三位一体」というシステム、父と子、そして聖霊について、これをどのようなかたちで時代へ配達すれば良いか、ラベルはどうするか、受け取り可能なものなのか、あれこれ考え合わせると、あの作家の仕事は、まんざらでもないんじゃないのかなと思います。  彼の作品を哲学の土俵で語るなら、先にも書きましたが、ヤコブ・ベーメと小フィヒテです。そのふたりをなぞって主張した最近の人物で、ルドルフ・シュタイナーがいますが、案外、似たようなところがあるのかもしれないですね(ブラジュロンヌさんにも、シュタイナーに傾倒する、仲の良さそうなご友人がいらっしゃるようですが)。  さて、《信仰類型論》について、僕には批判するような知識はありませんが、  有神だの無神だのと言ってみても、要となるシステムを素通りしているような気がするということと、「絶対」について――すなわち父親から始める理論は、その前提において破綻を約束されている(テレビ漫画やドラマなら良いでしょうけど)と思うんです。  僕にとっての父親は、空を見上げたときに、初めて安堵をくれるものです。そんな父親はたぶん、僕にとって、単なる過程に過ぎないと思いますが。 =============================== (創世記 4:1-3)  3しばらくたってからのこと,カインは地の実りの中から幾らかをエホバへの捧げ物として携えて来た。  4 一方アベルのほうも,自分の羊の群れの初子の中から,その脂ののったところを携えて来た。さて,エホバはアベルとその捧げ物とを好意をもって見ておられたが,  5 カインとその捧げ物とは少しも好意をもってご覧にならなかった。するとカインは非常な怒りに燃え,その顔色は沈んでいった。  6 それに対しエホバはカインにこう言われた。「なぜあなたは怒りに燃えているのか。なぜあなたの顔色は沈んでいるのか。  7 善いことを行なうようになれば,高められるのではないか。しかし,善いことを行なうようにならなければ,罪が入口にうずくまっており,それが慕い求めているのはあなたである。あなたはそれを制するだろうか」。   8 その後カインは自分の兄弟アベルに言った,[「さあ野に行こう」。] そして,ふたりが野にいたときに,カインは自分の兄弟アベルに襲いかかってこれを殺した。  9 後にエホバはカインに言われた,「あなたの兄弟アベルはどこにいるのか」。すると彼は言った,「知りません。わたしは自分の兄弟の番人なのでしょうか」。  10 それに対して[神]は言われた,「あなたは何をしたのか。聴け! あなたの兄弟の血がわたしに向かって地面から叫んでいる。  11 そして今,あなたはのろわれて地面から追われている。それは口を開いてあなたの兄弟の血をあなたの手から受けた。  12 あなたが地面を耕しても,それは自分の力をあなたに返し与えはしないであろう。あなたは地にあってさすらい人,また逃亡者となる」。  13 これに対しカインはエホバに言った,「わたしのとがに対する処罰は大きくて負いきれません。  14 いま,あなたはこの日にわたしを地の表からまさに追い立てておられ,わたしはみ顔から隠されるのです。わたしは地にあってさすらい人また逃亡者とならねばならず,だれでもわたしを見つける者はきっとわたしを殺すでしょう」。  15 それに対しエホバは彼に言われた,「そのゆえに,だれでもカインを殺す者は七倍の復しゅうを受けることになる」。それでエホバはカインのために一つのしるしを設け,彼を見つける者がだれも彼を討つことのないようにされた。  16 こうしてカインはエホバの顔から離れて行き,エデンの東方の“逃亡”の地に住みついた。

bragelonne
質問者

お礼

 (7‐a ) ★ 《・・・「卵の側に付く」と宣言することは、湧きあがってくる「父」を、彼もまた待っているのでしょう》。――これは分かりません。飲みこめません。この場合の《父》は あくまでも観念の神であり父であり それは死んだとニーチェに宣言された偶像だと考えます。もしくは 悪意のない神話の神々のひとりでしょうか。  (7‐ b ) (4)で理論の悪口を言えるとしたなら ここで《小説ないし心理の劇》についても同じ種類の悪口が言えるはづです。  (7‐ c ) 理論はその再現が愛を損ねるのに対して 心理の物語は情感としての愛を示すのみに終わりがちであると。  (7‐d ) 《湧きあがってくる〈父〉》というのが しかるべき神や愛のことであるかと言えば その保証がないという意味です。  (7‐e ) 《「三位一体」というシステム》――三位一体は システムではないでしょう。ローマ教会の中でそういうふうに受け取られているかも知れません。へのかっぱです。  (8) ★ 《ただ、あの作家が偉いと僕が思うのは、物語は主張ではなく、どうやって届くかという、その配達(ラベルの質問を覚えておられるでしょうか)にしか意味がないのを、よく知っているからです》。  (8‐a ) これは (1)の議論に同じですが 《物語――虚構・おとぎ話――》をどう捉えるかで違ってきます。  (8‐b ) つまり哲学の側からどう捉えるかです。どこまでも小説として受け取られるぶんには ここでは扱いません。  (8‐c ) けれども エルサレム演説によって 哲学の場にも出たかに見えます。その問題においては 《ラベル》だけの問題ではなくなります。  重層低音などは まだ聞きとれていません。課題を残しているかも知れないという意味です。そうお断りしつつ。

