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全知全能問題、再び・・・

stomachmanの回答

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  • stomachman
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回答No.7

おやおや、書き込みしようとしたら、既に正解が出ちゃいましたか。 だとすれば蛇足もいいとこですが....stomachmanです。  宇宙は数千年前に創造されたと主張する創造論者への反論として、化石や地層など、地質学的歴史の証拠を示した場合に返ってくる答えはこうです:「神はそれも含めて創造された。」  この論法には反論が不可能です。「神は全宇宙を破壊してから、今から10分前に(全ての痕跡や記憶も含めて)再度創造された」と言っても同じ事。つまり創造論の神は、(mori0309さん<)過去だって変えうるのです。このような神の存在を前提にすれば、未来もまた全て神の手の内にあるという予定論・運命論しかありえず、イスラム教ではこのことが明確に意識されています。  キリスト教神学やスコラ哲学の議論は、全知全能の神の存在を前提として、至る所に噴出する論理的矛盾をなんとか経験や歴史と適合させようとする真摯な取り組みであったと思いますし、そこで出てきた、神を探すな、神を試すな、神の訪ないは予期しない恩寵である、という規範は注目すべきポイントです。言い換えれば、「どんななぞなぞを持っていても、実際に神になぞなぞを問いどう答えるか試すまでは、モグラが独り言を言って自己満足しているのと変わりがない」という弁証法的観点です。たとえ神の住所を知っていて、門前払いされず、肝心の時に首尾良く質問を思い出せ、答を得て、なおかつ無事に生還できたとしても、あっさり納得させられてしまっているかも知れませんよ。(どうやって、ですって?この程度のテストにパスできないようじゃ、OWL教の教祖様にすらなれませんてば。)  さて、全知と全能を対立させて矛盾を導く論法について検討されていらっしゃいますが、(全能は全知を含意するんじゃありませんか?)全能であるだけで全知全能者は矛盾を容認しうることは明らかです。その能力のほんの一部である「証明能力」だけを検討しても、「1+1=2と1+1≠2を証明してください」という注文に(その気になれば)易々と応じることができる。一般に「Aである」と「Aでない」を共に認める論理体系では、どんな命題でも証明可能になりますし、逆に、どんな命題でも証明可能なら「Aである」も「Aでない」も証明できるので矛盾を含みます。これが「矛盾が怖くては全知全能などやってられない」ゆえんです。  ならば矛盾だらけか、と言いますと、「Aである」だけ証明して「Aでない」の証明は着手しないということもでき、明日は逆のことをやっても良い。(首尾一貫して誠実でなくてはならないなんて条件はありましたっけ?)こうなると静的な論理の枠外の話であり、(上記のモグラ、あるいは前のスレッドで持ち上げられない石の話としてaminouchiさんからご指摘のあった)弁証法の出番です。さらに全能者は「どんな命題でも証明可能で、しかも無矛盾な論理体系を教えてください」(ここでようやく超数学の話になります)という一層無理な注文でもあっさりこなすことが可能である。  また別の言い方をすると:「『全能者は何でも可能である。』だからもし『全能者にはXXは不可能である』を証明できたとすれば矛盾であり、従って『証明に使った論理が誤りであるか、全能者にはXXは可能である』を示す。ゆえに『証明に使った論理が誤り』である。」  ところがこの背理法は超論理(XXの不可能を論じた証明(『』内)を記述する論理ではなく、ここで「証明できたとすれば....」という(「」内の)レベルを論じるのに使った論理)の無矛盾性を前提としており、しかしこれもまた全能者の前では無力です。かくしてヒトが行う机上の推論というものは全く無意味になってしまいます。(脱線:だからこそ、「スコラ哲学は不毛だ。むしろ自然を観察して、その中に実際に見いだされる創造の見事さをこそ賛美すべきだ」という「自然科学」が、神学に於いて重要性を持ってきます。)  論理はヒトの弁論・推論を、安全な部分だけ取り出して形式化したものに過ぎません。