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義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??

tasukarimaの回答

回答No.5

たいがいの場合 自国は盟主と盟友の関係でなりたっています ですから 場合によってはその関係を切って 他に関係をもつ そうして自家の存続を保ちます 盟主たるものの力がすべてです つまり勝手にいくぞとは いえない相互互助関係 動きがにぶい 野心の鈍さに等しい 信長は親父と違うのは この盟主と盟友の関係をトップダウンに変えるべくそれなりの思索をしたことでしょう ですから自国の掴握にずいぶん手がかかりました その間 今川に尾張の併合があれば つぶされていたと思われますね まだ武田北条との不可侵条約が出来ていませんので 動けなかった 三河は家康を人質に取られて今川の植民地になっていましたね その植民地の三河が織田に侵略されないがぎり 早急な戦闘状態にならなかったようです ある意味運がよかった もちろん信長は北条との遠近外交をやって 今川を牽制するのをわすれていません 今川を運よく倒しましたがまだ 東には武田北条の強国がありますので それの盾として家康との同盟はこの時最善の策でしょう 美濃進攻は道三がいませんので 遠慮なく親父の悲願でもあった東へ矛を向けたようです 天下は取れていませんが いいとこまでいきましたね 親父とその親父がすごかったようで 津島や熱田に目をつけ その湊からの運上金がを財政基盤になったことと 湊はいろんな交易によって火薬等 武具の入手に有利にあったこと 物の動きから感覚的に商人的な目が養われたのでしょうか 銭で兵を補充する 少数でも いつでも好きなときにわりあいスピードをもって戦える あいては嫌ですよ  いってみれば いままでの戦の慣習無視  戦法として青田刈り 焼き払いして いやがらせ 次の年 その国のちからはずいぶん落ちますよね 農業中心だと この手でやられるのが いちばんつらい 完全な兵農分離とはいえないですが(秀吉の刀狩が完全なもの)銭で雇った傭兵の割合はおおかったとおもいます相手より少しでも多いように(こんな兵は極端に弱いでしょう) それでも相手の生産基盤を脅かしつつ 自国の生産力は落とすことないように 戦略した点ですかね 家来の一所懸命の宿性を 清洲 小牧山 安土とかえることによって 強制移住で 消し去ったこと 方面軍の編成とそれを遂行できる家来を選別配置できたこと 手に入れた土地の実質経営は直接管理したこと 他の何者にも既得権益を認めず 自由に商売住民管理をしたこと 余談ですが 家康だって 親父が健在で人質などならなかったら 人生重き荷物を背負いていくが如し なんて忍の性格にもならず 海のある三河ですから わかりませんですよね     

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