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親鸞再考

 《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。  ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。  そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一番の知りたいところは   (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  ☆ です。言いかえれば   (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。   (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  ☆ と疑われます。なお   (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  ☆ と単純に受け取ります。

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  • ベストアンサー
  • ctaka88
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回答No.14

これは回答ではありませんが、 >(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》-と切ってしまっているので  以下、「そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。」という疑問になってしまうのではないでしょうか。 ここは「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、」までがひとまとまりでこれについては 第十一条に「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・」とあるように、「念仏まうさんとおもひたつたこころのおこる」のも「弥陀の誓願不思議」のうちに含まれているのですから、衆生(人間)からのはからいはあり得ないと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ctaka88さん ご回答そしてよきアドバイスを寄せていただきありがとうございます。  まったく おっしゃるとおりだと読み改めました。その説明は 直前の補足欄に述べましたので よろしかったら ぜひ目をとおしていただきたく思います。  そして そこには なお課題があるかにも思いましたので つづってみました。いま ふたたびみたび考えなおしてみますと こういうことになるでしょうか? すなわち  ▲ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ この場合に 次のように解釈することになるでしょうか。  〔なお 訂正があります。誤 おもひたつたこころ → 正 おもひたつこころ です。すみません〕。  ○ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと≫ その《不思議》に着目しつつ ≪ 信じて ≫ どこからか なぞの力を与えられてのように 非思考なる心の伸びを感じ これを促され その受け取り=受け容れ=自覚のあとに ≪ 念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ と読むべきでしょうか。  わたしの感覚では 神と変わりないように思えるのですが どうなのでしょうか。そして 他の宗派の信仰形態や如何に? という課題も 見え隠れします。  ありがとうございました。たいへん おそわりました。よろしければ 今後とも おしえてください。

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その他の回答 (31)

noname#96295
noname#96295
回答No.22

門前払いどころか、私は親鸞に関して門前の小僧ですらありません。 学生時代から進歩のない通り一遍です。 それにしてもまず、はからいという語を、本来の意味に従い「取り決めておこなうこと」「処置」とお考えでないのは腑に落ちません。  阿弥陀が決めて行うことが、阿弥陀のはからいであり、 文盲極貧のうえ分別も明るくない人々が、決めて行うことがあれば、それがその人々のはからいであると。 はからいは善悪かどうか最善かどうかの問題も含まず、選択かどうかの問題も含まずに、意味が成り立つでしょう。 百回の意思、百万回の意思、百億回の意思のたゆまぬ反復が起こり得る、 場処と言うのか、契機と言うのか、そこに、一回性の性質のものがあるでしょうが、 一回性のうちには全体を見通す光・明哲はなく、 人間に可能である弱い光があると思います。 対象化とは、きわめて難しいものです。これは認識していただきたいと思います。 われわれの主観の勝手な記憶と予測が、かろうじて対象を対象たらしめていますが 智明に照らされた、顕の側に表れ尽くしたものの「代わりとして」、 一回性において代替される手段 が、対象に近付くメソッドなのです。 言葉もそのようにあり、宗教の儀式やイニシエーションというのもそのような性質のものですが 親鸞の場合の念仏もまた、代替された手段ではないかと思います。 一回性の弱い光には、自発的な意思があってよいし、むしろなくてはならないでしょう。 全体の対象化というのは、なるほど一見小説家や政治家には行をとおして接近しなければならない技能と見えます。 しかし過去の結果が今わかり、未来の結果が今わかる、という目を持っているのは 神託だけと昔からドラマトゥルギーが決まっています。 行為、はからいの全体は、おこなう人間には不可知です。 小説家や政治家は多分に錯覚を見る職能でしょう。掌握しているのはイマーゴやイデアであって、これらを絶対視するものでしょう。 阿弥陀が祈りの対象ではない、阿弥陀のはからいを信じて阿弥陀仏を唱える、 この一回一回のことがらが、対象見えなき不安をよく埋め合わせるものとなっている、巧みな仕組みと思います。 とまあ所感を述べただけですが。 「悪人正機説とキリスト教の原罪」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1505325.html というのがありましたがご覧になっていますか。