bragelonne
質問者

補足

  ri_rong さん 面白く読みました。ご回答をありがとうございます。  もう策士とは言いませんが ここで 取って置きのワインのごとく一編の交響曲の登場なのですね。  ただしぎゃくにわたしが交響曲を細切れにしますと 次のようになります。  (1) 言語慣習の中につねにおかれた言語表現としては その表現内容よりも 慣習法の細かい仕様や方式に如何に従ってことばを届けるかが重要である。  (1‐a ) この条件を満たし人びとに受け容れられた者は 意思疎通の王者である。  (1‐b ) 優勝者とその支持者らは そこに成功した言語交通をつうじて その正統性は別として 三位一体の神とのしかるべききづなを結ぶ。  (2) 《信仰類型論》は あくまで公理であることを目指しており その効果は 《人びと互いの異者の受容》の実現にねらいがある。  (2‐a ) 無神と有神を取り上げるというよりは 実際の非思考(=信仰)形態である無神論および有神論を取り上げ それら互いの対等を言っている。  (2‐b ) そのことは (1)における言語慣習そのものに組み込まれているものであり 取りも直さず《社会システム》に訴えている。  (2‐c ) 理論は破綻してもかまいません。効果のほう・結果のほうが 大事です。   (3) ★  《僕にとっての父親は、空を見上げたときに、初めて安堵をくれるものです。そんな父親はたぶん、僕にとって、単なる過程に過ぎないと思いますが》。  (3‐a ) 非思考(=信仰)が 《過程》であることに異論ありません。  (3‐b ) ならばそれと同時に 《父にしろ子にしろ聖霊にしろ》みな まぼろしであると認めなければなりません。つまり文字通り《非思考》です。  (3‐c ) 信仰は 単なる《こころの開けないし伸び》であるに過ぎないと。つまり 無神論と対等であり同等であるのだと。わづかに擬人法をとおして神の物語として表現した方が 分かりやすい。  (4) ★ 《というのは、理論が宿命的に持ってしまう再現性によって、人々の信じる愛が無邪気に損なわれているんですよ》。  (4‐a ) 《理論》は あとづけです。こじつけです。  (4‐b ) 理論を事前に掲げたとしても その理論に即して判断するということは そのつどの時点における意思決定ごとに 主観内面における真実を表わすというだけのことです。  (4‐c ) 理論による《再現》はありません。事前に掲げることでその形式ないし傾向を持ったとしても 理論を持ち出した者つまり《わたし》がいます。つねに控えています。  (4‐d ) もしものごとの《再現》をいうのならば それは 《わたし》が 演出者であり演技者であることにほかなりません。それは 父親とのしかるべききづなを結んでいるゆえ おこなえるわざです。そうでなければ失敗するでしょう。ただしものごとには 《とき》があります。  (4‐e ) 《愛》も むろん過程です。ですから《捉えた》とか《体現した》とか あるいは《損ねた》とかということは ほんとうにはあり得ません。事後に理論的に《捉え得た》とか《損ねてしまった》とか認識することはあるでしょう。これは それぞれの主観です。  (5) ★ 《フィヒテの言葉を借りれば、定立することで生じる反立、つまり相矛盾する働きがひとつになって、自分のなかで、この動的な緊張関係を常に生かし続ける――これが、ご質問「人間の内面と外面とは総合されうるか」の「総合」の意味だと思います》。  (5‐a ) 理論と実践 内面と外面 これらの関係と総合は (4)までの議論において 《動的な緊張関係を常に生かし続ける》ことだと言えると思います。  (5‐b ) この意味でも 理論は 再現の問題とは微妙にでも違います。  (6) カインの位置づけは わたしの中でまだ定まっておらず それと同時に ここで説かれた意義も――《番人・けん玉・すでに死んだアベルとの関係・そして殺しの作法》等――まだつかみ得ておりません。留保します。  (7)春樹の随筆をさらに見つけました。 No.21のamaguappa さんへのお礼の欄に引いたものと同じ資料からです。  ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  歪んだ観察力や傾いた判断力にあわせて存在そのものを歪めたり傾けたりすれば けっこうちゃんとした文章は書けるのだ。  (〈ローマよ ローマ 我々は冬を越す準備をしなくてはならないのだ〉 新潮 1988・2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.24

