• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

yuuuuuioの回答

  • yuuuuuio
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.6

この時代、幕府の権威が失墜していきますが幕府は朝廷との結びつきを強める事で自らの権威を守ろうとします。逆に長州は朝廷を幕府ではなく自分達と手を組んでもらう事で幕府を攻撃しようと考えたというのが大まかな流れだと思います。ですから朝廷の存在感が急に出てきたなと感じられると思います。 >なぜ長州藩は開国派になったのにも関わらず、同じ開国派の幕府と長州征伐で戦う必要があったのでしょうか? 単純に攘夷派だから開国派だからという区分けは誤解の元になりかねませんので慎重に理解されたほうがいいかもしれません。 攘夷と一口に言っても外国人排斥から諸外国の技術を積極的に取り入れて外国に対抗する大攘夷の類。攘夷を公言しつつも実際はそこまで攘夷を考えてない人。その上、考えの変遷もありますので少し繊細な話になるかもしれません。 重要なのは幕府に従いますよと言っていた首脳が倒されて反幕府の人間が政権をとって、外国から兵器の導入を始めた事です。 これは倒幕の意思表明同然ですから、幕府はこれを潰そうとしたという理解でいいと思います。 関が原の戦いで毛利は前線で戦っていません。これは家臣である吉川が密かに徳川方に通じていて毛利の所領を安堵してもらう約束を取り付けて兵を出さなかったからです。 しかし後にこの約束は反故にされ、毛利は取り潰しされそうになります。これに吉川が嘆願したので取り潰しは逃れますが、先に書かれた人がいるように幕府から様々な干渉を受けます。 その上、吉川の行動が独断によるものだった為、毛利と吉川の関係が悪化しました。 この影響は非常に大きく四境戦争の折には岩国(吉川)との関係修復に努めています。 こうした背景がありますので倒幕思想が育ちやすかったのは事実です。 しかし、元旦に殿様に倒幕云々。江戸に足を向けて云々。というのは史実ではなかったと思います。 ドラマ等でよく出てきますが出典を聞いたことがありません。 お取り潰しの原因を安易に作るほど間抜けとは思えませんし、参勤交代を知っている人なら江戸に足を向ける事が何を意味するかぐらいは分かると思います。 長州の動きを支えたのは無論財政です。改革が行なわれたのは宝暦ではなく天保ですね。 他の大多数の藩の財政事情は後の廃藩置県にも大きく関わってきます。 明治になって他藩の贋金作りが問題になりました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BC%AA%E8%AB%87%E5%88%A4 >また、意思表示と書かれていましたが、本当でしょうか? >最後に、船ではなく陸で京に行ったということですが、そこはどういうことでしょうか?船と陸の違いというのは? 和宮との婚姻は上洛前の出来事です。公武合体の一環ですので長州にメリットはありません。 海路を主張した勝海舟は海軍増強のために家茂を船に乗せようとし、陸路を主張した天璋院(篤姫)はどうやら生麦事件の関連でイギリス艦隊が来ていたことを心配したようです。 ですから帰りは船で帰っています。朝廷は無関係です。 戊辰戦争の戦後処理、陸軍への影響とありますが 戦後処理に関しては、恐らく史実と異なるものを教わったのでしょう。 http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub3junnanhi-no-yurai.htm 陸軍で問題を起こしていたのはむしろ反長州閥を掲げていた人間です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%95%E4%BC%9A

関連するQ&A

  • 長州藩の尊攘派の攘夷

    恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。 私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。 ・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している  うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。  ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?  それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本  にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松  陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。  さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし  て運動した。  開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。 ・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高  杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは  もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。  しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し  た。  不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。 ・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ  と変えた。 この概要であっておりますでしょうか?

  • 長州藩

    私の幕末初期(1860年頃)の長州藩のイメージというと 藩士に攘夷思想はやる→攘夷活動過激すぎ(焼き討ち・砲撃・辻斬りなど)→攘夷派の朝廷もやりすぎだと京都から長州を追放→孝明天皇を長州へ拉致計画→発覚・新撰組に襲撃される→京都へ攻め薩摩・会津と対決負け→第一次長州征討→降伏 という認識です。 正確に知っておきたいのでまちがったところがあったら指摘してください。 もしこの通りなら、長州はこの後改革するまで、めちゃくちゃな政治では? 藩としてどう政治をもっていこうと思っていたのでしょう。それとも、藩の意向ではなく、一部藩士の暴走だったとか?