noname#80116
質問者

お礼

 しかも そのさらに寸前に 如来のはからいによって=すなわち 人間による何の表象も思考も行為もなく なぞの一瞬において こころの伸び(あるいは ひらけ)が起こったということではないでしょうか。これを受け容れたということではないでしょうか。これが 《信じる》という行為です。受け容れるのは 大きく言って はからいです。  ですから 《念仏》と《信仰(その成立)》とは 前後関係があると考えるのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  阿弥陀が祈りの対象ではない、阿弥陀のはからいを信じて阿弥陀仏を唱える、  この一回一回のことがらが、対象見えなき不安をよく埋め合わせるものとなっている、巧みな仕組みと思います。  とまあ所感を述べただけですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう事例も よくあるようです。詳しくは  ○ 阿弥陀のはからいを〔聞き及んでいたが ふと そのことと符合するような事態に陥り その事態を受け容れ〕信じて阿弥陀仏を唱える、  ☆ というのが 基本的な方程式だと考えます。  ★ Q:「悪人正機説とキリスト教の原罪」  ☆ については 今回読んで 無難なところを説明しているとは思いました。もう少し細かく明らかにすべきでもあるでしょうね。すでに間接的に触れたことがらもありますが いま一度 問題点を指摘していただいてからにしたいと思いますが いかがでしょう。(字数制限の関係も)。  課題として挙がった主題については amaguappaさんご自身が 質問――というのも おかしいでしょうが――に取り上げられるのも よいのでは? ここで つづけて 取り上げてくださっても構いません。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん 来ましたね。まづは ご回答をありがとうございます。  来ましたねと言いましたが それは 全体として ご見識の広さと深さに対してでありまして この質疑応答の核心部分では なお再反論いたしますので よろしくご査察くださいますようお願いしておきたいと思います。  あの野営していた羊飼いたち――たぶん無学文盲――に最初に かの人の誕生が告げられたのです(ルカ2:8-20)。虚構としてでも そう 記されたわけです。    むろん かれらのはからいによってではなく しかも何者かのはからいを受けて 自分たちの自由意志によってこれを受け容れた結果 飼い葉桶の中の乳飲み児を見ようと駆けつけたのです。  ここには 悪人問題も罪も原罪問題も ありません。それは まったくのなぞですが この謎を受け容れないほうが よほど なぞです。へそが曲がって折れて また 曲がっているのでしょう。(羊飼いたちが 悪人の要素を持たなかったのではなく 無原罪だというのでもなく それなのに その問題を通り超えて お告げがありました)。  これが 信仰の成立という事件です。  ★ 一回性(☆この問題は それとして 重要だと思いますが)  ☆ というよりは 《普遍的な〈はじめて〉》とでもいうべき体験だと考えます。この《最初〔のわたし〕》を そのつど 自乗して わたしの冪を作っていくのが 信仰の動態であり それとしての生の過程です。  ★ 一回性のうちには全体を見通す光・明哲はなく、 / 人間に可能である弱い光があると思います。  ☆ ということで よいのだと考えます。その《弱い光》――わたしたちの理性は 薄暮の明かりでしかないと言われます――であっても 《羊は よき羊飼いの声を聞き分ける》のだと思います。    ★ それにしてもまず、はからいという語を、本来の意味に従い「取り決めておこなうこと」「処置」とお考えでないのは腑に落ちません。  ☆ たしかに この場合(つまりいまの質問の場合) はからいの中の《思考》という要素だけを取り上げて 使っています。あるいはむしろ おっしゃるように  ★ はからいは善悪かどうか最善かどうかの問題も含まず、選択かどうかの問題も含まずに、意味が成り立つでしょう。  ☆ ということで 《表象》というただそのことだけを 取り出して来ているものです。蓮の花の咲く場面(天国で何人かのおとめによってかしづかれる場面)を仮りにでも表象するなら そしてそのことによって 念仏を申すなら それは ただの経験行為であるに過ぎないという批判 これを言うためだけのものでした。信仰が成ったあとに いろんな表象を描こうとも自由ですが 信仰の成立に関しては はからいがあっては おかしいということを言うためでした。  ですから  ★ 対象化とは、きわめて難しいものです。  ☆ の問題も 同じようなのでした。表象を伴なうのかどうか。伴ない得るという意味で 対象化し得るし する場合があると言ってしまったのです。もうひとつは  ★ 全体の対象化  ☆ に関連して まづ(1) ものごとを 全体として知ることと 全体をくまなく知っていることとは 別だという問題です。わたしは amaguappaさんを 経験合理性にもとづき 妥当な推論をおよぼしていく思考の持ち主だと 全体として 理解しますが そのamaguappaさんのそれ以外のことは 何ひとつ知りません。そういう意味での《全体の対象化》は あり得るのではないでしょうか。  (2) もう一つには 経験世界の全体を あたかもそれこそ神の目から見て 捉えるというのと そしてそうではなく ふつうにこの相対世界を 一人の人間として 全体として 捉えるというのと 二つの場合があると思われることです。その前者の例のごとく 全体の《完全な把握》のことを amaguappaさんはここで問題にしておられるように見えます。ですから  ★ 一回性 / 対象化(代替される手段)/ 全体の対象化 / はからい論  ☆ などは それぞれとして 重要であり 議論が俟たれますが いまここでは きわめて大雑把な定義〔の部分的な取り扱い〕で まづは 事足りるようには思うのですが いかがでしょう。    ★ 親鸞の場合の念仏もまた、代替された手段ではないかと思います。  ☆ これには 異論があります。  ● 「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・・」  ☆ まるっきり如来のはからいによって念仏を申すのなら それは 自動機械です。おそらく弥陀の称号のことを すでに聞き及んでいたのでしょう。その称名をふと思い立ったという事例を取り上げるなら その念仏という行為をおこなう寸前に よしやろうという判断があったはづです。自由意志のはたらきです。つまり はからいです。

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noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 A18の補足に呼応して。 ならば空感は不要です。 それは「無」でない何かを縛り付けておくためのモノです。 直感的コメントでして根拠は言葉には出来ないのですが。 それからお釈迦様は確かにスーパーヒーローですが「無」に関しては専売特許でなく、その観念を磨きぬいたインドの古典的哲学全体の勝利だと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ならば空観は不要です。  ☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  親鸞は そのような理論よりも 《信仰そして その現われとしての念仏(念仏をとおしての 人間関係 つまり 広くは 愛)》を推し出したのだと考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と述べたとおりだと 確かに 思います。ただ 《空観》は そのような信仰の動態としての生活ないし境地を 何とか分析し理論づけようとした結果であるとみれば よいかも知れません。  この経験世界で 人は ものごとを行ない これらは 社会現象となって現われる――そのような縁起共生の関係について ものの見方〔の転換〕だけによっても 境地に変化がある。つまりあるいは ものごとは すべて 有限で可変的だ。つまり 相対的なことなのだ。悪とか罪とか そのような観念ないし幻想によって 人びとは あまりにも(余分に) 突き動かされているのではないか。・・・というような議論ができるのだと思います。  それにちなんでは インド古代哲学は ブラフマンという実体 つまり 絶対者を立てますので ブッディスムの空観は それに異を唱えて出たのだと言われます。しかもインド哲学のほうは 人間の本質としての我(アートマン)は ブラフマンによって創造された存在でありつつ なおかつ その宇宙の根本原理(梵)と一体であると言います(梵我一如)。  空観を理性によって振り回すなら――つまりは 《空》という概念を あたかも真理としてのブラフマンと同じ観念としてのように 扱うなら―― それは 《空》ではなくなるのですから 戯論(けろん)なんだそうです。したがって  ★ それは「無」でない何かを縛り付けておくためのモノです。  ☆ つまり 《空》なる概念を 魔法の杖のごとく使って 他の概念をおさえつけ 議論をまとめ上げるとき それによって あたかも 世界が分かっているのだと威張りたいということのようです。よく見かけませんか。