 こんにちは。数ある回答を、じっくりと読んでしまいました。  なんだか、難しそうですね。ブラジュロンヌさんのスタイルは「ここで哲学の観点というのは 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題とするという意味です」ということなんでしょう? だったら、忠実に読めば良いのにと思うんですよ。  ぱりっとした調教済みのレタスとスモーク・サーモンと剃刀の刃のように薄く切って氷水でさらした玉葱とホースラディッシュ・マスタードを使って――読点をなるたけ入れないように作るのがコツだよとかいいつつ、要するに、楽しくご飯を食べて掃除をする(雪かき仕事でしたっけ?)のがその内容のすべてでしょう?   じゅうぶん哲学じゃないですか。あとは「おまけ」じゃないのかな。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。     ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・だったら、忠実に読めば良いのにと思うんですよ。  ぱりっとした調教済みのレタスと・・・を使って――読点をなるたけ入れないように作るのがコツだよとかいいつつ、要するに、楽しくご飯を食べて掃除をする(雪かき仕事でしたっけ?)のがその内容のすべてでしょう?   じゅうぶん哲学じゃないですか。あとは「おまけ」じゃないのかな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まるで村上春樹張りに煙に巻く文章をものされるのもお得意なんですね。  ○ これだけ愛読者がいるということは 何を意味するのか。  ☆ こういう問いにも成り得ると思うのです。  ☆☆ (『ねじまき鳥クロニクル』評) ~~~~~~~~~~~~  主人公(オカダトオル)の住む家の裏には 路地があって そこに面する一軒の空家の庭に 井戸がある。主人公はここに入り込み底まで降りていって 自らの歴史にかんする主観真実の物語を編集しなおそうとする。  編集しなおそうとして 自らの経験現実を振り返り 反省もしつつ 今後に備える。そのときには 超常現象のごとく 井戸抜けあるいはホテルの一室からの壁抜けが 体験される。そのようなフィクションを交えつつ 主観真実を――経験現実的に―― 編集しなおしていくわけである。  このとき その場所が どうしても井戸でなくてはならないとは限らないであろう。あるいは そうではなく かれの位置する空間が現実の井戸でなくてよいとして しかし 人間に内在するイド(原始的自我?)もしくは無意識(自我や超自我の自己意識を超えたところ)でなくてはならないのだと 反論されれば どうであろうか。  そうであってよいと答える。そのような精神分析の説明であってよいと同時に それだけのことだと答える。どうしても井戸という場所でなければならないとは限らない ということと同じであるから。  人間存在があれば 無意識や潜在意識や リビドーや本能など(つまり イド)のことが 分析上得られる。そしてそれはおそらくそれとして 妥当であると考えられる。これのみである。  主人公の経験現実上の説明真実は その分析上の認識なくしても 成り立つであろうと言う意味である。  そうでなければ あたかも《無意識ないし無意志 への別種の意志》がわれわれを支配するという話になって 《鼠》の挫折や《影》の幽霊物語に後退する。  つまりこのように けちをつけたのは 作品の中に精神分析の占める位置が 相当大きいものとなっていると思われるとすれば その傾向から来る誤解を解くためである。  もし想定上の《風》の議論としてなら こうなる。リビドー(性衝動あるいはそれと支配欲とがからんだ人間という社会的な生物存在のちからと動き)で経験事実が分析して説明づけられることと シンライ関係を求めて自らの存在の全体として主観真実の物語を編みつづけることとは 別であろうと。  一つの分析道具として・そのような脇役としてなら 精神分析も 活用しうる。そのときには 井戸がイドとなっている。そしてその場合にも 井戸=イドじたいが 風の歌そのものにかかわるとは限らない。というよりは 日常性としての《いま・ここ》に立ったからには 風の歌にかかわる経験現実は むしろこの世のすべてなのである。  たとえその中で特に井戸=イドに焦点をあてるとすれば たしかにそのことを志す人と行為とがあってもおかしくはないであろうけれど 話はそれだけに終わらないところがみそである。  なおその上に それらを含めた経験世界全体の中で あたかも自らの存在のねじを巻こうというかのように主観真実の物語を 再形成するいとなみがあるはづなのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《忠実に読》んだ結果の批評です。言いかえると 今のままの作品だと どこかやりきれない思いを抱くと思うのです。哲学の徒は です。  ★ 雪かき仕事  ☆ ?。 雪の積もらないような表現を心がけよということですか?  ★ 玉ねぎ  ☆ は好きで いつも納豆といっしょに食べます。

noname#96295
noname#96295
回答No.23

> とにもかくにも何はともあれ 村上春樹という人物は――つまり或る虚構の中の登場人物であるかのようにして―― ひとをけむに巻くことが得意なようです。次の独り言をどう読むかもむつかしいと思っているのですが どうでしょう? > > ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > とにかくなにはともあれ 僕の観察力や判断力をあてにしないでほしい。 > 僕の文章に出てくる人物や団体や都市や国家や年号や宇宙や歴史や思想や何やかやそんなものは すべて フィクションである。外見的な類似は偶然の一致である。 > 僕は果てし無く続く(あるいは続くように見える)薄灰色の人生のある過程で 《まともな判断力を持つ自分》という像を捨て去ってしまったのだ。まるで壊れた安物の傘を喫茶店の傘立てだか公園のベンチだかにそっと置き去りにするみたいに。 煙に巻くほどの明晰さが内在していれば作家になどなりません(なれません)でしょう。 ほんとうにこのような薄灰色の精神性で生きているのであろうと思います。 そしてなおかつ、置いてきた傘のように、捨てた自分を覚えており振り返るための回路は保持しているというわけでしょう。 クリアーな理解というものから離れる傾向に磨きをかけて作家の道を行き、 ますます遠く離れてきたという感慨を持っているのではないでしょうか。 彼は早稲田でしたか、学生のころ、あるいは十代のころは、答えを求める問題が分野や領域のなかにそれらしく納まっており、 問題の属性attributを足がかりに(人物や団体や都市や国家や年号や宇宙や歴史や思想や)、 そこから切り口や角度を見出せばよかったとしても、 次第に、そうした見えるものごと、判断にかかるものごとが、適当なかりそめのようなものになっていくことで、 創作家として、通底や類縁の世界のほうへ傾倒していった、という感じではないでしょうか。 比較研究の層とアナロジー研究の層があるという場合に、村上春樹は後者のほうに属するわけで、 わたしの考えでは、後者の研究ができる人は、前者の研究が多少できなければならないのですが、 村上春樹がもし金融機関や総研や検察庁や県庁に勤めたなら、たぶん、ふつうに勤まったのではないかと思います。 しかしやっぱりつまらなくて、彼はそういう自分を放棄するのかもしれませんね。 それも、ベンチや傘立てにというのが、いかにもゴミ箱に捨てるのではなくて置いて放棄するという、 取りに戻れそうでもあり人手に渡らないかもしれず廃棄期限が明確でないですから、気分の保証のようなもので 作家自身、先行き不透明なアナロジーの世界を掘りながら、クリアーな理解を遠ざけて 目をなかば以上閉じて綱渡りをしているような気分なのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしは すでに《ねじまき鳥クロニクル・第3部 》において 《風の歌を聴け》からの主人公の 自己到来の旅は 崩壊したと結論づけた。自己還帰あるいは信頼関係の構築 これを放棄し 登場人物の人間関係には破綻が生じたと断定した。(それについての分析・論証をわたしは 怠っている)。  中野が小森の原文から引用したものとして ほかに次があった。   ◆ (中野) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ものごとを 途中であきらめても その曖昧性こそが 或る種の解    決であり それによって癒されるのがよいであろう。――村上作品は    そう語りかけているように捉えられる。(小森)  無力感は 既成事実とそれがなし崩しにつづくという既成事実の前に 自己増殖をおこない 一方で 戦争にむすびつく道を用意するだろう。また もしさらに それでも この無力感をも癒したいということにでもなれば たとえば 禁忌の侵犯を 少なくとも 想像の世界において描く それによって 癒されるという道が用意されているのだと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかに この論理として その村上効果が 世界中に蔓延するかも知れないと言いうる。一度は 言ったほうがよい。  逆に ただ その均衡によって ものごとは 何もなかったように 推移していくかも知れない。そうではないかも知れないけれど もっと気の利いたこと もっともっとしゃれたことを言うことはできないか。  できないかどうかを 話し合うことはできるであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 取り止めのないものになってしまいました。暗中模索です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  煙に巻くほどの明晰さが内在していれば作家になどなりません(なれません)でしょう。  ・・・(字数の関係で中略)・・・  クリアーな理解というものから離れる傾向に磨きをかけて作家の道を行き、 / ますます遠く離れてきたという感慨を持っているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この箇所のご分析内容は 合い過ぎるように まだ感じています。  ○ 村上さん あなたの人生は薄灰色か?

