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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

川原 文月(@bungetsu)の回答

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回答No.10

NO5.です。 なぜか、あなたの「補足」がメールで来なかったため「回答」が遅れました。たまたま「覗いたら」・・・。 >>つまり長井雅楽が唱えたこの策には、開国派側にも攘夷派側にも満足させることができる、いわばどっちつかずの文章ということでしょうか?海外と貿易をするけど、完全に受け入れてはいけない、、というような、 (1)朝廷への力説。 「航海遠略策」をまとめた長井雅楽は、文久元年(1861)3月30日、公武周旋の藩命を受け、4月29日に萩を発って5月12日に入京した、と言われています。長井はまず議奏の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる=大納言)に面会して、公武の離間は攘夷・開国の確執にあること、今では破約攘夷は不可能であることを論じた。長井が、 「外国がもし4~5隻の軍艦で九州に臨めば、数百万の士民は、自国の騒動をおいて東上することはできない。京都守衛がおぼつかなくなるだろう。今は朝廷も鴻館(平安時代のような)の昔を思召されて、神威を世界に振るうことを大基本とし、開国遠略の策をもって幕府に臨ませれば、幕府の実行は容易であり、君臣の位次を正しくし、公武一和の道も開きえるだろう」 と弁じると、正親町三条は、 「もし幕府が長州の建白に同意しないときはどうするのか?」 と尋ねた。 それに対して、長井は、 「幣藩はどこまでも穏和手段をとるつもりである。国内に隙を生じさせるようなことは好まない」 と答えたという(『徳川慶喜公伝(長州御往反始末、長井雅楽一件書類・防長回天史より)』)。 正親町三条は同説を喜び、長井に文書にして提出するよう求めた。天皇も建白書を嘉納し、6月2日、正親町三条は長井を呼び出して天皇が喜んでいたとの内意を伝えた。 (2)幕府への力説。 朝廷の賛同を得た長井は、今度は幕府を説こうと、6月2日に京都を発ち、14日に江戸に入った。 7月2日、世子毛利定広は老中久世広周(くぜ ひろちか)に面会して長井上府の趣意を告げ、夕刻、長井は久世を訪問して意とするところを陳述した。久世は大いに喜んだという。さらに8月3日には老中安藤信正に面会し、安藤の同意も得た。 このとき、長井は、 「事の成否は御同列の存意次第に在り、誠に公武一和を希望せらるるならば、主人も周旋すべし」 と、長州藩の周旋の意図を告げたと言う。(『徳川慶喜公伝(長井雅楽一件書類)』)。 幕閣は、ついに外様大名である長州藩に国事周旋を任せることにしたのである。 つまりは、長井はもともと「開国派」でしたが、朝廷には、 「朝廷のため開国を遅らせるため公武合体を急ぐべき」 と説き、幕府には、 「幕府のため公武合体が御ため、さすれば、いずれは朝廷も開国を聞き入れるだろう」 と、確かに、力点が若干違った言い方をしているようです。 まあ、どちらにも都合が良いような「日和見(ひよりみ)的」な言い方であったようにも見てとれますね。 (3)その後、長井は8月7日に江戸を出立し、途中、京都に寄って正親町三条に状況を報告して、29日、萩へ戻った。 長井の復命を受けて、藩主毛利敬親は自ら周旋に乗り出すことにした。 11月13日、藩主毛利敬親の参府に随従して長井は再び江戸入りした。同18日、敬親は老中久世・安藤と会見したが、この席で老中は長井の意見を称し、今後国事を敬親と相談したいと告げた。 12月8日、長州藩は幕府に対して、正式に航海遠略策の建白を提出した。さらに、同月30日、老中久世は長井に公武の周旋を任せるという将軍家茂の内意を伝えた。 これを受けて、敬親は長井を中老に昇格させ、再入説のため、再び京都に派遣することにした。幕府も目付浅野氏祐(伊賀守)を京都へ派遣し、所司代酒井忠義(若狭守)とともに長井を支援させることにした。 しかし、長井が入京した文久2年(1862)3月には、京都の情勢は文久元年とは大きく一転しており、尊攘激派が勢力を伸ばしていた。しかも、島津久光の率兵上洛(兵を派遣して京都を守る)の情報によって、京都では薩摩藩への声望が増しており、在京長州藩は後塵を廃したことへの焦りを感じていた。 今さら公武合体・開国ではない雰囲気だったのである。長井の建白は時宜を得ず、失敗に終わった。(長井が公武周旋を任されたときに中老格に出世したことへの嫉みも藩内にはあったという)。 情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、長井は4月14日、退京した。 長井支援のために幕府が京都に派遣していた浅野氏祐も江戸へ戻った。 (4)京都での入説に失敗して長井が帰府(江戸に戻る)してまもなくの5月5日、朝廷は、長井の起草した建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があり、懸念ありとの沙汰を下した。 