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回答No.20

 brageloneさん  (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)の文章のご紹介ありがとう御座います。  自分の思いに大変確信を与えられるものです。  いろいろ埒も無い、余計なことを書きまして申し訳ありませんでした。

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回答No.19

 brageloneさん、私はけんかするつもりでなく、単純に思っていることを、ここ、皆様との公共的な場に、一応出させていただきます。  難しいことへの苦情と批判です。もっとやさしく、そして人生の力と喜びになることがほしいな、という勝手なお願いを込めて。  どうかお許しください。おとといから逡巡していたのですよ。  どもここは公共の場ですものね。私の思いも書いてもいいのですよね。この年ですんでけんかではないし、みなさんのことをどうこうというのではないのです。  哲学や思想家たちの本も少しは独学ですが読書してきましたが、ここの書式などの制限もあるのでしょうが、皆様のご論述はとても難しいですね。親鸞や臨済の公案の、バイブル、論語、或いは老荘(これは解説)のお話の方が、私には親しみやすく、理解できます。ロマン・ロランやラートブルッフを除いては、確かに翻訳のは難しいですね。 それにしても哲学はそういうものでいいのでしょうが、それって全く信仰や宗教からは遠くなりますね。  信仰って、宗教って、思考でもないし、演繹でもないし、学術ではないのではないかと存じます。どえらい都市や建築物、ないしすごい石碑をぶっ建てるものでもないのではないかと存じます。功績でも、偉業でもないですよね。  自律も、自も、他も、律も親鸞や念仏の行者さんは意識はしていなかったのでしょうね。  ただ南無阿弥陀仏、祖師、師の思いがこもり、それを運んでいる、南無阿弥陀仏しかなかたろうし、今も門徒さんはそうなのでしょうね。  自分はその中に入っていて、自分も世界も、世の中もみなそれで一体だということだけではないのでしょうか。全ては南無阿弥陀仏、教えだけ、信仰だけ。全部、阿弥陀様。  親鸞がすごい真理を、切実に、しかも簡単に、そしてやさしく提供しているのに、それを難しくする必要はないと思います。  やさしい当たり前のことを説明するのは、本当に難しいですね。  そういう世界と修行、精進。  自律はない。喰われる。そう神、人を食うという本を呼んで、多くの人にも紹介しました。http://ci.nii.ac.jp/naid/110006251104/ これって結構参考になりますよ。私も神に食われたい。  買って人に贈呈したこともあります。  この方は女性ですが、男の私は、神ににおいしそうに育ってきたな、それではそろそろ収穫して、食べてやろうか。といわれたら、これは本望ですね。  私は神にそのようにして食べてもらうために、多くの光と水、空気と土のおかげを頂きながら、成長していく精進を励みたいですね。念仏でもなんでも。  この南無阿弥陀仏って、祖師の親鸞やそのお師僧さん、多くの偉大なご先達のみなさんが一定のvibrationと意味をこめているものでしょう。  すごいですよね、これを哲学が分析し、論理的に認識するというのは知以上に沸々たる宇宙的思い、それが祖師以上に越えていなければ難解な文章での表現だけかも知れませんね。  すみません。どうかお許しください。brageloneさん、みなさん。

noname#80116
質問者

お礼

 次のような文章は (1) 美辞麗句をならべて 俗に言う《くさい》ゆえ また(2) 擬人法による表現は 子供だましだと間違われるおそれがあるゆえ 好みによって 選択することになるのでしょう。中身に反対するものではありません。  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。  おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ! あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて 見るべきものがある だがそれを見うるだけの者にまだ私はなっていない ということをお示しになりました。そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので 私は愛と恐れにわななきました。そしてあなたからはるかにへだたり 似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。  そのときはるかに高いところから    私はおとなの食物だ。    成長して私を食べられるようになれ。    食べると言っても 肉体の食物のように    おまえが私を自分のからだに変えるのではない。    逆に おまえが私に変わるのだ。 というみ声を聞いたように思いました。 (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。 私の出した質問のA13のbrageloneさんのコメントの引用です。 >縁起には その流れ・推移に 逆観と順観とがあります。すべて《無明(煩悩)》から始まって 《渇愛》の作用のもとに 悪循環をたどるだけではなく そうではなく 無明を《明知》に替え(――これは 《空観》によります――) 一転 順境にあって 世界のすべてに対処してゆく姿もあり得ます。 ギャグの延長ですが、 「俺の創ったドグマの住人になれ。」 言い換えれば、 「人生とはかくかくしかじかでござれ。」 このハンドルの切り方とは別にあるのが順境でしょうか。 この点が判れば大霊界のセールスマンとも縁が切れるかもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ★ 「俺の創ったドグマの住人になれ。」  ☆ これの典型的な事例は 例のオーム真理教ではないですか。  かれらも  ○ 順境 順観  ☆ を説いたはづなのですが。あるいは こういうことかも知れません。つまり 反対する人間を 自分らのドグマとしての順境に順応させるためだと称して ポアすることにしたと。つまり この現世では その順応が無理であると 勝手に決めて 来世においてなら 従順になるであろうと踏んだ。    と考えてくると 順境・順観と言っても ひとの説く数だけの内容があることになって たしかに この相対世界にあっては 定まりませんね。  それを承知で言うとしますと   ○ このドグマを押し付けようとするハンドルの切り方とは別にあるのが順境である。  ☆ と言えるでしょう。そして それは よく言う《空観》です。すべてを空と見る(もしくは 空の境地から 一切を 見る)なら すべては 無明から明知に転換して さとりに到るということだと思います。  親鸞は そのような理論よりも 《信仰そして その現われとしての念仏(念仏をとおしての 人間関係 つまり 広くは 愛)》を推し出したのだと考えます。

