• 締切済み

ニーチェのツァラトゥストラはこう言った

ニーチェのツァラトゥストラはこう言った、第二部の「舞踏の歌」はどういった点で生と認識について語っているのでしょうか?分かる方教えてください。他にもこの章について分かることお願いします。

みんなの回答

  • easy_all
  • ベストアンサー率60% (17/28)
回答No.1

中公クラシックス「ツァラトゥストラ」は、手塚富雄氏の名訳で、ニーチェの 哲学+文学 の一体が、壮大に表現されています。 ここの箇所には、ふるえる位の感動があります。 人を束縛する必然を、生命への意思によって超克する超人が、 生きる歓喜を、生のいきいきした魅力を語る。 認識によって、生の謎を解こうとしても、底知れぬ沼に引き込まれてしまう。 超人は、ただ生を愛するだけなのだ。認識など、生きるための手段にすぎない。 だから認識を追い求めても、渇きは止まらない。ヴェールで隔てられながら、網ですくうようなものだ。

関連するQ&A

  • 「ツァラトゥストラ」 みずから進んで乞食となった者

    ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはこう言った」にかんする質問です。 第四章の8「みずから進んで乞食となった者」の最後あたりを見てください。 そこで、みずからすすんで乞食となった者がツァラトゥストラにむかって言っている、《もっと愛する一人》とは誰のことですか? 私はイエスのことを指しているんじゃないかと思うのですが、どうにもよく分かりません。 【問題箇所の引用】(ちくま学芸文庫、吉沢伝三郎訳) 「私のもっと愛する一人をのぞいては」と、みずから進んで乞食となった者は答えた。「ほかならぬあなたこそ良い方であり、およそ雌牛などよりも良い方なのだ。おお、ツァラトゥストラよ!」

  • 「ツァラツストラ」の翻訳はどれがベスト?

    ニーチェの「ツァラツストラかく語りき」を読もうと思っているのですが、翻訳がいくつかあってどれを買うか迷っています。読み比べてみたかた教えてください。

  • ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」について

    「神は死んだ」についてです。 何故にこの言葉が広まった?のでしょうか?ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人がいるのでしょうか? 自分で「ツァラトゥストラのかく語りき」を読んだのですが、その言葉はさほど重要な点ではないと感じましたが…

  • ツァラトゥストラ=ゾロアスターの理由について

    レポートでゾロアスター教について調べていた折に、ニーチェのツァラトゥストラは ゾロアスターのことだと初めて知りました(^^; ギリシア語とペルシア語だから とはいえ余りに違う言葉なので、同じ人名を指しているなどとはまったく知りません でした。 さて、私の疑問なのですが、なぜニーチェは自分の思想を述べさせる人物にゾロアス ターを選んだのでしょうか?ゾロアスター教の教義とニーチェの思想に共通点がある ようには一見見えません。いや、見えないのは私だけかもしれませんが・・・。 図書館でいくつかの本を見たのですが、この話はあまりに基本的すぎるためか、はっ きり私の疑問に答えてくれる本は見つかりませんでした。 この問題に対してのニーチェ自身の発言や、あるいははっきりとした理由付けがある 本などはないのでしょうか?もし、ご存知でしたら教えてください。 もちろん「ゾロアスター教の教義とニーチェの思想はこんな共通点があるからだよ」 というお答えでも結構です。哲学オンチなことには自信がある私にわかりやすくご教 示くださいませ m(__)m レポートの課題からはまったく外れた疑問になってしまいました。あぁぁぁ、レポート がんばらなければ。

  • ニーチェの言葉:著書のタイトル

    村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の一番最後に、 「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」 というニーチェの言葉が引用されているのですが、この言葉が収められているニーチェの著書のタイトルを知りたいです。 ズバリあればいいのですが、、 ちなみに私はまだツァラトゥストラしか読んでないんですけど、岩波文庫版の下巻p321に 「この世は深い。昼が考えていたよりも深い」という上記の言葉に近い一文があって、もしかしたらこの部分の意訳なのでしょうか??

  • ニーチェ入門の本

    先日実家に帰りまして、すっかり忘れていたのですが高校一年生のときの読書メモが出てきました(笑) メモには「怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ」という言葉と、ニーチェという名前、これは誰だろうという疑問が書かれてありました。 そこで皆様に教えていただきたいことは2点です。 1、この言葉がツァラトゥストラという本に書かれているということは調べたので、できれば購入して読みたいのですが、どの本がよいか分かりません。哲学の本を一冊も読んだことのない人間ですので、一番読みやすいものをご紹介下さい。 2、この機会にニーチェという人の思想について、いくらか知りたいと思います。ニーチェを知るにはとりあえずこの一冊、という手軽な入門書があれば教えてください。 活字を読むことに抵抗はありませんが、数十年前の訳本は外国語のように感じられてしまいます。物語のようにさらっと読めるものをお願いします。

  • 真理への意志

    ~~~~~~~~~~~~~~ 解説[編集] この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。 力への意志 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェの話題をするとなぜか わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、 真理への意志というか力への意志について 質問してみます。 力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか? すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか? ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか? それはどうしてですか?