bragelonne
質問者

補足

 面白い。amaguappa さん おもしろいです。でもまだわたしは暗中模索です。  ★ 〔――あっ あらたな舞台へ駆けあがるご回答をありがとうございます。――〕 〔壊れた安物の傘を〕ゴミ箱に捨てるのではなくて〔公園のベンチや喫茶店の傘立てに〕置いて放棄する  ☆ ここが勘どころであるように思いました。  ▲ (村上) 僕は・・・《まともな判断力を持つ自分》という像を捨て去ってしまったのだ。  ☆ のお話です。しかも  ▲ ・・・という像  ☆ とも言っています。  ○ 《まともな判断力》やそれを《持つ自分》は 何も決して 観念やその《像》の問題だけではない。現実の問題である。  ☆ はづです。すなわち 《像を捨てた》というとき では 実際に現実に《まともな判断力》のほうは どうしたか・どうもせずに持ち続けているのか。これに 答えているのでしょうか。当たり前だから言わないのでしょうか。(つまり村上は 自分は常識人だと言おうとしていましょうか)。  言いかえると 《傘立てだかベンチだかにそっと置き去りに》したとすれば それは では ほんとうに《像》のほうだったのか。わざわざ  ★ 取りに戻れそうでもあり人手に渡らないかもしれず廃棄期限が明確でないですから、気分の保証のようなもので  ☆ ある場合のこととして喩えるというのなら 《像》のほうではなくて 常識人であることの判断力のほうかも知れません。しかも  ▲ 壊れた安物の傘  ☆ であるなら 《像》の問題であるように映ります。さらにしかも  ○ ひとにとって雨をしのぐのに必要な傘 つまりけっきょくは判断力  ☆ であるなら 傘は傘であり 《常識人》の問題です。    そもそも  ▲ 僕の文章に出てくる人物や団体や都市や国家や年号や宇宙や歴史や思想や何やかやそんなものは すべて フィクションである。  ☆ と言うことは 必要なことでしょうか? フィクションを書いているのは分かっているのに なぜこのような当たり前のことを言うのでしょう?   天然なのだから 煙に巻かれるほうが間違いということになりましょうか?  ★ 比較研究の層とアナロジー研究の層があるという場合に、村上春樹は後者のほうに属するわけで、・・・  ☆ 〔引用を端折っていますが〕このくだりですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・作家自身、先行き不透明なアナロジーの世界を掘りながら、クリアーな理解を遠ざけて / 目をなかば以上閉じて綱渡りをしているような気分なのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご指摘を受けて 以前に村上への批判を書いた本が出てその紹介文を読んだことを思い出しました。次のようにわたしも覚え書きしています。結論は 《まだ分からない》です。  つまりわたしの主観においては 作品における基本的な人間論の上での欠陥を捉えたと思っていますが あとは今回あらためて気づかせていただいたように 村上春樹という人間についての哲学に帰着するのではないか。この人間論では 《まだ分からない》です。  ☆☆ (村上春樹批判のこと)~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ (中野稔:村上春樹文学に新解釈とのこと) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔《海辺のカフカ》において〕主人公の少年がたとえ夢や想像であっても 《父を殺し 母と姉と交わる》のは 根源的なタブーを犯すことを容認するものだと〔次に引用している小森陽一の文章は〕指摘。  この小説は 《国家の名による殺人の正当化》である戦争に結びつくと〔小森は〕見る。  その上で     〔イラク戦争に反対しても 暴力の連鎖を止められなかった〕欲求    不満=フラストレーションを 記憶の消失と歴史の否認 精神的外傷    (トラウマ)を〈解離〉によってなかったことにして 空虚であるこ    とを〈いたしかたのなかったこと〉として容認する そのような〈癒し〉    効果を 《海辺のカフカ》は世界中にもたらしうる。     (小森陽一:村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する )  と批判する。 (日本経済新聞 読書欄・《活字の海で》2006・06・18) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 虚構作品に 何を書いていけないというのは 原則として ないと言うべきだ。  だから 小説に書いたことで 《根源的なタブーを犯すことを容認するもの》ではないかとか だから《戦争に結びつく》と言っても あまり面白くない。