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  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.17

幾分かでもお役にたてたならうれしく思います。 が、brageloneさんはどうしても前後関係でとらえようとしているようですが、 >(1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為  というこの順番は分析的にすぎると思います。 時間的に見た場合、(1)から順番の場合もあるだろうし、逆に(3)から行として入って(2)(1)へと進むことも、これらが全く同時に生ずることもあるでしょう。 信仰とはどういうものかと 歎異抄にそって私なりに考えると次のようになります。 他力信仰の構造については、第一条、第三条、第四条および第十一条以下で明らかにされています。 私が問題にしたいのは第二条、第五条、第九条などにある信仰者としての生活態度(行)の問題です。 第二条は「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」 ここでは、ひたすら信じることが信仰なのだと理解します。しかもその信じることは理屈ではない、向こうからやってくるもので、それを受け入れるかどうかが問題なのだということです。キルケゴールのいう「つまずき」に最も近い問題と考えた覚えがあります。 第五条は「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」 この部分は、正法眼蔵随問記にあった(?)師匠が病床にあっても入宋すべきという話とともに、信仰は世間一般の関係・常識とは別次元のものという理解となっています。 第九条は「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」 ここは、信仰の揺れの問題であるとともに、信仰は行(念仏)の中にしかないという理解です。 信仰は一回だけの廻心によるもの(第十六条)ですが、それだけで信仰が続くわけではなく、信仰による「踊躍歓喜のこころ」がなくとも念仏が信仰を維持するということかと思います。 なお、日蓮に関連して若干。 日蓮聖人のものを直接読んでいないので見当違いかもしれませんが、 日蓮は 法華経の護持=菩薩道の実践 と考えていたと、私は理解しています。 従ってお題目を唱えることによって法華経護持を鮮明にすれば、誰でも菩薩なのでしょう。 これは、歎異抄第五条の後段とそう違わない発想のような気がします。

noname#80116
質問者

補足

 ctaka88さん ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰の持続  ☆ この側面に焦点をあてて ご見解をうかがった恰好だと思います。その意味では 《習慣》を掲げて 信仰を定義されたNo.15の amaguappa さんの説にも もう少し 光をあてて 取り上げるべきだったとも まづは 思います。  そうですね。今回は あえて 異なった見方をお伝えして 出来ましたならば 親鸞ないし信仰論の核心に迫ってまいりたいと 大それた目論見をしてみましょうか。  一言では 《信仰の持続》は 《そのつど 信仰の成立した原点に立ち帰ること》だと考えます。その意味で 時間的な・歴史的な前後関係におけるおのれの信仰〔その成立の時点ないし内容〕の位置づけは どこまでも重要であると考えるのです。 つまり  ☆☆ (1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為   ☆ という順番は 実際にどのようであったかを別として 基本的に このように整理することが出来るという意味で やはり 或る種の仕方で 基礎になるのだと思います。  この(2)の時点に 絶対なる者の歴史的な経験的な介入があったということです。つまりは こちら側の人間としての思惟や行為などなどのはからいは いっさい なかったということです。(信仰の受け容れとしての振る舞いはあります)。つまりは この世界において (2)の時点というのは まったく 人が思考しうる実行しうることがらは 関与していないという時空間です。  無ですが それを受け取る《わたし》は存在していますので いわば数としては《一》なるものです。わたしは この《何も無かった》時点において 一なる存在です。つまりは この信仰の持続ということは このわたしなる《一》を ふたたび・みたび 掛け合わせる行為になると思われます。一の連乗積を形作っていく過程が 信仰の動態であり わたしの生です。一の無限のベキは やはり 一です。    他者とは 互いに度し合う関係にあることはあっても 欺かれたり傷つけたりすることは ほんとうには ありません。欺かれるなら われ有りと言うでしょうし 傷つくのは おのれの無明によるのではあっても 相手の批判や中傷によっては あり得ません。また 互いに 同朋です。  キルケゴールの《つまづき》について 検索して 知った限りでは その見解が あたかもキリスト以前の状態にとどまっていると見ました。(わたしは かなり大きな風呂敷を拡げていますが)。  そもそも キリスト・イエスは しかるべき人に対しては 自分の存在が 《つまづきの石》となると言われています。《神の子 つまり 神 である》とすれば そんなばかな!という反応において 躓きになるでしょうし 《人間である》とすれば 何故あなたは 人と違って 《絶望》を味わわないのか?という疑問とともに 躓く人は 出ることになるでしょう。  そもそも 《弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑに》 絶望は 人間として 味わうことがあっても 悪無限なる絶望に陥ることはないでしょうし そして――これは 完全にドグマですが――キリスト・イエス自身が神であったなら 阿弥陀如来の或る種の仕方で 応身仏だったということになります。つまり 信仰の時点の問題として 《まったくの無根拠》のことです。《無が わたしに介入した》という事件のことです。  ★ 第九条は「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」  ☆ に関しては パウロに言わせれば 《日々 死んでいますが 日々 よろこんでいる。日から日へ 変えられる。一なる存在が 旧い者を脱ぎ 新しい者を着る》等々と言います。でも  ★ ・・・信仰による「踊躍歓喜のこころ」がなくとも念仏が信仰を維持するということかと思います。  ☆ 《信仰をとおして 愛がはたらく(または 愛をとおして 信仰がはたらく)》と言うときの《愛》が 《念仏》ということになるのではないでしょうか。ただし 《信仰》は もしすでに彼岸に達したのなら もはや 要らなくなっています。《信じる》必要はなく 《愛》ないし《誓願》の只中に わたしたちは 位置していると思うからです。信仰は要らなくなったのに対して 愛もしくは衆生済度は そのときにも なお はたらいているということだそうです。  ★ 日蓮は / 法華経の護持=菩薩道の実践 と考えていたと、私は理解しています。  ☆ ですから 《題目の唱え》や《法華経の護持》の前後関係において 《信仰》が成ったと言うのであれば われらが同朋であると考えます。  いかがでしょうか。なんだか 議論に巻き込んでしまった恰好ですね。