この頃、京都では建白中の 「昔を思い、国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」 という部分が、古代の朝廷隆盛の時代と外国に迫られて開国した今の時代を比較して、現在の朝廷を誹謗するものだという議論が起っていた。長井の公武合体-開国論を嫌い、長井を排斥して長州藩の藩論を一転させようという、藩内尊攘派激派の久坂玄瑞らの朝廷工作の結果だった。 長井への批難は大きく、その累は毛利家にも及ぼうという勢いだったという。長州藩主毛利敬親は在京の家老浦靱負(うら ゆきえ)を遣わして朝廷に陳謝し、6月5日、長井に帰国謹慎を命じると、翌6日、上京して直接朝廷の疑念を晴らすために江戸を発った。 (5) 入京した敬親は、 「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」(『徳川慶喜公伝』) をさとり、家臣と会議の結果、7月、長井の航海遠略策を破棄することに決し、藩論は「破約攘夷」へと大きく転換した。すなわち、勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行うというもので、尊攘激派の桂小五郎や久坂玄瑞の主張が通ったわけである。 航海遠略策を推し進めていた長井は、翌文久3年(1863)3月24日切腹を命じられ、無念の最期を遂げた。 >>現に、彼は暗殺されましたよね? 長井雅楽は「暗殺」されてはいません。失脚して「切腹」です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD >>また、最後に高杉晋作についてですが、四国艦隊砲撃事件の後、私がいったように、彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。でも長州征伐で幕府は長州藩(高杉)と戦って勝ち?ましたが、なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか?表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか? 高杉晋作は「攘夷派」ですが、 (1)文久2年(1862)5月、藩命で幕府使節随行員として、長崎から中国へ渡り、清が欧米の「植民地化」されようとする姿を目の当たりにする。 なお、この頃、まだ藩論は「攘夷派」には移っていなかったが、3月に長井(「開国派」)の朝廷工作が失敗したため、すでに、この頃には藩主の毛利定広も「攘夷派」に傾き始めていたので、高杉を使節団員に選んだ、と考えられます。 (2)その後、高杉は、 諸外国の恐ろしさを見聞したことを受けて、7月に江戸藩邸に帰国すると、ただちに、「尊皇攘夷派」に加わりました。また、 「薩摩はすでに生麦(生麦事件)で、夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお公武合体を説いている・・・」 と、唱えるようになり、武州金沢(金沢八景)で遊ぶ外国公使らの暗殺計画などを企てますが、同士の一人久坂玄瑞が土佐の武市半平太に、そのことを話したところ、土佐藩主山内溶堂の耳に入り、山内溶堂は長州藩主毛利定広に連絡し、この計画は未然に防がれた。 (3)文久2年12月12日、同士と共に品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。 (4)文久3年(1863)5月10日の砲撃事件(前回、参照)。 (5)5月23日の砲撃(前回、参照)。 (6)5月26日の砲撃(前回、参照)。 (7)6月4日、高杉、下関防衛司令官を任命される。 (8)6月5日、フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が長州を砲撃し、陸戦隊が上陸し、前田、壇ノ浦砲台を占拠。 (9)6月6日、高杉、豪商白石正一邸に入り「奇兵隊」の編成準備。 奇兵隊とは: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A (10)6月8日、奇兵隊発足。 (11)まだまだ行動は続きますが、8月18日、「8月18日の政変」で長州藩は京都を追われる。 (12)9月15日、高杉は「教法寺事件」での責任で奇兵隊総監を罷免される。 教法寺事件: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 などなど、詳しく書いたら「キリ」がありませんので、その後は、 (13)文久4年(1864)7月19日、「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、とも呼ばれた)」。 禁門の変: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89 (14)8月4日、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が横浜出港。