回答No.22

こんばんは、bragelonneさん。 村上春樹現象は 異常ではないでしょうか? うん。そう思う。 きけば、村上春樹『1Q84』にいたっては 増版につぐ増版で発売1週間で百万部に迫る勢いだとか。周到に販売戦略を練りに練りっとあらかじめ量産体制がひかれてたんじゃないの?と、斜に構えてみたくなる。シンボルはつくられるとかいうじゃない。スゴクなくともまわりがスゴイスゴイと騒げば、どってことなくともスゴイ虚像が立ち現れる。つまんないの。

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  シンボルはつくられるとかいうじゃない。スゴクなくともまわりがスゴイスゴイと騒げば、どってことなくともスゴイ虚像が立ち現れる。つまんないの。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかにそのとおりだと思います。これを 今回は  ★ 販売戦略  ☆ の問題として取り上げてくださいました。たぶん 作品の中身に触れて論じていただくなら なお結構かと思います。読んだことありますか? とは言ってもわたしも  ★ 『1Q84』  ☆ は読まずに取り上げている始末ですけれど。  それにしても 村上春樹という物語の紡ぎ手は かつてないと言うほどの力量を持っていますよ。たとえとして言えば ふつうの一人の小学生の作文の内容を材料として それはそれは面白い小説に仕立て上げる才能があると言っていいのぢゃないでしょうか。  哲学としては そこらへんを中身の議論としてはっきりさせておきたい。こう思っています。

noname#96295
noname#96295
回答No.21

ふと覗きに来てしまいました。 それでふと思ったのですが、 玉子の黄身と白身を掻き混ぜる=殴る・勝つ・克つ (beat)がまかりとおらない というのが、ハードボイルドの主人公の定義であります。 黄身と白身の混ざらないが如く、叩かれ強いか、叩き甲斐がないといった主人公のことです。 村上春樹の主人公「僕」は受け身の待機姿勢ですが、 殴られても殴られても掻き混ぜられない、ふてぶてしいところが感じられます。 非暴力で、口笛吹き吹きし、荷物もあまり持たない生活のようですし、身内がいて弱みということもない描かれ方なので、 自分の殻さえ踏ん張っていればよい固ゆで卵なんじゃないでしょうか。 敵もはっきりしない、いまどきの、ハードボイルド様式かなと思いました。 というわけで、思いつきですが、スタイルの継承と発明を認めてみました。 ご質問のお答えにはなっていないかもしれませんが。。。  

bragelonne
質問者

お礼

 とにもかくにも何はともあれ 村上春樹という人物は――つまり或る虚構の中の登場人物であるかのようにして―― ひとをけむに巻くことが得意なようです。次の独り言をどう読むかもむつかしいと思っているのですが どうでしょう?  ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とにかくなにはともあれ 僕の観察力や判断力をあてにしないでほしい。  僕の文章に出てくる人物や団体や都市や国家や年号や宇宙や歴史や思想や何やかやそんなものは すべて フィクションである。外見的な類似は偶然の一致である。  僕は果てし無く続く(あるいは続くように見える)薄灰色の人生のある過程で 《まともな判断力を持つ自分》という像を捨て去ってしまったのだ。まるで壊れた安物の傘を喫茶店の傘立てだか公園のベンチだかにそっと置き去りにするみたいに。  (村上春樹:〈ローマよ ローマ 我々は冬を越す準備をしなくてはならないのだ〉 新潮 1988・2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 あぁ amaguappa さん ようこそ。お久し振りです。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  非暴力で、口笛吹き吹きし、荷物もあまり持たない生活のようですし、身内がいて弱みということもない描かれ方なので、  自分の殻さえ踏ん張っていればよい固ゆで卵なんじゃないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまいことをおっしゃるので しゃくなので ここは反論です。  ○ 主人公《僕》の《ハードボイルド》のあり方  ☆ をめぐってです。わたしの覚え書きです。やはり《生卵》であるかも知れないという見方です。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 『羊をめぐる冒険』に 右翼の大物の秘書を勤める黒服の男と 主人公がわたりあうところがある。  2. 《僕》はある種の気概のようなものでしかないとしても 自らの生存を危機にさらしてでも やはり《風》にかかわる生命原則(それとしての人格存在)を守り抜こうとする。人格の意志(その自由選択)にかかわることである。  3. 勿論その黒服の秘書とかれの担う勢力に対して 弱い立ち場にあり これに甘んじることになるわけだが この弱さは非現実の志にかかわっていて たとえば親友の《鼠》の弱さとは 微妙に違っている。鼠の場合はむしろ 初めに主人公と同じく社会的な(または社会力学的な)弱い立ち場にあって これをむしろ利用しつつ 自ら強い勢力に立ち向かっていこうとする。そのような志としての強さまたは弱さなのである。生命原則をあたかも超えて 風に自らの力で同化してさえ行こうとする一つの自由選択となっている。  4. すなわちここで逆に主人公は 一個人として シンライカンケイ論を実行しようとしているように思われる。シンライ原則が かれの内に 起き上がっていると思われる。この場で――黒服を相手にして――信頼関係が成り立たないとしても それは 相手の側の問題なのである。どういうことか。  5. 黒服の秘書の側に そうとすれば 物理的な力によって相手の人格(自由意志)を踏みにじる用意があるとすれば 問題はそこにある。それに尽きる。従って主人公の側に かれ個人として 風の出発点に立とうとする動きが すでに見られるというべきであろう。どういうことか。  6. 秘書のほうは 自らの勢力の支配体制を貫こうとする大きな志(?)のもとに――あくまで そのもとにだが―― この主人公と交渉するとき 人間であるかれ(主人公)のすべてのことを考慮し 人格にさえ配慮する。  7. 言いかえると そのような秘書のほうの振る舞い(もしくはその行為形式)から逆に照射されるかたちで 主人公の思想のありかが(または あり方が) 引き出されて来る。ここで主人公はまさしくシンライ関係を問い始めているのであり そこでまづは一個人としてのシンライ原則が 浮き彫りにされる恰好である。  8. いわば育ちがよく まだこのシンライの確立の可能性を内に秘めていた ただしその実現は難しかったという情況かと思われる。主人公のそういう現在のすがただということである。  9. この二人のやり取りは ひじょうによく手堅く描き出されたと思われる。関連する部分を数ページにわたって引用しなければならないとすれば この簡単な指摘にとどめなければならない。  10. 主人公のここで持ち合わせている思想は 生命原則とそれを尊ぶという意味でのシンライ原則なのであるが 通俗的にいえばそれが徳となって 黒服をある程度 感化したということなのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと 《固ゆでたまご》になっていくということかも知れませんし あるいはこの《なまたまご》説じたいが間違っているということかも知れません。《非現実の志》ゆえに 生まれつき《卵が ゆでてある》のかも知れません。  ★ 玉子の黄身と白身を掻き混ぜる=殴る・勝つ・克つ (beat)がまかりとおらない / というのが、ハードボイルドの主人公の定義であります。  ☆ この定義は知らなかったのですが 要するに 《暴力を振るわない》という意味でしょうか?