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回答No.16

私は 神という存在を、助けてくれる存在ではなくて、すでに助けてくれている存在という捕らえ方をしています。 (大雑把な言い方ですが) ところが、宗教時代というのが人間史の中にはあって、その時代を通過している時には、 神はさらに「助けてくれる」存在としてそこに帰依するといのが「一般信仰」だったと思います。 親鸞とかの時代は、ことさらその渦中であることを 彼らは悟ったところがあるかと思います。 時代に寄り添い、時代の「今」への賭けとして、彼らは信仰を選び、それならばそこに、まず「信じれる親」のイメージを描き、そこに絶対的に帰依しようという信仰の世界を  “その当時の「今」を生きる良心の発露”としてその時代に打ち出したというのが この前の私の回答の続きとして書こうと思っていたことです。 * 私自身の回答の力点は、「悪人正機説」ですか、その悪人や悪の存在も含めてのあるがままの世界の捉え方のあたりにありました。 過去は過去、過ぎ去ったこととして、悪もまたこれからの生の可能性としては善悪両方の要素があると見切り「今」をとらえてゆく生き方や、 慈悲というもののあり方を大きな目で捉えているのですから、 そこが重要だと思うのです。 そのことを自律して考えることが出きるならば それに越したことは無いという考えは私の中では変わっていません。 でも、当時の時代においては、信仰の形で《親》のイメージがどうあれまずはそこへの理屈抜きの帰依を求めた とう賭けだったのではないか?という捕らえ方です。 * 今回 すくなくとも親鸞は その時代にても存在の不思議を自覚していたとの見解がはっきりしたのであれば、 なおのこと、それは彼のような人の良心の気迫の世界を ここのあらためて思い起こさせます。 大勢の知識ある人たちを歎異抄が感動させてきたのだとすれば、それはおそらくその良心の発露のあたりの、時代を生き抜く魂としての美しさにあったのではないでしょうか? * もうひとつ、私が念仏に注目したことがあるのは、 右脳と左脳の問題のような地点です。  心に関して いくら当時複雑に考えてもそれは複雑さに輪をかけるだけの話(阿頼耶識論のそのへんのめちゃめちゃさがその証拠の一つです^^)それよりも、 念仏だ!とすることで、 もともとの自然本性の世界への帰化 あるいは感性の発達を促すことのほうが先決だと捕らえたのではないかと思ったからです。 しかし、今の時代にては、 私の考えではなのですが、 あらゆる多元的などこから進んでも 真実の自律の道に向かう 大きな度量に目覚める 新たな哲学的なコミュニティーが必要で、   その中で 悪も、あくまで単なる死刑廃止論とかではなく、その理解の深まりと合意のもとに、徐々に、過去はすべてすぎさらせて、 悪人にも同じように眠っている可能性を そのコミュニティーの教育の機会均等の輪の中に迎え入れる体制を 実際に勝ち取るという 力強い姿勢に、 親鸞の弟子達も あらたに目覚めるべき時代なのでは、 という考えなのです。 これは新約聖書の「左の頬も向けなさい」というキリストの言葉とも符号する地点だと思います。 このへんの 《現代における「今」の良心》の目覚めが重要だと思います。 * ほんとうに神への感謝の気持ちに目覚めたというのならば、 頼ることからは、現代人ならば自律すべき「時代」かと思うのですが。 でも そのためにも、《“権力ともつながりかねない《親》宗教”の卒業》にかんしては、 理論的にも哲学の方からは明確さをきびしく求めてゆくことはたしかに必要のようですね。 今回、そのへんの真摯な姿勢を こちらのほうこそ学ばせていただいた想いにもなっています。 そこは、こちらのほうがお礼をいわせていただくところです。  ありがとうございます。   気持ちがすっきりします。 

