解決済みの質問
前々から疑問だったのですが…
クラシックの世界では、「作品」が独立して存在し、それを演奏家と呼ばれる人が使いまわしで再現演奏するという、一種の共有財産化で成り立っています。
しかし、ポピュラーの世界では、原則的に、それを歌う人(歌手)が独占的にある作品を歌うことになっていて、作品の共有化がされません。
こういうことがなぜ起こっているのでしょうか?
私は、ポピュラーの歌手とかグループよりも、作品と言うものに興味があって、これはすごくいい曲だと思った作品は、別に誰が歌おうとかまわないと思います。その曲そのものがすばらしいと思うからです。
しかし、世の中大半の人がそう思ったら、クラシックの世界みたいに「曲」優先の世界になると思うのですが、そうならない、曲よりも、それを歌っている人のほうに興味共感の方向性が行っているということだと思います。
「○○(歌手)の曲」なんていう言い方も、どうも違和感があって、「○○が歌っている曲」と言わないとおかしいと思う。そして、クラシックみたいに「ベートベンの○○」と言う曲と言う具合に、「(ポピュラー作曲家)○○の曲」という認知にしてもらわないと私の要求に合いませんでした。本当に興味ある作曲家の気に入った作品なら歌い手など誰でもいいですから。カラオケでは作曲家作詞家区分でリストにしてもらわないと困る。
そんな風に思ってしまうのですが、こういう感覚はおかしいでしょうか。
投稿日時 - 2009-06-10 17:02:43
全くおかしくはないと思いますし、#2の方の考え方もまたおかしくはありません。ただどちらも音楽に対してある考えを持っている、音楽に詳しい、自身も演奏する、そのような方の意見です。ごく一般の人にとっては音楽がどのように見せられるかで決まってしまうのだと思います。
著作権の問題もあるでしょうが、一般の人にとって大衆音楽は歌手が歌う形で提供されます。非常に分かりやすく「だれだれの曲」と刷り込まれます。曲に歌手の顔と声と姿などが付いてくるのです。
一方クラシックはと言えば、オーケストラによる違いが分かる人は少ないでしょう(クラシック愛好家はたくさんいる、という突っ込みはナシです。ここではテレビなどメディアからほぼ受身的に音楽を聴き「あ、これいいな」と思うような一般大衆のことを言っています)。
「一般大衆」に「もっと“曲”を聞きましょうよ」と啓蒙するわけにはいかないので、常に「○○さんの曲」という形で世の中を回ることになります。「××サウンド」という言い方をされて有名になるプロデューサー兼作曲家やメディアに頻繁に顔を出す作曲家も中にはいますが、それでもまだ曲と作曲者は一般大衆の中では結びついていないのです。
投稿日時 - 2009-06-11 11:09:22
お礼
音楽に深く入れ込んでいない大多数の人にとっては、曲の雰囲気と言うのを最も気にするのかもしれませんね。小説を読むより、ドラマを観てわかったような気になるようなものかもしれません。音楽は顕在的にはショーであるというのが一般論なのかもしれませんね。
投稿日時 - 2009-06-18 17:01:03
3人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています
ベストアンサー以外の回答(5件中 1~5件目)
何故なら、
作曲する側は、その人の声と、その人自身をタネに、創造して、
曲を書くケースが圧倒的に多いからじゃないかな。
シンガーソングライターなら、自分自身をタネに創造して書いて、
自分で歌う。
歌手は楽器で、
場所は日本で、今その時代の日本の大衆文化と、
その時代を生きているその現時点での歌手、
その声、その人自身。
そして欧州や米の文化と音楽を影響を受けつつ。
例えば、小室の曲を聴いて、目を閉じれば、
あの時代のあの歌手が、想いだせる。
そしてその時、中学生だった自分を。
クラシックより、ある特定の人間個人にクリエティブな依存をしているからじゃ無いかなと。
投稿日時 - 2009-06-17 00:33:40
お礼
ご回答ありがとうございます。
演奏家、歌い手にその曲の価値をほどんど委託しているという状況はありますね。そういうのが一般的感覚だと言う気もします。
投稿日時 - 2009-06-18 17:04:47
ポピュラーソングと言う分類は自分では嫌いです。大体、歌う人宛に作られる場合が殆どだと思います。それの典型が”演歌/歌謡曲”ですね。但し、その歌う人が亡くなられた後、別の人がなつかしのメロディーなどで歌うのを聴くとあまりピント来ませんね。それは、元の歌手あてにだけ作られたものだからでしょうね。
勿論、べートーヴェンでもバッハでも全く演奏する人を考えずに。純粋にその曲を作曲したとは思いません。ヴァイオリンの曲なら、自分の親しいヴァイオリニストに演奏してもらいたくて作曲したと言う話は結構数あることだと思います。その他、バッハなどは自分で演奏したり、教えている人のために作曲した曲があると聞いております。
何万とある過去の曲の内、幾つかは、色々な人に繰り返し演奏され生き残ってきたのです。ですから、それだけに、作曲者のナまでが曲と一緒に生き残ったのではないかな と思います。
所謂、ポピュラーでも、ガーシュイン、レクオーナ、ペレス プラド、など名前と曲も一緒に世間でポピュラーになっている作曲家も数おります。
要するに、将来まで残るようなものなのか否かによって、作曲者名と曲名が揃って残り、誰でも演奏する曲になるのではないでしょうか。
投稿日時 - 2009-06-13 11:38:57
お礼
ご回答ありがとうございます。
本当のポピュラースタンダードの地位を確立できる曲かどうかというのが、共有化の条件だと言う感じもしますね。そうすると、クラシックの名曲などと言うのはまさにその典型なのかもしれません。
投稿日時 - 2009-06-18 17:03:33
全くおかしい考え方だとは思いません。
音楽に対する価値観は人それぞれですから。
ただ、私の考えとは違うので、参考までに私が考えている事を書いておきます。
私は、たとえクラシックの曲であっても、誰が演奏するかによってその曲の聞こえ方が全く違ってくると思っています。
だから、私は演奏家を選びます。
例えば個人的には、(私はサックス吹きなので)須川展也さんよりも、新井靖志さんの吹き方、音の方が好きなので、そちらを選んだりします。
こういう考えをしている人は決して私だけではなく、他にもたくさんいると思います。
なので、クラシックの世界が必ずしも「曲」優先であるとは言い難いと思います。
ポップスの世界でも同じことが言えると思います。
例えば私は東京事変というバンドが好きです。
彼ら自身の曲も好きですし、音も好きですし、ボーカルの椎名林檎さんの歌い方も好きです。
これらを総合して「好き」という感情が生まれるので、
たとえ東京事変の私の大好きな曲を、私にとってどうでもいい歌手が歌ったら、どうでも良いどころか嫌気がさすと思います。
全て私を例にして書きましたが、「こういう人もいるんだな」程度で受け止めて下さると有難いです。
私も、貴方の質問を見て非常に興味がわきましたので。
ちなみに、作品の共有化がなされていない理由は、No.1様が仰っている事に関わってくると思いますよ。
ご参考まで。
投稿日時 - 2009-06-11 09:20:55
お礼
ご回答ありがとうございます。
演奏家にこだわると言うのは多数的感覚としてあるようですね。私も、このごてごてした表現はいやだなーと言う演奏家がいます。そういう間隔が一般に広く浸透しているようですね。
投稿日時 - 2009-06-18 16:58:47