noname#155689
noname#155689
回答No.20

あっ、困ったなぁ、仕事中なのに とっても面白いお返事を頂いてしまいました。 深く自分に問うと困難にはまるので軽く書きます。 > あの作家の読者らは、この神話の繰り返しに物語を通じて気付き、 > その不条理さにうんざりし これは自分も同類だと思います。 父権制以外に何かないのか?と、これは15歳の頃から思っています。 > 躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品 私的に言えば「草食男子」の時代の作品です。 私は、草食男子のはしりである自覚が少しあります。 村上作品の初体験は「ノルウェイの森」で社会人になりたての頃でした。 読後感が不快で、以後、あまり村上春樹は真剣に読んでいないのですが いま思うと、同族嫌悪のようなものなのかも知れない。 > 愛が無いんですよ。 愛の在り方というのはそれしかないのだろうか?なんて 吹っ切れなさは自分の中にも正直あります。 だから、村上春樹に答を期待しているのかも知れない。 でも、多分、村上は僕=男を主人公に常におき その僕(男)を守ろうとする限り、答は出せないように直感します。 僕はいつも「都合の良い女」に助けらるのですが そうじゃくて「良い女に都合よく使われてボロボロになることに 使命を見出す僕」の物語でも書けば > 村上は予定調和で終わるのを嫌っていて  予定調和なんか恐れなくて済むのに、と思います。 コミットメントの価値観が、借りてきたようで古臭い。

bragelonne
質問者

お礼

 CUE009 さん この場をお借りします。(20日・土曜日)  amaguappa さんの提起された視点について考えたことを述べさせてください。  ひとつは 村上が ここまで作家として――独自の歩き方において――成功してきたわけですから その現実が言わば支えとなっているように思われること。つまりどういうことかと言えば その限りででも 作中の主人公の生き方に現実味が与えられ得ると見られます。ともかく  ◆ (No.21) 殴られても殴られても掻き混ぜられない、ふてぶてしいところ  ☆ をもって 数々の冒険を切りぬけて来たとすれば それも 現実の人間像だと見なさなければならなくなるかに思われることが ひとつです。  もう一つに 少し別の観点ですが 村上は 上の第一点を〔預言のごとくにでも〕基礎として 主人公の生き方を 虚構の中で自由に如何ようにも自由に作り上げたのではないか。  それは 生きるために――そして より少なく積極的には生きながらえるために――いちど人の普通には考えない形式をあてはめてみる。主人公には その意志の在り処や在り方を 人には見えなくさせた。時には 意志そのものを無くさせた。この場合かの場合 これこれと考えあれそれと行動するといういわゆる常識を ことごとく裏切るかたちで 振る舞うようにさせる。そう描く。  ◆ (No.21) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  村上春樹の主人公「僕」は受け身の待機姿勢ですが、  殴られても殴られても掻き混ぜられない、ふてぶてしいところが感じられます。  非暴力で、口笛吹き吹きし、荷物もあまり持たない生活のようですし、身内がいて弱みということもない描かれ方なので、  自分の殻さえ踏ん張っていればよい固ゆで卵なんじゃないでしょうか。  敵もはっきりしない、いまどきの、ハードボイルド様式かなと思いました。  というわけで、思いつきですが、スタイルの継承と発明を認めてみました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上 まだ生煮えにて。

