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ユダの福音書の何が注目されるのか

1000827313の回答

回答No.5

brageloneさんにしては不思議なと言いますか、いつもと違う質問のように思えます。(相変らずヘソマガリで申し訳ありません。) brageloneさんならもう既にワルター・イェンスの「ユダの弁護人」には眼を通していらっしゃると思いますが、そこから派生した質問なのでしょうか?結論はお持ちで試されているような気分です。 私は個人的にこの「ユダの弁護人」に同調します。 1)一番学識があり、読み書き・そろばんの出来たイスカリオテ(またはケリオト)のユダが一番信頼されていた。一番の理解者であり、鶏が鳴く前に三度知らないと答える弟子たちの中にあり、イエスの考え、思想の理解者であったから。 2)従って最後の晩餐でイエスに言われた事を直ちに理解し、実行できた人物は他にはいないはず。天国の鍵をお前に預けようと言われた弟子、一番愛されていたと言う弟子も無学文盲なら誰を信じますかね~ 別典ではマグダラのマリアは一番愛された弟子とされたり、妻とされたり、子供を連れて逃れたとか言われていますが、正典では娼婦ですね。(年一回の神殿娼婦であったとしても。) ただ、不思議なのは何故罪人を墓に入れることが出来たか。恐らくマグダラのマリアはサドカイ派・サンヘドリンに顔のきくそちら系統の女性かなと思ってしまいます。もちろん正典ではアリマタヤのヨセフがやったことになっていますが・・・ 3)この時代の時間感覚はかなり違っているので、イスカリオテのユダが木にぶら下がって縊死したのがいつかは判然としないと思います。アブラハムをお爺さんとしているくらいですから。ユダの福音書を書き終えてからということもありえないことではないと思います。 4)ヴァチカンはイスカリオテのユダを福者にはしないでしょうね。

noname#80116
質問者

補足

 1000827313さん お久しぶりです。お元気そうですね。見ていてくださったのですか。まづは ご回答をありがとうございます。  ユダ には 関心が行かなかったですね。単純に 伝えとしてでしょうが 自殺をしたということを わたしは嫌った結果だと思います。理論でも何でもないのですが。  ★ ワルター・イェンスの「ユダの弁護人」  ☆ については 次のサイトでの解説をいま読みました。  ▲ 《説 教 ユダとは何者か》   http://www.nishinasuno-church.or.jp/2007.2.11.htm  ☆ そうしますと 1000827313さんのご解釈では  ○ ユダは みづからの手で みづからの理解による《イエスに関する良き知らせ》を書いた。その仕事を果たしたのち 自死を選んだ。  ☆ ということでしょうか。以下は 疑問・質問です。  (1) イエスについて 文章に遺した。そして パウロのようには 宣教をおこなうつもりはなかった。ということでしょうか。  (2) イエスが 自分を祭司長らに 売り渡す役を ユダに託した。これを受けただけではなく ユダは したがって その意味について その後の磔刑によるイエスの死までも 分かっていたということでしょうか。  (3) ちなみに――小さいことですが―― イエスは 公の場ですでに顔を知られていたと思われるので ユダが手引きする必要はなかったようにも思うのですが。  (4) (1)に戻って パウロらの宣教した《信仰による義認》の理論は ユダは 認めていなかったという意味でしょうか。グノーシス派一般の教義として 単純に そのように 推理しただけですが。もしそうだとすれば 明らかに クリスチアニスムが 大きく 二つに分かれますね。ただし グノーシス派は わたしには 信仰ではないと思われ 質も違うとは考えます。大枠として No.4のnacam さんのご見解に通じます。  (5) そもそも 問題と核心は 《去らなければ 聖霊は 来ない》(ヨハネ福音16:7)にあると考えます。その意味は イエスが去る前つまり生前には 誰ひとりとして 人は イエスの意味が分からなかったということです。聖霊を受けてこそ初めて イエスの指し示した神を 息吹きとして 受け取った(つまり 信じた)ということだと考えます。  (5-1) 十字架上の死および復活の 以前と以後とでは 世界が変わり 人はあたかも裏と表・頭と足を逆転せしめられて 自己を自覚したというようなことではないでしょうか。――このとき ユダもペテロもパウロも ないのだと考えます。  (5-2) その意味では 以前と以後それぞれの情況において 人は 互いに みな対等・平等なのだと考えます。誰が どうで かれが こうだということは キリスト者にとって そして しかも それだけではなく あらゆる人にとって 信仰ないし存在論においては 差異がない こう受け取っています。  (5-3) この結論でしたら 前々から持っています。  (6) 早い話が ペテロを初めとする弟子たちは 初めから イエスの復活のあと かれらの信仰も復活するというふうに 分かっていた。そういう人たちを選んだ。  (7) そうすると ユダは どうして その仲間に入らなかったか。仮りに生きていたとするなら パウロのように 仲間らの外側から そのエルサレム教会と交渉しようという考えは起こらなかったか。――だとすれば この場合 結果がすべてだと考えられて来ます。  (8) だとすれば この《ユダの福音書》の中身が いわば勝負を決することになるかも知れません。けれども それが わたしから見て パッとしないんですよね。どうしたもんでしょう。  このように考えております。よろしかったら 突っこみどころは 全部 突っこんでください。  * 福者・聖人は 教会が認定するのも 好し悪しであるように思います。と言いますか 信仰の度合いの問題だとすれば それは そもそも――人が人を裁くかのようですから―― 無理ではないでしょうか。  * 《イエスの思想の理解者》であることと ふつうのキリスト者であることとは 共通の部分もあれば 重ならない部分もあるように思います。後者が 主であり 前者は 従だと捉えます。愛が信仰をとおして はたらくと受け取るからです。

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