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。顕微鏡で見るように arayata333さんとわたしとの違いを捉えてみましょうか。  ○ 基本として 人は 救われ済みであり もう何も わづらうこともない。  ★ 私は 神という存在を、助けてくれる存在ではなくて、すでに助けてくれている存在という捉らえ方をしています。 (大雑把な言い方ですが)  ☆ ここが 原点であり 共通なのだと思います。クリスチアニスムの見方では   ● 《人の存在にとって その心に対する自己欺瞞である原罪が 存在にとって基本の問題であり そうだったが しかも この原罪は 贖われた。もはや 毒矢は取り去られ とげは抜かれている》  ☆ というところです。  そのあとで あたかも とげが抜かれたあとの傷痕の問題が わづかに 残っている。というわけで 長い目でみれば これは  ★☆ 《“権力ともつながりかねない《親》宗教”〔――つまり親に依りすがるような形態での憑依のごとき心性の現われを合わせ持つ理性の自己誇示 から――〕の卒業》  ☆ を用意しているし すでに その推移の過程に入っているのでありながら まだまだ 大きな課題となっている後遺症の問題です。  ここで それではというので ちょうど各論として たとえば哲学が出番になるのですが 次の(い)には 文句なしに賛同しつつ (あ)に対しては 自覚の過剰に陥ることはないかと感じられ (う)に対しては どこか理性とその精神主義のにおいが――従来のその種の思想に欺かれた経験からか――してくる部分が感じられるのです。  ★(あ) あらゆる多元的などこから進んでも 真実の自律の道に向かう 大きな度量に目覚める 新たな哲学的なコミュニティーが必要で・・・  ★(い) 悪も、あくまで単なる死刑廃止論とかではなく、その理解の深まりと合意のもとに、徐々に、過去はすべてすぎさらせて、悪人にも同じように眠っている可能性を そのコミュニティーの教育の機会均等の輪の中に迎え入れる体制を 実際に勝ち取るという 力強い姿勢に、 親鸞の弟子達も あらたに目覚めるべき時代なのでは、 という考えなのです。  ★(う) これは新約聖書の「左の頬も向けなさい」というキリストの言葉とも符合する地点だと思います。 / このへんの 《現代における「今」の良心》の目覚めが重要だと思います。  ☆ ひとつには 《自律》も《自立》も 基本は 絶対他力だと考えるものです。人生や生活が思うように過ごせるとは思っていないのです。出来ることは すべて 自力で やります。やりますが それでも 行ない切れないというなおまだ あの傷痕が 妨げとして 残っているという感覚があります。  《良心》を最大限に尊重し発揮するように生きる。生きるのですが その目覚めだけでは 非力であるという感触があります。《左の頬も向け》たなら その左をも殴られたという恐怖です。それは そういう悪(善の損傷・欠如 としての とげの傷痕)が なにを隠そう わたしの中にあるからです。  一介の善良な市民 つまり 善人にも見られる悪の問題――錯覚でありながら その幻想が なおまだ はたらくかにあるこの現実という生――を どうすべきか。  顕微鏡で見ようとして その世界をつづりました。  * 日本は みづからの軍事力によって 自国を守るべきだという議論を 一方の側の人びとは 朝まで生テレビで していました。悪と不信によって振り回される人間と国家の姿が みづからの心から去らないという訴えであるようです。

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noname#96295
noname#96295
回答No.15

習慣的におこなう という実践へ促されと思わずして促される、 単純明快な、信仰の全一の要素です。 現われた一つのかたちではなく、信心の起こりのすべてでしょう。 子に乳をはませる母のように無心にと。おこないを積むことが、結果たる全体です。対象化はできません。対象として認識はできません。 対象化は迷妄であり、執着し、忘却する、自我の一部の出来事です。 全体を対象化はできないのです。 対象化のないありようのなかで生かされることを実践するだけ という具合で、親鸞はよろしいのでは。 あいかわらず変わったキリスト者ですね。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん ご回答をありがとうございます。  amaguappaさんにしましては 中途半端なご議論ではないか。まづは こう感じました。特に 信仰の形態を―― つまり 一人ひとりの信仰形態を と言いますか いちおう神(無神)の呼び名によって 一定のおしえに 分かれていますが そのおしえ毎の形態を―― 類型的に認識するという目的を この質問は 掲げていますから それにとっては 途中半端のようにも感じます。  しかしながら 特徴となる味噌は  ★ 全体  ☆ という概念を用いて述べられたところでしょうね。類型論は 内実を問いながら 内実を問うためにこそ 数学ないし論理の問題に収斂するのだと考えるからです。  《全体》のほかには 日常性とその安定性――安定して 歴史を刻むところ――を取り上げて 内実を論じておられます。  ▲ 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと。  ☆ これに基づくからこそ   ★☆ 信仰の全一 および その動態としての日常習慣  ☆ がいとなまれる こう見ておられると受け留めました。    中途半端 というよりも あるいは 物足りない と言うのでもなく なおまだ論じ切っておられないと見られるのは   ★ 全体を対象化はできないのです。  ☆ この一文にあるでしょう。《対象化する・しない・出来る・出来ない》の主題であるでしょう。  ○ 全体は 対象化し得ます。それは 経験領域における経験行為ないし行為経験であり そうだからです。たとえ誉めたたえるべき無私・無心・無意識の行為であっても はからい(思考および意識)に――わざとですが そうしようと思えば―― 載せることが出来るものです。認識し得 対象化し得ます。  (小説家や政治家は あたかも悪魔と手を結んだかのようにして この《対象化》を敢行し その仕事を為すと見られています)。  ☆ 対象化し得るものごとを あたかも《自我を滅却せよ》と言うかのように 意識するなかれと言うのは 対策でもなければ 理論として正しくもありません。〔自我を滅却せよと言う自我がいます。それは 空観ではありません〕。  ★ 思わずして促される、 // 単純明快な、信仰の全一の要素です。 // 現われた一つのかたちではなく、信心の起こりのすべてでしょう。  ☆ ここが 中途半端です。《信じる》には 思考のように対象化しうる中身はありませんが その行為(信じるべきものを受け容れるという志向性のような行為)だけはあり その成り立った時点があるのです。  ★ 思わずして促される・・・信心の起こり  ☆ の瞬間が 歴史的経験としてあるはづなのです。それは 直前のANo.14で 明らかになりました。  ▲ 「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・・」  ☆ 如来とは 対象化し得ないなぞ〔の存在〕です。《念仏》という行為が挙げられていて 微妙な点も残りますが 要するに   ○ 信仰の始まりは 無根拠である。無根拠であり なぞであるが なぞとしての歴史経験において その起点がある。  ☆ と言っています。これが 信仰の類型論の求める解だと思うのですが いかがでしょう。  ★ あいかわらず変わったキリスト者ですね。  ☆ やっと《キリスト者だ》と見なされるようになりました。キリスト者であるかどうか その見なしすら なかったのです。  ○ 世界と歴史のすべては 神からの手紙である。  ☆ おそらく この命題が わたしを《変わった》者にしているのでしょうね。つまり それは 変と普通とが 一般に 逆になっていると わたしは見ているという意味ですが(自負ですね)。書簡や電話には 一度読んだら要らない手紙もあるでしょうが。  またまた 口調としては あたかも門前払いのごとくになってしまいましたね。amaguappaさんは 分かっていらっしゃるでしょうのに 世界という舞台で どう通用するかの視点を こと信仰に関しては 忘れていらっしゃる。忘れてよいと主張しておられるかに思われるまでの論調である。とお見受けしますが?  * 親鸞およびほかの思想家の信仰形態についても この質問にて いくらかは さらに検討してまいりたいと思っています。