bragelonne
質問者

補足

 CUE009 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  全体として 前回にお応えした以上には反応が出ず 感受性がにぶいとみづから感じています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > 躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品  私的に言えば「草食男子」の時代の作品です。  私は、草食男子のはしりである自覚が少しあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 逆に考えてみると 《殺し合い》を――政治ないし外交の延長として――やっていた頃には 殺しというものについてよく分かっていなかったのかも知れない。現在起きている戦争の場面を見ても その戦士たちは 殺すということをほんとうに知っていて おこなっているのかと思ったりします。  つまり 《草食系》のほうがむしろ殺しというものを嫌というほど知っているのかも知れない。  いやぁ 戦後すぐの生まれのわたしでも 原子爆弾のことを聞いたら 考えこんでしまいましたから。もう確かに戦争は旧いと思いましたよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > 愛が無いんですよ。  愛の在り方というのはそれしかないのだろうか?なんて  吹っ切れなさは自分の中にも正直あります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合 吹っ切れているとは思って来ましたが はてさて それは 何を根拠にしてそう思って来たのでしょう? 《抵抗はする》と決めていたからでしょうか。泣き寝入りはしないのは 当然だと思う人間が多かったからでしょうか。  ★ 愛の在り方というのはそれしかないのだろうか?  ★ 父権制以外に何かないのか?と、これは15歳の頃から思っています。  ここで  ○ 愛――いわゆる愛―― あるいは 父権制  ☆ これについては そのままでは日本人に合わないところがあるとも まだわたしは思っています。西欧の考え方ではないのかと。ただし でも結局は  ○ 相手の思いを汲む / 思いやり(ごめんなさいと謝ったなら 赦し合う) あるいは 《和を以って貴しと為す》体制  ☆ が同じような慣習でありエートスだとも考えます。そうして   ○ 《わたしがわたしである》という基礎( base =歩み)  ☆ が両方に共通の基礎になると考えています。  村上は物語の筋において  ★ コミットメントの価値観が、借りてきたようで古臭い。  ☆ そう言えばそのようですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、多分、村上は僕=男を主人公に常におき  その僕(男)を守ろうとする限り、答は出せないように直感します。  僕はいつも「都合の良い女」に助けられるのですが  そうじゃくて「良い女に都合よく使われてボロボロになることに 使命を見出す僕」の物語でも書けば    > 村上は予定調和で終わるのを嫌っていて   予定調和なんか恐れなくて済むのに、と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そう考えると 主人公は やはりかれ自身ないしその《わたし》にもとづく想像力の産物なのでしょうか?  外国生活も経験豊かになっただろうから 外国人を登場させるとか――つまりその考え方を登場させるとか―― いろんな未知の領域があるように思うのですが どうでしょう?  なかなか頭が回りません。  夕方は 自転車で散歩するのがたのしみです。遅くなりました。

  • JOY-STICK
  • ベストアンサー率44% (108/241)
回答No.19

こんにちは。 ご質問の内容ですが、私は異常だとは思いません。 ベストセラーや、ワールドレコード、ゴールドディスクなどというものは 得てしてこのようにブームとなるから達成されるのではないかと思います。 ましてや村上春樹はノーベル文学賞も噂されていますからね。 特段おかしいとは感じません。 文壇や出版社から見ればありがたい事ではないでしょうか。 また読む人々の期待の表れだとも感じられます。 個人的に文学に哲学を求めるのはどうか、と思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 JOY-STICK さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ作品の中身にかんして  ★ 文学に哲学を求めるのはどうか、と思いますが。  ☆ となれば 半分は 解決します。あとは  ○ 社会現象として見るとき 村上春樹現象は 異常ではないか。  ☆ ですが これも  ★ 1. ベストセラー作品の系譜にある新作であること。    2. ノーベル文学賞のうわさがあること。    3. 文壇や出版社の期待と思惑の問題。    4. そして 読者の期待。  ☆ にもとづき しごくもっともな現象であるというところでしょうか。  そうですね。これで済めば 問題はまったくないですね。    あっ。では エルサレム演説のほうは どうでしょう?  ★ 文学に哲学を求めるのはどうか、と思いますが。  ☆ つまり この演説には 哲学の観点からすると 意味がないということですね? なるほど これで全体がすっきり割り切れたようです。  ううーん。あとは どうでしょう? その現象の余波が 一般の人びとにかからなければよいのですが?  ただ  ▲ (演説) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 哲学の問題にも重なりますね。もろに哲学に入っています。そこのところでしょうか あとの問題は。よろしかったら これまでの質疑応答をご覧になって ご見解をお聞かせください。

