解決済みの質問

長州藩

私の幕末初期(1860年頃)の長州藩のイメージというと


藩士に攘夷思想はやる→攘夷活動過激すぎ(焼き討ち・砲撃・辻斬りなど)→攘夷派の朝廷もやりすぎだと京都から長州を追放→孝明天皇を長州へ拉致計画→発覚・新撰組に襲撃される→京都へ攻め薩摩・会津と対決負け→第一次長州征討→降伏


という認識です。
正確に知っておきたいのでまちがったところがあったら指摘してください。

もしこの通りなら、長州はこの後改革するまで、めちゃくちゃな政治では? 藩としてどう政治をもっていこうと思っていたのでしょう。それとも、藩の意向ではなく、一部藩士の暴走だったとか?

投稿日時 - 2003-02-15 02:57:51

QNo.473325

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

司馬氏の歴史小説を読んでの個人的な推測になりますが、焼き討ち、辻斬り(天誅)は一部藩士の暴走だと思います。(藩の承認無し)
高杉晋作は、夷人狩りなどには加わっていなかったと思います。辻斬り(天誅:参考URLは有名なもの)も攘夷と称した一方的な殺人が多いようですし、高杉は天誅を行う一部の殺人嗜好者(神代直人など)を嫌っていた(自分が狙われていた)とのことです。
下関砲撃事件は、攘夷論に国中が引きずられた結果とはいえ、幕府の指示に従って藩が決めた方針だと思います。
天皇の拉致計画は、元肥後藩士 宮部鼎蔵が中心(参考URL 池田屋事件 「世に棲む日々」にも登場します)だといわれているおり、長州藩というより藩内の一部の過激攘夷論者達が首謀者だと思います。(藩未承認)
その結果、京都で落ち目の長州藩は、更に落ち目(出番がない)になり、蛤御門の変へとつながりました。(「書生政治」に藩全体が引きずられている印象)

(京洛での天誅・暗殺一覧)
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tentyuu.htm

(幕末出来事用語帳→下関砲撃事件)
http://www.ma-fa.com/kaisyu/hanasi/dekigoto.htm

(池田屋事件)
http://www.age.jp/~rekiken/jhis/jhis_010.html

(大村益次郎とその仲間→反対派3名 神代直人)
http://www.city.yamaguchi.yamaguchi.jp/bunkazai/oomura/masufri.htm

(長州→久坂玄瑞ほか)
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tyosyu.htm

投稿日時 - 2003-02-16 07:45:00

ANo.3

3人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

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ベストアンサー以外の回答(4件中 1~4件目)

ANo.5

Nさんは歴史愛好家ですね。薩長の感情的シコリは、明治維新後も水面下で続いていたと思います。山県や井上の汚職問題を、桐野などの薩摩出身者が追求したが、西郷が分裂を恐れて制止したと。

投稿日時 - 2003-02-18 11:53:53

ANo.4

#1の補足です。下記サイトは、長州藩の指導者「周布正之助」の人物紹介ですが、長州藩のイデオロギーや派閥争いを説明している。なお、公武合体か勤皇攘夷かの藩内対立は、長州以外でも、薩摩藩、尾張藩、肥後藩など多くに見られ、テロの犠牲者がでています。

参考URL:http://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/ji/suhu/

投稿日時 - 2003-02-16 10:37:46

お礼

再度くわしくありがとうございます。
とても参考になりました!
正義党と俗論党の二大政党政治、藩主が象徴元首制というかんじで整理してみました。

ところで、薩摩は八・一八政変で長州藩士と長州派を京都から駆除しましたが、そのことで明治政府ができてから、西郷・大久保・島津と岩倉・三条・木戸といったところの関係はどうなのでしょう。

投稿日時 - 2003-02-18 05:01:54

ANo.2

単なる歴史愛好家なので、回答は「自信なし」ですが、認識は間違っていないと思います。
そのあたりの話でしたら、司馬遼太郎氏の以下の作品が詳しいです。

●「世に棲む日々」(文春文庫 全4巻)
幕末の思想家吉田松陰と、その弟子高杉晋作について描いた作品。

●「花神」(新潮文庫 全3巻)
長州の軍略家 大村益次郎についての作品。
(読んでいたら、すみませんが)

さて長州藩の政治ですが、上記作品によれば、長州藩は村田清風の藩政改革の成功で政治活動をする資金は充分あり、また藩政については「書生政治」の習慣(正式に家を継いでいない優秀な若者を重く用いる)が元々あり、藩に重く用いられた吉田松陰の影響を受けた若い藩士達(久坂玄瑞など)が、藩内に攘夷思想をはやらせ、やがて高まった攘夷熱は暴走(蛤御門の変)へとつながった、というような内容だったと思います。
司馬作品が、どこまで史実を忠実に再現しているかどうかは難しいですが。

投稿日時 - 2003-02-16 01:58:56

お礼

snowbeesさん、doyaさんありがとうございます。
「攘夷活動過激すぎ(焼き討ち・砲撃・辻斬りなど)」と「孝明天皇を長州へ拉致計画」は、藩で決めた方針だったのですか? それとも一部藩士のものなのでしょうか。

特に天皇拉致計画は、藩で決めたことならとんでもないことと思いますが・・・・。
攘夷も、砲撃ならともかく、辻斬りとかはただの殺人では。高杉晋作は公邸焼き討ちなどはしましたが、夷人狩りはやったのでしょうか。

投稿日時 - 2003-02-16 02:41:51

ANo.1

幕末の長州藩は、村田清風による経済改革が成功して、経済力をを保持していた。また、戦略家である桂小五郎や大村益次郎が軍事力を整備し、戦術家の高杉晋作がそれを指揮した。勤皇攘夷や幕府との融和などイデオロギーの揺れや派閥争いもあるが、前例にとらわれず、優れた人材を登用した藩主も傑物である。なお、勤皇攘夷主義は、倒幕のためのスローガンとして利用したが、情勢を見て、開国主義にシフトした。なお、薩長密約については、別のレスがあるので、参照ください。下記のウエブもお読みください。

参考URL:http://inazo.hmt.toyama-u.ac.jp/students/97/hiroshi/study/jituri.html

投稿日時 - 2003-02-15 10:57:31

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