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回答No.13

私のような、死の孤独と直接に深く対面した人間や 自然に哲学的にものごとを考える人たちにとっては、 神とか《絶対》は、何かそれに頼るとか寄りすがるとかいう“子供の「《親》」に対するような気持ち”とは別のものでしょう。 しかし、これは仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でも 昔から今にいたるまでまるでそれが信仰であるかのように、続いてきてしまっている信仰形態です。 《神様 仏様 御手にすべてをゆだねますから 弱い私を究極はお救いください。  苦しみも すべてはあなたの御旨のままにて …》 行き着くところもそんな感じの信仰?です。 ですので、普通は それが>信仰一般<の世界と受け取られてしまうのではないでしょうか? そちらのとっての>信仰一般<というのは、当然「あるべき信仰としての常識」と言った意味合いのものと思いますが、 それはbragelone様がすでにそれをあまりにも 常識として理解しきっているからだと思うのです。 文章にこだわるようですが、>次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。< の文の中の>信仰一般<という言葉は、誤解を生み出してしまうと思います。 あえて、それと知りつつの「いじわる」な書き方^^なのかもしれませんが、であるとすると、むむ、なんと言ったらいいのか? * まず、私の印象ですが、 親鸞にしても法然にしても、おそらく存在とはという思索から阿弥陀仏にたどりついたというような信仰形態を持っていないと思いました。 最後までは 歎異抄を今回読めなかったわけですが、 これでは、オコリザルさんが危惧する部分があっても仕方ない面のある宗教ですね^^。 地獄とか孤独ということをリアルに理解していたら、とてもこのような文章は生まれてこないからです。 しかし、この法然という師匠とともにならば地獄への道も辞さない覚悟というのは、この場合、阿弥陀仏がすべての悪をも包み込む《親》なのですから、まず地獄は実際には存在しないと考える地点にあります。 ただその確信のようなものを隠して表現してるつもりになっているだけです。 いずれにしても、 その《親》は、悪の因果をすべて知り、悪が存在するのではなくてそのような小さい心の閉じ込められた存在とか、哀れな人しかこの世にもあの世にもいないという信念を持った 大きな絶対的度量の《親》ですから、   これを信じきっても、そこから他宗とも悪とも争いはい起こらないということまで考えられる宗教になっているとも考えられます。 ほんとうはだから頼っていいというのではなくて、  そのような広い理解や度量にみずから目覚めて、 自律して自ら この世の「今」を生き抜くというのが よりこの世に必要とされる《信仰》一般の世界なのでしょうが、 むかしからの「信仰一般」の世界が 《すべてをお任せする信仰》となってしまっている以上は   そのお任せする《親》が、 絶対的な広い度量さへある方という想像を信じきるかぎり、その形の中では 一番いい宗教とも言えるかと思います。 日蓮は 一言で「念仏無間地獄」と言い切っていますが、 この「無間地獄」というのは、単に自律できていない状態のことを言ってるのではなくて、「無間」というように 人と人との間がそこにはなく けっきょく自分の中の「仏」に閉じこもって出てこれなくなってると揶揄しているのでしょう。 しかし、 では日蓮は その信者達を自律させられたでしょうか? またその題目は 自分の中の題目から脱却できるものでありえたでしょうか? 日蓮自体は優れた人だと思いますが、 たとえば鎌倉の刑上での首を切られる寸前の巨大な星の光とかの話が御親筆(本人が書いたもの)ではないと解かっているのに今でも どこの宗派も大事にしてるように?  みんな、やはり日蓮や仏陀を《親》としてしまっていて、同じように自分の中の《親》に頼っているわけです。 これがゆえに、日蓮が生きていたらびっくりしてしまうような争いは、むしろ日蓮宗の起こってしまったという結果を生んでいます。 そういう“《親》宗教”の卒業を そちらは埋葬の時とかいう厳しい表現で訴えつづけておられるのかと思いますが、 このへんは、《念仏》という 念じて唱えれば救われるというまさに《親》に頼り切るという宗教そのものですので、 この形で《絶対》か否かを問うのは、 数少ないであろうその頼り切ることを通じてすでに自律までたどりついたような仏教徒とかでないと、 この場合難しいのでなないかと思います。 だからと言って、 》 次の《信心》は、哲学的に厳密な意味での《信仰》というふうにほんとうに言えるのでしょうか? 《  というふうに まともに質問しても これもまた答えは得がたいということになりかねない、微妙な質問となってしまうのでしょう。 存在の哲学の伝播というものは、時として難しいものですね。 * (A)「請願不思議」というふうに「弥陀の不思議」という文でもないわけですので、これは「存在の不思議」という概念を持ったものでは、もともと無いと思います。 (B)「絶対的度量を持った《親》」というのと、そちらの言う存在の《絶対性》とは まったく別のものと考えます。  この場合前者でしかないと思います。 (C)「不思議」も「請願」も 《非思考、思考》の次元で捕らえられた文章ではないと思います。 (D)《念仏》は、単に《親》を呼ぶ 自らの心の中だけでの作業でしかないと思います。 * ほんとうは、このような信仰の仕方は、早く卒業できればそれにこしたことはない世界だとは思います。(こんな意見、“単なる偏見であって欲しい意見”ですが…。)