(7月18日に事前通告あり)。 同日、高杉晋作、伊藤俊輔の両名が「和平交渉役」を任命される。 (15)8月5日午前4時10分、の「四国艦隊下関砲撃事件」発生。 (16)8月6日、約2,000人の陸戦隊が下関上陸。8日までに関門海峡に面した砲台すべてが破壊された。 (17)8月8日、高杉は「宍戸刑馬」と名乗ってイギリス艦「ユリアラス号」でクーパー提督と交渉開始。 (18)8月14日、停戦協定成立。 このように変遷して、高杉は「開国派」のように言われますが、実際には、この交渉で連合国は「彦島の租借」を要求するも、高杉は「清国と同じになる」と、断固拒否をし、撤回をさせています。 第一次長州征伐 原因は、「禁門の変」への制裁。 第一次長州征伐が迫る中で、長州藩内では10月、「開国派」が「純一恭順」を唱え、「攘夷派」は、表向きは「恭順」を装いながらも「武備恭順」を主張したが、この時、井上聞多らが「開国派」に襲われて負傷し、高杉は平尾山荘へ匿われる。こうして「攘夷派」が結束を乱したため、「開国派」の「純一恭順」をさらに強力な「徹底恭順」に切り替えて、長州は征伐軍に降伏。しかし、その代償は三家老(国司信濃、益田右衛門介、福原越後)の切腹。匿っていた公家の三条実美ら五卿を他藩へ移転。山口城の破却と撤兵、等々の大きな犠牲を払うこととなった。 >>彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、<< ※高杉や井上らが襲撃されたのは、「開国派と知った攘夷派はいかり」ではありません。 >>その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。<< (1)元治2年(1865)3月、(4月7日に「慶応元年」と改元)。開国派の首魁椋梨藤太が高杉らのクーデターで排除され、「攘夷派」が再度、実権を奪還。しかし、藩内部では、依然として「開国派」と「攘夷派」の対立がくすぶっていた。 (2)3月、高杉は海外の情勢を知るため、海外渡航を計画し、長崎でイギリス商人グラバーと接触するも反対される。 (3)4月、諸外国の恐ろしさを体験した高杉は、諸外国との戦を想定すると同時に、いずれ国内であるであろう戦いに「軍備増強」を考え、下関港の開港し直接武器を購入することを推したため、「開国派」からも「攘夷派」からも命を狙われた。そこで、愛妾おうの(後の梅処尼)とともに、四国へ逃亡。 (4)6月桂小五郎の斡旋により帰郷。 (5)高杉晋作は、一貫して「攘夷派」ではありましたが、外国勢力の強さを見せ付けられ、一時期、「このままでは、清国と同じように植民地になる」そして、「武装強化」を考えて、下関の開港等を目指したものと思います。 >>なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか? >>表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか? 第二次長州征伐の原因 長州征伐(第一次)に一応終止符を打つことができたと思ったのも束の間、功山寺で挙兵した高杉らが、早くも元治2年(1865)年1月2日、遊撃隊を率いて再び下関新地の萩藩会所を襲いこれを占拠する事件が勃発した。そこで、幕府は、長州藩の石高を減封しようとしましたが、長州藩は「断固拒否」。そこで、第二次長州征伐が行われることとなった。 高杉は、先にも述べましたが、一環して「攘夷派」です。そして、「攘夷派」のまとめ役として、再び、慶応2年(1866)6月7日からの第二次長州征伐(四境戦争)では、海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖の幕府艦隊に夜襲をかけ撃退。 この時、征長軍(幕府軍)の装備は、旧式の火縄銃、弓矢、槍などで、さらに、甲冑は約30kgもあり、動きは大変鈍かった。さらには、幕府の権力低下もあって、幕府軍は15万という人数こそ多いものの統制が取れていなかった。 一方、長州側は、西洋式の軍事訓練がされた兵力と最新式のゲーベル銃などとともに、西洋式の陣構えで幕府軍を圧倒。7月20日、幕府軍の大将、14代将軍家茂が死亡してからは、完全に統率力を欠き、徐々に終結へと向かって行った。 そして、その後は「薩長同盟」へと展開していきました。 第二次長州征伐の状況: http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku22/kou-moku22a0.htm 「幕末」は、一言では語れない「複雑」な各藩の動きがあり、一歩読み間違えると、中々、考えをまとめ直すには、また、最初から読み直さなければならないような時代背景があります。 分からない事件などは、このOKWebでも良いですし、PCの「検索」で調べて「知識」を高めましょう。 お互いに頑張りましょう。

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