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義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??

Swordlineの回答

  • Swordline
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回答No.1

端的にいうと、同盟国を作りながら勢力拡大⇒上洛したからでは。 まず、桶狭間の後に、今川配下から独立した徳川と同盟を結ぶ。 その頃、織田は、美濃の斉藤家とも断続的に戦っていて このときに、浅井と同盟を組んで、プレッシャーを掛けた。 その後、斉藤家をつぶして、織田は、美濃を手に入れた。 ちなみに、斉藤家が負けた一因として、自国内で内紛が発生。 自分からグダグダになった。 織田は、この後、上洛を目指す。 そして、いろいろ戦いがありつつも、足利義昭を将軍として擁立した 信長による政権が誕上。支配力を高めたという感じ。 ちなみに「簡単に負けた」という浅井は、上にも書いたように同盟関係にあった。 敵対した決定的な理由は、同盟国だった、朝倉に信長が攻め入ったこと。 そのときに、浅井軍は、信長軍の背後を突いて、あと一歩というところまで追い詰めた。 その後も、一揆集や本願寺や延暦寺といった僧侶を仲間につけて 信長包囲網を形成して、いいところまで追い詰めている。 負けそうになった信長は、当時の天皇に勅命を仰ぎ、長政に和睦を迫った。 天皇の命令では、浅井はそれを受けるしかなく、優位だった戦いを止めるしかなかった。 結局、信長は浅井と敵対してから、滅亡させるまで3年掛かっている。 とても、簡単に勝てたとはいえないでしょう。

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