• ベストアンサー

「ツァラトゥストラ」 みずから進んで乞食となった者

ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはこう言った」にかんする質問です。 第四章の8「みずから進んで乞食となった者」の最後あたりを見てください。 そこで、みずからすすんで乞食となった者がツァラトゥストラにむかって言っている、《もっと愛する一人》とは誰のことですか? 私はイエスのことを指しているんじゃないかと思うのですが、どうにもよく分かりません。 【問題箇所の引用】(ちくま学芸文庫、吉沢伝三郎訳) 「私のもっと愛する一人をのぞいては」と、みずから進んで乞食となった者は答えた。「ほかならぬあなたこそ良い方であり、およそ雌牛などよりも良い方なのだ。おお、ツァラトゥストラよ!」

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんちは これは多分「愛する人」=「乞食になった人」=「自分の事」です。 キリストではないです。

関連するQ&A

  • ニーチェのテキスト

    ~~~~~~~~~~~ ニーチェ全集11 信太正三 =訳 善悪の彼岸 道徳の系譜 ちくま学芸文庫 ~~~~~~~~~~~ 上記の本ですが、 『道徳の系譜』をドイツ語のテキストと比べてみようと ~~~~~~~~~~~~~ Zur Genealogie der Moral. Eine Streitschrift. Von Friedrich Nietzsche. --------- Leipzig. Verlag von C. G. Neumann. 1887. http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM ~~~~~~~~~~~~~~~ そのサイトのテキストを参照してみたら どうやら異なっているようです。 『道徳の系譜』の22のところを見てみてください。 私は、ちくま学芸文庫の道徳の系譜から ~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約聖書――さよう、これはまったく別物だ。旧約聖書にはせいぜい敬意を表するがよい。 ニーチェ全集11 信太正三 =訳 善悪の彼岸 道徳の系譜 ちくま学芸文庫 道徳の系譜 558ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ そのような文章を引用しましたが、 これが http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM そのサイトにはありませんでした。 どうなっているんですか? ニーチェのテキストは「原典」によってまったく異なるのですか? あと何故、私がこのような話題を取り上げないと嫌みや皮肉を言われるのですか?

  • ニーチェの書籍はどれを選ぶべきか

    図書館でその著作を借りるうちにフリードリヒ・ニーチェが好きになり、書籍をそろえようと思ったのですが、翻訳が入るという性質上、どれを選ぶかで迷ってます。 予算の問題などからとりあえず『曙光』以降を購入しようと思ってます。 今の時点では、借りて読んでいたのが『ちくま学芸文庫』なので、それにしようと思っていますが、他によい選択肢があれば教えてください。お願いします。

  • ニーチェの言葉:著書のタイトル

    村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の一番最後に、 「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」 というニーチェの言葉が引用されているのですが、この言葉が収められているニーチェの著書のタイトルを知りたいです。 ズバリあればいいのですが、、 ちなみに私はまだツァラトゥストラしか読んでないんですけど、岩波文庫版の下巻p321に 「この世は深い。昼が考えていたよりも深い」という上記の言葉に近い一文があって、もしかしたらこの部分の意訳なのでしょうか??

  • 聖書の記述 イエス・キリスト「罪のない者だけ石を投げよ」?

    ネットでこんな記述を見つけました。 ほぼ原文どおり、丸ごとまんまコピーだと思います。 ------------------------------------------------------------- ある時、イエスが弟子たちを連れて街中を闊歩していると、 一人の女性が民衆から石を投げつけられていた。 なぜこんなことをしているのかと、弟子が民衆の一人に問うと、 「この女は罪人だからだ」と答えた。 それを聞いたイエスは民衆にこう言った。 「ならばしかたがない。続けなさい」 そしてこう続けた。 「ただし、一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」 民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ、 石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。 ------------------------------------------------------------ ・・・罪のない者に石を投げる資格の話の教えだったかと思いますが、 こんな話でしたっけ(爆) 「変な話題の所」や「前後関係がなくただ貼られてる」ような感じで巨大掲示板系でしか見かけないので、おそらく原文を改変したのであろうと思いますが、 もっと言えば最後の一行だけ悪ふざけをしたのではないかと思いますが、うろ覚え状態なので何とも・・・です。 「この話はここがこう違う」や「原点は聖書のコレ」という引用ページも見つからず、ただ貼られてるページしか拾うことが出来ないので、 あの膨大な量の聖書のどこにあるのかも分からず、どう調べたらいいのか困ってます。

  • 「存在と時間」の一節について

    ハイデガー「存在と時間」について質問があります。 ちくま学芸文庫、細谷貞雄訳のp288~p289に「世界=内=存在ということによって本質的に構成される存在者は、みずから各自の「現」(「そこ」)を存在している。(中略)《ここ》や《あそこ》が可能であるのは、ひとえに、ある《そこ》(「現」)においてである。すなわち、《そこ》(「現」)の存在としてすでに空間性を開示している存在者が存在するときにである。(中略)この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現=存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在しているのである。」とあります。 私の素朴な感じ方から言うと、「この私」自身の存在が開示され、引き受けられているのは「ここ」においてである、と思うのですがなぜハイデガーは「そこ」だと言うのでしょうか。また「Da=Sein」の「Da」を「そこ」ではなく、「現」と訳すのは、どうしてなのか、またどのような意図が組み込まれているのでしょうか。 どなたかご回答をお願いいたします。

  • 愛情乞食って嫌われ者ですか?