  • 永劫回帰とは

    ニーチェの永劫(永遠)回帰という思想は「輪廻転生」とも違い、「まったく同じ一生を繰り返す」という考えだと思うのですが、これは「死んだ後もまた同じ生を繰り返す」という思想なのでしょうか? 「あの世」を否定するニーチェなので「生まれ変わる」とか「再生」のような思想は持たないと思うのですが、永劫回帰はどういう思想になるのでしょうか? 「ツァラトゥストラ」は大好きで何度も読むのですが、なかなか難しくて理解できません。後半になると比喩が深すぎて理解できなくなってしまいました。 詳しい方がいましたら、ご教授願います。 本やHPの紹介でもうれしいです。

  • ニーチェや、他の哲学(者)、について教えて下さい☆

    最近ニーチェについて興味が出て、wikiとか読んでいますが、やたらと『この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。』という注意書きが目に付くため、どこかで本を購入して読もうと思っています。 さしあたって、今後、ニーチェについてどの本を買うべきでしょうか? 目下、ニーチェについて自分が凄いなぁと思っている点は、それまでの形而上学とか近代西洋を、何というか、メタ的に見たところがかっこいいなぁと思いました。たしかマルクスもイデオロギーに関してその構築の過程自体にメタ的に着眼しませんでしたか…?そういったメタなところがかっこいいなぁと思います…。アホ丸出しな文章ですいません…。今は『善悪の彼岸』『道徳の系譜』あたりが面白そうなので読もうかと思っています。 ただ、愚鈍な自分の勝手な妄想ですが、こういった人は全てを分析しすぎて、自分の足元さえも分析して、発狂してしまうような、そんな1周回ってかっこ悪いところもあると思うので、ニーチェだけでなく他の哲学も読みたいと思っているのですが、なるべく回り道というか混乱が少ない順番で読んで理解していきたいと思っています。そういった意味で、哲学というジャンル?学問?の大まかな俯瞰図みたいな解説をおうかがいさせて頂けませんでしょうか?横軸としてニーチェの周辺、対する縦軸として時系列としてニーチェ以前とニーチェ以降、現代といった、2方向でお願い致します。 アホみたいな汚い文章で申し訳ございません… どなたかお時間ございましたら、お助け下さい…。 m(_ _)m

  • ニーチェの《生きる》からソクラテスのそれへ!?