  • 長州藩2 (吉田松陰)

    長州藩は正義派と俗論党という2つの勢力が二大政党のようにあり、八・一八政変までは正義派、つまり攘夷派が優勢だったというところまではわかりました。 ところが、八・一八政変の起きる前に長州の尊王攘夷の若手エースの吉田松陰が安政の大獄で殺されてしまいます。 長州藩はなぜ彼をかばわなかったのでしょう。 長州も松陰を投獄していましたが、その理由は武士らしくないからと聞きます。その理由からでしょうか。 また、松陰の評判がここまでよいのはなぜでしょう。 彼の攘夷論は普通の攘夷論と違うと聞きましたが、どう違うのでしょう。

  • 尊王攘夷について

    幕末は長州藩の開国論と薩摩藩の尊皇攘夷派の 対立があったわけですが薩長同盟が成立したのは 開国論者も尊皇攘夷派も幕府を倒さなければならないと 言った共通項があったからですか? また、なぜ攘夷派の人間は明治以降、開国論に 考え方を変えたのでしょうか?

  • 幕末の薩摩藩について

    私の勉強不足のせいで、この様な質問をしてしまいましたが 申し訳ありません。 質問なんですが幕末の薩摩藩の動向について分からない事が あり質問しました。 元々、薩摩藩は「公武合体派」であり幕府を生き残らす 事が目的であったのにも関わらず何故、西郷隆盛は 倒幕を決意し、また他の薩摩藩の人間達も彼に着いて行こうと 考えたのでしょうか? 元々、西郷隆盛は公武合体に反対しており薩英戦争 などの影響で開国論(攘夷論はないと思いますが) が強まったと思いますが、それが何故統幕に繋がったのか 理由が良く分かりません。 徳川慶喜も「家康の再来」とまで言われた聡明な人間ですし 異説もありますが篤姫を大奥に送り慶喜を将軍にする 為に働いた事もある西郷隆盛なので疑問に思いました

  • 尊王攘夷運動について。(中二

    教科書に、 1863年、尊王攘夷運動の高まりをおそれた幕府は、 天皇や薩摩藩の支持を取りつけ、京都から急進派の公家や長州浪士を追放し、 翌年には、長州藩を攻めて屈服させました。 と書いてありましたが、どうして天皇は、自分と開国反対派の長州に攻撃したんでしょうか? 意味がわかりません。

  • 当時の長州について1

    幕末の長州を読んでいて分からない事がちらほらと。 簡単に書きますので分かるところがあれば教えてください。 1、1862(文久2年)11月13日、攘夷のため異人殺害計(失敗に終わる)、 12月12日・・・イギリス公使館焼き討ちを決行 ↑の二つの攘夷に関してですが、これ以前に高杉は上海に渡り清が外国に侵略されている ところを見ていて、外国には敵わないということを分かっていたはずなのですが、 なのに何故日本に帰って来てこの様な攘夷に走ったのですか? 2、1863(文久3年)4月20日、に将軍家茂が攘夷の決行日を5月10日に決定するのですが、 何故幕府は攘夷をすることを決めたのですか? 3、1863(文久3年)8・18の政変の政変は何故起きたのですか? 会津はいいとして、薩摩は長州と同じ尊攘派だったはず。 なのに何故いきなり長州を裏切るような真似をしたですか?経緯を教えてください。 4、1864(元治元年)6月15日に長州では京都進発論が高まり、遊撃隊が最初に京に向けて 出発しますが、先の8・18の政変で京都を追い出されたのに何故また京都進発論が高まったのですか? 5、1864(元治元年)7月19日・・・禁門の政変(蛤御門の変)は 4の進発論と関係ありますか?この事件自体よく分かりません。

  • 航海遠略策について

    航海遠略策とは何ですか?「公武合体にもとづく開国論」とだけ、書いてあったのですが、漠として認識できません。幕末の長州藩の藩論てのはわかるんですが、、、。

  • 幕末の攘夷派と開国派について

    幕末の思想には、大きく分けて尊王攘夷派と佐幕開国派があったと理解しています。 以下の疑問について、大まかにご教授いただければ幸いです。 1.薩摩藩や坂本竜馬は尊王攘夷から尊王開国派に変わったと理解して良いか? 2.長州藩はどんな思想だったのか? 3.朝廷はひたすら攘夷だったのか? 4.「佐幕攘夷」などの思想を持つ藩や人物は存在したのか? 以上、よろしくお願いします。

  • 幕末の各勢力の立ち位置について

    黒船が来航したことで、幕府は開国をしましたよね。 それに反対する形で、薩摩・長州などが 尊皇攘夷を唱えて対立したのが、幕末の始まりだと思います。 でも、薩摩や長州が外国との戦争で負けたことをきっかけとして、 開国に主張が変わったのに、その後も倒幕運動が行われたのは どうしてなんでしょうか? スローガンが尊皇だけだと、倒幕の根拠が薄いような気がします。 なぜなら、幕府は朝廷と対立したのは幕府が開国したためで 尊皇を唱える薩摩・長州も開国に主張を変えたなら どちらも、朝廷と対立する立場になると思うからです。 個人的には、関が原の戦い以降の毛利・島津の恨みが根底に あって、尊皇や攘夷は口実に過ぎないと思ったりもしたのですが。 どうなんでしょうか。よろしくお願いします。