    質問No.1463400の、回答に書かれているような生育環境と性格を持っている、と自身で感じつつ悩んでいる者です。 親も含めいろんな人にウソつかれて裏切られて.. アダルトチルドレンとかふれあい恐怖症候群とか、名前はどうでもいいんですが、症状としてはそんな感じです。 質問No.1463400の回答にある「覚悟して付き合って」くれる人が現れたら回復できる気持ちは十分に感じているんですが、それって周囲に期待しすぎでしょうか? 今まで愛情を注いで貰えなかった分を誰かが代りに与えてくれたら、って感じです。 すっかり自己嫌悪で、精神的にひきこもってます

  • 天は自ら助くる者を助くじゃないよ・・

    >自らではなく、人をが正しいと思います、お風呂で例えられるけど お湯をまえに押しやると回り回って、背中の方に流れが来る、此れが 正解なんだよ、努力なんか誰だってするものなんだ、人を助けると言う +αが大事なんだよ、いい事は人に分からぬようにやれ、此れも半分 だけ当たっている、目に見える所でも良い事をするべきなんだよ 溺れている人間を助けるには自ら飛び込んで助けてやるべきなんだよ そう思うんだけど、反論のある方はどうぞ、教えて下さいお願いします

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • ニーチェの《生きる》からソクラテスのそれへ!?