noname#155689
noname#155689
回答No.18

>> 村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは >> このような感性を共感させることなのかなと思いました。 > のごとくに 抒情的文学現象が伝染するなら > ちょっと待てよとなるのでしょうね。当たり前ですからね。 当り前を言いたかったのではなくて 「このような感性」というのは「閉じている心」を指したかったのです。 私にはほとんど共感をくれない村上春樹ですが 閉じている状態に入り込む力はあるのかな?と思ったということです。 bragelonneさんの表現をお借りすれば > その人のそばにいる。とにかくそばにいてやる。 ということが出来ているということで それそれは評価されてイイだろうと思います。 一方で、私も > 甘やかしすぎだという見解です。 同じ懸念を持ちます。 閉じた心に入ることは出来ても、開くことは出来てないんじゃないか? このままでは、村上春樹は「甘えん坊製造機」です。 No.16さんの回答を読んでいて思ったのですが > それ以降はなんというのかレコードの針が飛んで > 同じ旋律がくるくる回っている感じです。 村上春樹自身がそこで逡巡してるのかも知れませんね。 エルサレムのスピーチを 村上春樹の願望を述べたモノだとしたら つまり「やりたいけど出来ていないこと」を述べたのだとしたら 何となく分かります。 スピーチでは「私が小説を書く目的は」と・・・一応「目的」と言っていますが 私には「やっていること(成果)」であるような物言いに感じます。 その辺りの表現がどうも不誠実ではないか? だから、彼の小説を読むと「隠し事」をされているような 嫌な気分になるのだと思います。 昨年末の派遣社員の問題では 派遣社員を「自己責任だ」と叱咤するような人たちが 世間の反感を買っていたように思います。 村上春樹のエルサレムのスピーチは、この反感とシンクロして 盛り上がっていたように感じていました。 自分が村上春樹に期待するのは ・家や共同体も卵を守る力がない ・社会や国家も卵を守る力がない 私たちは壁(という得体の分かりにくい脅威)に剥き出しで晒されているときに どういう対抗策を提示してくれるのか、だと思います。 > 村上春樹は家族らを介して声をかけるというかたちになるのではないか それは彼の目指すところではないように思うのです。 今はそれしか出来てないけど。 ねじまき鳥を読んだときは、私もかつてない程にガッカリしました。 何だかんだで期待はしているのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 次のような見方・書き方もありうると思うのですが どうでしょう?   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間じたいのではなく あくまで人間存在を超えてなのだが しかも人間関係としては その関係のあいだを吹きゆくかに思われる開かれた経験現実としての風。  この風は 人間の言葉による仮りの表現として示せば ここでは 志である。あるいはほんとうに志としてなら 一個人としての問題であるよりは やはり信頼関係のことであるだろう。社会全体にまでは広がらなくても そういう人間どうしの交通の問題であるにほかならない。  それが完全に実現することは非現実であっても それとして想定することがありえて 単なる記号としてすらの形ででも その言葉を用い 用いた文章表現を通して われわれは 互いに意思疎通をおこなう。  作品では 志は消えており 信頼だの愛だのと言えば 白けるほどだけれど ぎゃくに初めからそれが 単なる歴史事実やその認識に還元されるなどということはないと前提しておくならば その時には たとえば物語の中に 言葉の掛け値を超えて シンライカンケイが 語られうるのかもしれない。伝えられうるのかも知れない。  これは もしそうだとすれば その限りで全体として――そのような想定つまりははっきり言って空想を含んだ全体として―― 人間にとっての経験現実であると言わざるを得ず 物語作品は 広く表現をとおしての開かれた・厚みを増した経験現実の一環だということになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようなうそをつき ほらを吹いて欲しい。  そこで初めて 自立と助けあいの両面を基礎とした人間の自由が ものを言うようになってくると思う。ばななの《引導を渡す》――《父親殺し》?――ということさえ包みうる深みを帯びてくるかも知れない。つまり その必要がなくなっているという次元に駆け上がれるかも知れない。  それは 共同の幻想か それとも 共同の主観であるか。《ほらを吹く / 大風呂敷を広げる》という意志がある限りで そのまぼろしを設定するという主観がある。

bragelonne
質問者

補足

 CUE009 さん ご回答をありがとうございます。  わたしは CUE009 さんに対するときには――言い訳ですが―― どうも気がゆるむようです。繊細な目のつけどころに わたしは気がつきませんでした。  ★ 「このような感性」というのは「閉じている心」を指したかったのです。  ☆ 《閉塞性》というのは よしもとばななを読んだとき 嫌というほど感じました。それを扱っているなとよく分かるように書いています。  社会性と言いますか 社会科学的な見地と言いますか それはないのですが 人と人との交通に関しては かなり現実性をかもし出しています。壁と卵というより 壁に対してなら蟻か蚯蚓のような人たちの閉塞情況です。  寄り添いつつ――添い寝をしつつ――作者は 引導を渡します。(読み過ぎと言われるのを覚悟しての分析です)。  村上氏は 望みが抱けるような抱けないような 解決があるような無いような よほど気が長いというべきか 辛抱強いとするべきか。ただし どうも正解は無いというのが正解だと どこかの時点であきらめきったのではないでしょうか。  ★ 派遣村の時事問題とのシンクロ  ☆ そこで《〈卵〉の立ち場》が社会的な声として唱えられたのなら  ▲ 「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。  ☆ というかれの信念は 賛同を得ています。  ★ ・家や共同体も卵を守る力がない    ・社会や国家も卵を守る力がない  ☆ これの確認ですね。言いかえると 出発点であるのでしょう。その上で  ★ 閉じた心に入ることは出来ても、開くことは出来てないんじゃないか?  / このままでは、村上春樹は「甘えん坊製造機」です。  ☆ の問題です。わたしたちのこの三月からの友だちで超優秀な男ですが ちょうど昨日次のような評言をくれました。  ◆ ( ri_rong さん)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q:人間の内面と外面とは 総合されうるか】No.6  ・・・自分こそが、そのシステムを管理し、コントロールするという者・・・の立ち位置を選ぶ者を〔神に見立てて〕「父親」と呼ぶとき、  この世界は、紛れもなく父権制のシステムによって動かされていると呼べる。    この「父」という壁について歴史を振り返ってみると、それを誰が支えているかという事ではなく、父殺しという名のもとに、その壁をどこの子どもが壊し、その子どもは如何にして父となったかが、常に語られていた。オイディプス王の昔から、父はいつも殺され続けてきたし、その父を殺してヒエラルキーの頂点に立った子どもは、自らこそが父だと宣言してきたのではないかと思います。  おそらく、あの作家の読者らは、この神話の繰り返しに物語を通じて気付き、その不条理さにうんざりし、けれども自分は子どもだという名乗りすら――その名乗りが父を生むのだから――挙げられず、したがって、目の前に聳える壁が、いったい何か――せいぜいが、金属バットで殴り殺せる程度のものか――すら、よく見えてはいないのだと思う。   躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品なんだろうと、僕は思います。別な書き方をすれば、愛が無いんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 時に過激なまでに刺激的な発言のようです。  どうも村上は吹っ切れていないように感じます。  ★ 何だかんだで期待はしているのですね。  ☆ たしかにせっかくのノーベル賞候補だというのなら もし今からでも遅くないとすれば 尻に火でもつけてやりましょうか。  前回の参照ブログに書かれていたのですが 村上は 予定調和で終わるのを嫌っていて 何とも読み取りがたいデタラメな筋の運び方(終わり方)をするというのですが どうなんですかねぇ。

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