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八百万の神の思想が一神教だと言うことですが・・?では最初の神は??

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.11

 No.2&8です。  ★ スサノヲの神と、スサノヲが観た神とは違うのですか?  ☆ 同じです。《あたかも見た》体験にもとづき その神が スサノヲらに 信仰とあわれみを与えるようになったと――スサノヲらの主観それぞれにおいて――捉えられました。  ★ また、良く登場する「天の御中主の神」とは違うのですか?  ☆ スサノヲの神のほかは 自然現象の神格化もあるでしょうし 全般的に言って 付属品です。もっと言えば どうでもよい文学的な創作であるか 政治(まつりごと)のための創作であるか 商売のための宗教です。  ▲ (古事記・神代冒頭) ~~~~~~~~~~~~~~~~  天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時 高天原(たか〔あ〕まのはら)に成れる神の名は 天之御中主(アメノミナカヌシの)神。次に高御産巣日(タカミムスヒの)神。次に神産巣日(カミムスヒの)神。  これら三柱(みはしら)の神は みな独り神と成りまして 身を隠したまひき。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ というふうに 延々と 神々の名を挙げていきます。  おもには 自然環界のものごとです。《むす=生す・蒸す》というように また 《むす・こ/め=息子・娘》の語例のように です。  ただし なかで 《アメノミナカヌシ》は 少し毛色が変わっています。《独り神》という規定も おもしろそうですが けっきょく   ▲ タカマノハラにに成れる神  ☆ という記事に注目することができます。なぜなら かのアマテラスが 父のイザナキから  ▲ 汝(いまし)命(みこと)は タカマノハラを知らせ(* 統治せよ)。  ☆ と命じられているからです。ちなみに スサノヲは 《海原を知らせ》との職務分担でした。  ですから 要するに すでに のちに アマテラス帝国が出来あがってから このように 古事記が編纂され そこで 冒頭に 《アメノミナカヌシ》が 挙げられているというふうに疑ってみても 非科学的ではありません。  つまりは 広く為政者としては 二つに分かれ それらは 執行役員のごとき権力の地位に立つ者と 権威を象徴する者とがいます。その後者を アメノミナカヌシを筆頭に掲げることで 暗示しているというのが 無理のない解釈ではないでしょうか。河合隼雄は このことを 《中空構造》と言いました。《アメノミナカヌシは 第一人(神)者だが 何もしない。そのような統治構造》だということのようです。《君臨すれども 統治せず》と言いますね。  これは わたしは 人間の尊厳を傷つける世迷い言だと思っていますが そのことは 措いておきます。生まれた初めから 社会的身分が違うと主張しているとしたら あほらしい議論です。  つまりは アメノミナカヌシにしても 何にしても どうでもよい神々であると言っていいでしょう。そもそも   ○ 最初の一神が アメノミナカヌシだと言う人は どういう意味なのかを説明しなければならないでしょう。名前が分かったからと言って 何になるのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリスト教でいう宇宙・人間を創造した神が、  スサノオの神(スサノオが観た神?)だとすれば、  「天の御中主の神」の上にいる根本神ですね!!??  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あはっと言って あたかも見たように感じ思った神 それが ひとに対するあわれみの源です。あとは この信仰に 宗教が 飾り付けをし 上塗りをします。それは どうでもいいことです。というよりも わたしは 悪だと考えています。  もし スサノヲの神を もう少し詳しく説明せよということでしたら その用意はあります。  モノはコトです。( e = mc^2 )   モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。  いにしえのわれらが祖先は この二つの側面から ひとや神を捉えたようです。  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓         ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・・かみ  この範式において 次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  そうして 記紀には 《おほたたねこ(大田田根子)》という人間が 出て来ます。《ひ・こ/ひ・め(日子 / 日女)》は 《彦・姫》という言葉になりますが 《大地に根を張った木にも喩えて ひとのことを ねこ(根子)》とも言いました。このオホタタネコが オホモノヌシの神の子であったと記しています。  あたかも三位一体のようですね。つまりは モノ=コトですから オホモノヌシ(大物主神) 即 ヒトコトヌシ(一言主神) 即 オホタタネコ(人)だというわけです。くわしくは わたしの回答で  ◆ 《質問番号:4399753:日本的霊性について》の No.1  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4399753.html を参照してみてください。  さらに ちなみに 人間は その主観が ひとつです。その信じる対象(じつは なぞですから 非対象)は 仮りにいくら分割されていても ひとつに決まっています。  或る時は 商売の神様 或る時は 安産の神様 また或る時は 学問の神様うんぬんと言っていたとしても こころのあり方は ひとつです。一つなる心にとって 唯一神以外は 有神論と同等だと言うべき無神論を除いて すべて おままごと遊びであるか 商売のためであるか または いかさまです。  《多神教》も その多神教という一つのまとまりを 全面的に訴え この多神の中の一つに入らないなら 認めないと言ったとすれば それは いわゆる一神教と同じく 排他的なのです。

welovekobe
質問者

お礼

どうも懇切丁寧に有り難うございます。 懇切過ぎて理解できてないかも知れません。済みません。 私は、とにかく、この宇宙には、最初の究極的な第一原因 がなければならないと科学的論理的に考える方なので、 その、これ以上さかのぼれない究極的第一原因が神だと信じて いるわけです。だから、私は、一神教なのです。 宇宙が出来た根本原因が3つも4つもあるはずがないと・・・ だから、多神教は間違っていると思うのです。 もし、八百万の思想が、スサノヲの神という一神教の思想なのなら それはそれで大歓迎します。ちょっと意外でしたが・・・ ただ、私にとってはそれだけのことなんでございます。 どうも有り難うございました。

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