     ニーチェ論において次のような課題つきの回答をもらったところ その次にかかげるような応答をしました。  この問答そのものを主題として問いたいと思います。    無条件にご自由にご見解を述べておしえてください。  ◆ 《或る回答》 ~~~~~~~~~~~~~  ニーチェの思想に対抗するなら  ソクラテスの思想になると思います。  「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  この「善く生きる」でしょう。  ソクラテスの自殺。  もしくは無理やり仏教の話題を出すなら  ブッダである、サーリプッタの自殺。  長生きしたゴータマ・シッダッタよりは  サーリプッタのほうが、生への執着を断っていると思います。  このヨーロッパとインドの自殺。  善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  さすがアイロニーの使い手のソクラテス。  結論が自殺なんですから。  ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ 《応答》 ~~~~~~~~~~  おおきな主題を投げ入れてもらいました。  てめえで考えよというところも 結果的にあるようですが それはわたしはいぢわるですからハッキリと言っておきますが  ◆ 善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  ◆ ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ というふうに触れておられるからには ご自身もこの主題を立てつつさらに問い求めるという姿勢でいられるものと思います。  そうですね。ボールはこちらのコートに入ったからには これはねじり鉢巻きで打ち返さねばなりませんね。  1.ニーチェにおいて《生きる》とは? ソクラテスの《善く生きる》とは?  ● (渡邊二郎:補論 ニーチェ――生きる勇気を与える思想)~~~~  もうひとつ 『悦ばしき知識』におけるニーチェのもっと恐ろしい言葉を掲げよう。     *註 《もっと恐ろしい》:この議論は次の《恐ろしい言葉》の指摘のあとを承けている。          《小さな復讐は たいていの場合 まったく復讐しない      ことよりも なにかいっそう人間的なものである》     ( Eine kleine Rache ist zumeist etwas Mensch-     licheres als gar keine Rache. )      (『ツァラトゥストラ』I 《まむしのかみ傷》)    《生きる( Leben )》とは 何かと言えば それは      《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》   ( fortwaehrend Etwas von sich abstossen, die sterben will )  である。したがって   《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》   ( grausam und unerbitterlich gegen Alles sein, was schwach    und alt an uns, und nicht nur an uns, wird )  である。それゆえ《生きる》とは   《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を   持たないこと》   ( ohne Pietaet gegen Sterbende, Elende und Greise sein )  ではないのか それなのに 老いたモーセは 《汝 殺すなかれ!》と言ったが それは矛盾ではないのか と ここでニーチェは仮借なく鋭鋒を振りかざして しかも問題の矛盾点を指摘したまま ぷっつりと断想を打ち切ってしまうのである(『悦ばしき知識』26)。  (渡邊二郎編解説:『ニーチェ・セレクション』 2005 pp.302 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  論者の言おうとするところは ニーチェが恐ろしく過激な言い回しを用いているが 真意はそこにはない。です。  そう見ておいて たしかにニーチェも《生きる》ことについて考えを述べています。  回答者さんの主眼点は しかももしたとえその定義をふくむ議論を受け容れたとしても なおその上に問題は《善く生きる》という主題がわれわれ人間には持たれているのだ。にありましょうか?  ◆ 「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  2. 《善く生きる》には 《自死》を避けることがむつかしいか?  しかも・しかも 《善く生きる》とき人は この人間の社会にあっては《自死》というかたちを取ることさえあるのではないか?  《アース役》を超えるか? の主題でもあるようです。  2-1. 幼い時からの親友でゴータマ・ブッダの同輩弟子であるマウドゥガリヤーヤナ(モッガラーナ)が死に臨むとき シャーリプトラ(サーリプッタ)は 《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》をせずに 自死をえらんだのか?  それとも そのときには《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を持たないこと》を実行し その考えをみづからにもおよぼしたのか?  あるいは もうそのときには じゅうぶんこの世を見たのだ じゅうぶん過ぎるほどわれは生きたと捉えたということなのか?  2-2. マウドゥガリヤーヤナにしても かつて間違った考えを持った人たちにそのマチガイを指摘したことの恨みを買って とうとう攻撃を受けたとき それは 受けねばならないとさとって暴力に甘んじたというのは シャーリプトラと同じような心境だったのか?  2-3. それにしてもゴータマ氏は 自分の寿命のことについて話をしたとき弟子のアーナンダがそうではなくもっと説法をつづけてくださいと言うべきところを言わなかったそのことを うらみつつ 死地に就いた。寿命を延ばすことも出来たが アーナンダの振る舞い(無反応)があったから もう生き続けない・つまり自死をえらんだ。というのかどうか。の問題。  2-4. おそらくアブラハムが長子イサクをいけにえにささげるという考えを持ったとき 大錯乱に落ち入り迷いに迷った挙句に得た結論。《人は他人(ひと)をもおのれをもころさない》。理屈抜きと言うべきか。公理と言うべきか。これが 人間の自由だと言うべきか。  ちなみにモーセはこのアブラハムの心なる《非思考の庭(信仰)》に火花を散らしたヒラメキの中身を《なんぢ ころすなかれ》と言いかえたのである。倫理規範としたのだ。このオシエなる形態とシンジルかたちとは別である。  2-5. ソクラテスの場合は けっきょく自分の弟子にあたる人間ふたりがアテネの町に害を及ぼしてしまった。人びとはその教師ぶりをうたがってとがめた。ソクラテスは――先ほどのマウドゥガリヤーヤナの場合ではないでしょうが―― このような自分の仲間としての弟子たちにしろ一般の市民たちにしろその咎めを受け容れ死刑のさばきにも甘んじた。のではないか?  おそらく《善く生きる》にしろ《生きる》にしろ アテネの町の人びとにおいてさらにさらに熟慮を持ち得た〔のにそれを打ち切った〕のではないだろうか?  3.  ● 《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》  ☆ これは 《あらゆる弱化するもの 老化するもの》というのは 《歳を取ることにおいていわゆる自然に反する考えや振る舞いをおこなうことによってシガラミを増し加えるかのごとく現われて来る老弱化のそのこと》であると採ればよいかも知れない。  つまり《者》つまりその老化する人間に対して《残酷で仮借ない態度を取る》のではなく そうではなく 要するに考えと行動について自然(ないし人間の自由)に反するようなマチガイに対して容赦なくこれを捨てるということ。そのマ(間)の違いをおのれの内面において捉えこれを自然本性への違反として(ないし人間の自由への違反として)みづから批判しこれを内的に棄てるということ。であればよいかも知れない。  《生きる》ないし《善く生きる》のささやかな議論でしたが 《2》は課題として述べて立ち止まり思惟をなお残しております。そのおあとがよろしいようで。  ~~~~~~~~~~~~~~~

  • 野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)

    野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫) を読んでいるのですが、どうにも理解できない部分があります。 (ちなみにいわゆる哲学は素人です。のため、『論考』を読んでも討ち死にです。) 『論考』における要素命題の独立性と野矢氏が?言うところの解説なのですが、  『論考』ではある要素命題から他の要素命題が導かれること、  あるいはある要素命題が他の要素命題と矛盾しあうということが説明できない。  むしろ積極的に、要素命題はお互いにそのような論理的な関係に立たないことを主張する。  『論考』のこの主張を「要素命題の独立性」と呼ぼう。(p.145) とあります。そしてその「要素命題の独立性」の解説として、  一般に、命題Aから命題Bが帰結するとき、  命題Aの真理領域は命題Bの真理領域に含まれている。  また、命題Aと命題Bが両立不可能なとき、  命題Aの真理領域と命題Bの真理領域は共通部分を持たない。(p.150) とあります。ここまでは理解できるのですが、直後の、  それゆえ、二つの命題AとBが相互独立であることは、両者の真理領域が  共通に重なる部分と重ならない部分とをともにもつこととして捉えられる。(p.150) とあるのですが、 なぜこれが要素命題の独立性と言われるのかが理解できません。 ここでの解説は「一般に」とあるので、これは『論考』そのものからではなく、 p.150の引用の最初のふたつをそれぞれ「包含関係にあること」「両立不可能」とすると、 みっつめの引用はそれ以外の可能性として「重なる部分もある」しかないため、 これを「独立性」と考えているのでしょうか? 重なる部分があるのになぜ独立と捉えることができるのでしょうか?