(脱線:この出自はギリシャ時代の論理学の成立以来、意識され続けています。そういえば確かラブレーのガルガンチュワ物語かパンタグリュエル物語だったと思うんですが、一階述語論理における三段論法の完全な分類を並べ立てた挙げ句、あっさり論破されてしまう滑稽な論理学者が登場します。) 認識や思考を変容させた状態を一時的に作り出すことは(催眠や薬その他の方法で)可能であると(前のスレッドで)指摘しました。それどころか、必ずしも全能者でなくても、ヒトの考え方をすっかり作り替えてしまう(脳味噌のお洗濯をする)ことだって可能な筈です。たとえば「万物の霊長」がサル並の知能しかない宇宙を再創造なさっても良いわけですし、或いは推論に矛盾が出てきそうになると反射的に思考停止してひたすらマントラを唱え始めるという本能を持たせても良い。その術中に嵌っている被害者たちが罠の仕組みを認識していないとするならば、「『自分は理性的である』と信じる」ということと「理性的である」こととは必ずしも一致しない。つまりmori0309さんであれstomachmanであれ、知らず知らずの内に思考に認識不能な制限を設けられている可能性も否定できませんし、実際そうに違いないという気がします。(また脱線:脳の障害による視野欠損の患者は、多くの場合、欠損があることを自覚できません。「右側が見えない」と思うのではなく、「右側がある」こと自体に気が付かないんです。)  いきなりそこまでぶっ飛んだ話にしなくても、量子力学ですら「AでありかつAでない」という混合状態を基本にしている事を思い出してはどうでしょうか。論理でこれを解釈しようとすると「波束の瞬間的収束」だの「シュレーディンガーの猫」だのといった難問(観測問題)が生じます。そこで逆に、量子力学とすんなり適合するような「物の考え方」すなわち「量子論理」を建設するというアプローチも実際に取り組まれています。OKWebの物理や宇宙に関する常連回答者の中には「ニュートン力学なんてすっかり忘れていた。何でも量子で考える習慣で...」と仰る方もいらっしゃる程ですから。  このように、論理体系自体も相対的なものです。数学で使うような古典論理だけが論理じゃありません。ヒトが日常で使う推論ですら古典論理では満足に記述できないことが知られており、「昨日逢った時の様子なら、彼はあたしの好意にちょっとは気が付いている筈」のような知識・信念・義務・権利・程度・連想・時間経過などを扱う非古典論理学はまだ発展途上です。  以上のような意味で、ヒトの論理や理性の健全性を前提にして「全知全能」を論じるのはやっぱり不毛じゃないでしょうか、と申し上げたい。  蛇足に履かせる靴みたいなものながら、設問の意味を「この宇宙の法則に従うひとつの対象物として『全知全能者』である首尾一貫した宇宙人が存在しうるか」という程度に解釈するのならようやく議論が可能になり、直ちに否定されます。因果律に支配されるんですから。もちろん「ファンダメンタリストの神」ほどの能力も持ち合わせていない。むしろ「自分は全知全能だと主張し、しかも自己矛盾を含まないような、自己チュー的全知全能者はありうるか」という問いなら意味を持つと思います。この場合、他者からみて幾ら機知外のように見えても「自己矛盾」に陥っていない限り構わん、という立場。一般化すると「『Aでない』ことと『自分はAであると信じる』ことを共に認める無矛盾な論理体系はあるか」という様相論理(modal logic)の問題です。(fwappyさんのご友人が紹介なさっている)レイモンド・スマリヤンという論理学の先生の啓蒙書に、この問題の解説があります。

serpent-owl
質問者

お礼

 うわ~い! へびくんだよっ! いっぱい、いっぱい、かいてくれて、ありがと! すんっごく、うれしいな! でも、むつかしいことば、いっぱい! へびくん、おめめ、ちかちかだよっ! でもね! めっせーじは、よみとれたよっ! にんげんの、ろんりには、げんかいが、あるんだねっ! にんげんの、ちせいにも、げんかいが、あるんだねっ! うわ~い! でね! 「ぜんちぜんのう」って、そおゆうにんげんが、みる「ゆめ」なのかも! じぶんで、みてるのに、おいつけないゆめって、あるんだねっ! わ~い!

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