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日中戦争の発端は、北支派兵ですか?それとも、蒋介石の上海事変ですか?

a-koshinoの回答

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  • a-koshino
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回答No.8

少し調べてみましたが、関連はあるようです↓ http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokyoujikennseifuseimei.htm ここまでムチャ言い張ってたんですねえ。勉強になりました。 以下は上記URLからの引用 ところで盧溝橋事件の前年の1936年、日本は、「支那駐屯軍」の兵力を約1,800人から約5,800人へ3倍もの増強していた。当然、中国は強く抗議したが、それを無視した日本は、増強部隊を盧溝橋にも近い北京近郊の豊台に駐屯させた。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍が配備されていました。互いの兵営の距離はわずか300メートル、挑発行為であることは明白であった。 ということで、御考えの通りのようです。

参考URL:
http://www9.plala.or.jp/kikujiroh/prog/rokoh_kyoh_jiken.html
welovekobe
質問者

お礼

どうもご丁寧に有り難うございました。 華北分離政策の一貫として、そもそもの駐屯目的を逸脱して、 豊台に3倍もの兵が増兵されたことは間違いなさそうですね。 どうもいろいろと感謝でした。大変参考になりました!!! m(__;)m

welovekobe
質問者

補足

日本が1931年謀略的に仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖【りゅうじょうこ】事件)をきっかけに軍事行動を引き起こした「満州事変」の中心人物の一人石原莞爾が、「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と証言していることからも明らかである。 と書かれていることがもう決定的ですね。 どうも有り難うございました。

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