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  すぐ次のご回答をご覧ください。みごとに わたしは やられました。負けました。(もちろん 勝負をしようとしていたわけではありません)。そのご指摘を受けるまでは この今回のご投稿内容と同じく 《信仰》があいまいであると思っておりました。どうも そうではないようです。一本も二本もまいりました。  ★ ほんとうは、このような信仰の仕方は、早く卒業できればそれにこしたことはない世界だとは思います。(こんな意見、“単なる偏見であって欲しい意見”ですが…。)  ☆ その願いが 叶えられました。わたしも 一緒に。  《第十一条》を見過ごしていたのです。  そこでは まだ あいまいさが ないわけではありません。  ▲ (第十一条)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・弥陀の大悲大願の不思議にたすけまいらせて 生死(=迷い)を出づべしと信じて 念仏のまうさるるも 如来の御はからひなりとおもへば すこしも みづからのはからひ まじはらざるがゆへに・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っています。  ▲ 生死(=迷い)を出づべしと信じて  ☆ というところに たしかに そのように《〈輪廻〉を繰り返す世界を出る》という思考が はっきり 現われてもいますが その思考をも超えて 非思考=信仰が与えられたときには   ▲ 念仏のまうさるるも 如来の御はからひなり  ☆ だと言います。そして しかも さらにそのあとに  ▲ 〔如来の御はからひなり〕とおもへば すこしも みづからのはからひ まじはらざる  ☆ と言っています。  ▲ ・・・信じて / ・・・おもへば  ☆ という二段構えなのですが   ▲ みづからのはからひ まじはらざる  ☆ を 基本として 言っているとみました。  課題が残るとすれば 二点 考えます。  ○ わたくしが上で 《非思考=信仰が与えられたとき》という瞬間を 差し挟んだわけですが そのことを さらに きちんと明らかにすべきではないか。  ――つまり (1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為 という過程において (2)を 明確にすべきではないか。  ○ もしそうするなら――もしそう解釈して よいなら―― あとは (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か? については 然(しか)り という答えが用意される。(B1・2) 《仏性》は その《絶対》と同じ一つの《霊》のことだとなる。そのように 説明すべきではないか。  ☆ このようです。  * なお 日蓮が 念仏や他の宗派を批難したのは おそらく おのれの宗派のアピールのために過ぎないように 思えますが いかがでしょう。  * 《存在》論の系譜が 色あせたなどということは まったく 言っていませんし そう見られるべくもありません。  * こう見てくると   ★ 念じて唱えれば救われるというまさに《親》に頼り切るという宗教そのもの  ☆ が――それも 人間の弱さなのであって―― 基本は 《絶対他力》なる非思考にあると思えるようになってきましたが いかがでしょうか。

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回答No.12

 そうなんですか。一生懸命、ご参考にと、存じましたが、無視というご対応とおことばを、傷心のうちに受け止め、無駄にお時間とスペースをとったことを無念と存じます。ありがとうご座いました。  多くの方のすばらしいご回答を、かげながらお待ちしております。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ (ご回答No.7)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、ご質問の意味性についての理解とシンパスィが共有できない状況なのです。  意味がないというのが私の理解なのですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ を あらためて ご確認なさったものと受け留めました。

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    歎異抄を読んで、気になっていた文が有りました。 第五条 自分の父母のために 念仏をするのではない。 ならば、 お葬式で「盛大に行う葬式100万円、家族で行う葬式30万円」 執り行う葬儀は、極楽浄土への死者への往生の違いでしょうか? 第六条 師と弟子ではなく、ともに信仰の道を歩むものどうし。 寺院で階級の上下が有り上納金を納めるのは、師弟の差があるの ではないでしょうか? 後序① 信心する者には、上下・優劣がない。 死者の戒名に序列上下・優劣があるのは、お布施の多い少ない? 以上三点の質問をお答え願えませんでしょうか。 

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。