     ニーチェ論において次のような課題つきの回答をもらったところ その次にかかげるような応答をしました。  この問答そのものを主題として問いたいと思います。    無条件にご自由にご見解を述べておしえてください。  ◆ 《或る回答》 ~~~~~~~~~~~~~  ニーチェの思想に対抗するなら  ソクラテスの思想になると思います。  「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  この「善く生きる」でしょう。  ソクラテスの自殺。  もしくは無理やり仏教の話題を出すなら  ブッダである、サーリプッタの自殺。  長生きしたゴータマ・シッダッタよりは  サーリプッタのほうが、生への執着を断っていると思います。  このヨーロッパとインドの自殺。  善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  さすがアイロニーの使い手のソクラテス。  結論が自殺なんですから。  ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ 《応答》 ~~~~~~~~~~  おおきな主題を投げ入れてもらいました。  てめえで考えよというところも 結果的にあるようですが それはわたしはいぢわるですからハッキリと言っておきますが  ◆ 善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  ◆ ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ というふうに触れておられるからには ご自身もこの主題を立てつつさらに問い求めるという姿勢でいられるものと思います。  そうですね。ボールはこちらのコートに入ったからには これはねじり鉢巻きで打ち返さねばなりませんね。  1.ニーチェにおいて《生きる》とは? ソクラテスの《善く生きる》とは?  ● (渡邊二郎:補論 ニーチェ――生きる勇気を与える思想)~~~~  もうひとつ 『悦ばしき知識』におけるニーチェのもっと恐ろしい言葉を掲げよう。     *註 《もっと恐ろしい》:この議論は次の《恐ろしい言葉》の指摘のあとを承けている。          《小さな復讐は たいていの場合 まったく復讐しない      ことよりも なにかいっそう人間的なものである》     ( Eine kleine Rache ist zumeist etwas Mensch-     licheres als gar keine Rache. )      (『ツァラトゥストラ』I 《まむしのかみ傷》)    《生きる( Leben )》とは 何かと言えば それは      《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》   ( fortwaehrend Etwas von sich abstossen, die sterben will )  である。したがって   《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》   ( grausam und unerbitterlich gegen Alles sein, was schwach    und alt an uns, und nicht nur an uns, wird )  である。それゆえ《生きる》とは   《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を   持たないこと》   ( ohne Pietaet gegen Sterbende, Elende und Greise sein )  ではないのか それなのに 老いたモーセは 《汝 殺すなかれ!》と言ったが それは矛盾ではないのか と ここでニーチェは仮借なく鋭鋒を振りかざして しかも問題の矛盾点を指摘したまま ぷっつりと断想を打ち切ってしまうのである(『悦ばしき知識』26)。  (渡邊二郎編解説:『ニーチェ・セレクション』 2005 pp.302 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  論者の言おうとするところは ニーチェが恐ろしく過激な言い回しを用いているが 真意はそこにはない。です。  そう見ておいて たしかにニーチェも《生きる》ことについて考えを述べています。  回答者さんの主眼点は しかももしたとえその定義をふくむ議論を受け容れたとしても なおその上に問題は《善く生きる》という主題がわれわれ人間には持たれているのだ。にありましょうか?  ◆ 「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  2. 《善く生きる》には 《自死》を避けることがむつかしいか?  しかも・しかも 《善く生きる》とき人は この人間の社会にあっては《自死》というかたちを取ることさえあるのではないか?  《アース役》を超えるか? の主題でもあるようです。  2-1. 幼い時からの親友でゴータマ・ブッダの同輩弟子であるマウドゥガリヤーヤナ(モッガラーナ)が死に臨むとき シャーリプトラ(サーリプッタ)は 《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》をせずに 自死をえらんだのか?  それとも そのときには《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を持たないこと》を実行し その考えをみづからにもおよぼしたのか?  あるいは もうそのときには じゅうぶんこの世を見たのだ じゅうぶん過ぎるほどわれは生きたと捉えたということなのか?  2-2. マウドゥガリヤーヤナにしても かつて間違った考えを持った人たちにそのマチガイを指摘したことの恨みを買って とうとう攻撃を受けたとき それは 受けねばならないとさとって暴力に甘んじたというのは シャーリプトラと同じような心境だったのか?  2-3. それにしてもゴータマ氏は 自分の寿命のことについて話をしたとき弟子のアーナンダがそうではなくもっと説法をつづけてくださいと言うべきところを言わなかったそのことを うらみつつ 死地に就いた。寿命を延ばすことも出来たが アーナンダの振る舞い(無反応)があったから もう生き続けない・つまり自死をえらんだ。というのかどうか。の問題。  2-4. おそらくアブラハムが長子イサクをいけにえにささげるという考えを持ったとき 大錯乱に落ち入り迷いに迷った挙句に得た結論。《人は他人(ひと)をもおのれをもころさない》。理屈抜きと言うべきか。公理と言うべきか。これが 人間の自由だと言うべきか。  ちなみにモーセはこのアブラハムの心なる《非思考の庭(信仰)》に火花を散らしたヒラメキの中身を《なんぢ ころすなかれ》と言いかえたのである。倫理規範としたのだ。このオシエなる形態とシンジルかたちとは別である。  2-5. ソクラテスの場合は けっきょく自分の弟子にあたる人間ふたりがアテネの町に害を及ぼしてしまった。人びとはその教師ぶりをうたがってとがめた。ソクラテスは――先ほどのマウドゥガリヤーヤナの場合ではないでしょうが―― このような自分の仲間としての弟子たちにしろ一般の市民たちにしろその咎めを受け容れ死刑のさばきにも甘んじた。のではないか?  おそらく《善く生きる》にしろ《生きる》にしろ アテネの町の人びとにおいてさらにさらに熟慮を持ち得た〔のにそれを打ち切った〕のではないだろうか?  3.  ● 《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》  ☆ これは 《あらゆる弱化するもの 老化するもの》というのは 《歳を取ることにおいていわゆる自然に反する考えや振る舞いをおこなうことによってシガラミを増し加えるかのごとく現われて来る老弱化のそのこと》であると採ればよいかも知れない。  つまり《者》つまりその老化する人間に対して《残酷で仮借ない態度を取る》のではなく そうではなく 要するに考えと行動について自然(ないし人間の自由)に反するようなマチガイに対して容赦なくこれを捨てるということ。そのマ(間)の違いをおのれの内面において捉えこれを自然本性への違反として(ないし人間の自由への違反として)みづから批判しこれを内的に棄てるということ。であればよいかも知れない。  《生きる》ないし《善く生きる》のささやかな議論でしたが 《2》は課題として述べて立ち止まり思惟をなお残しております。そのおあとがよろしいようで。  ~~~~~~~~~~~~~~~