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スピノザの考えについて。

学校の授業で、哲学者たちの考えを色々と学んでいるのですが、スピノザ哲学がよく理解できません。哲学素人なので、わかりやすく教えて頂けると嬉しいです。 1、「人間には、自分の存在を保持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。」 2、「われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)。」 上記二点がよく分からないんです;特に2、は「直観知」と関係しているようですが、そもそも直観知とは?また、直観知と2、はどう関係しているんでしょうか? 本やネットで探しても難しい説明ばかりで・・・。よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
回答No.3

質問者さんは高校生の方ですか。 高校生の方ぐらいを想定して、できるだけわかりやすく書きます。 ちょっと正確ではない部分もあるので、もし学部の方でしたら、こんなところで質問をせずに、先生に聞いてください。 まず、これはスピノザの主著『エチカ』に出てきます。 『エチカ』の正式なタイトルは「幾何学的順序で証明された倫理学」、これを見ただけで、あるていどスピノザがやろうとしていたことがわかりますね。「倫理学」つまり、道徳と言ってもいいと思いますが、道徳的なことがらを、まるで幾何学の証明をやっていくように、論理的にやっていこうとしたものです。 > 1、「人間には、自分の存在を保持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。」 こう書くとむずかしそうなんですが、これはそんなにむずかしいことを言っているわけではありません。 「自分の存在を保持」というのは、自分を傷つけたり損なうことなく生かそうとしている、ということです。あらゆる人間は、自分が傷つけられたり損なわれたりすることなく生きていたいと願っている。そうして、それ以上のことを望むことはできない、と言っているのです。 この存在するという目的のために、必要なものを求めるのが欲望です。 わたしたちがふつうに使っている「欲望」とは意味がちょっとちがいますが、「食欲」とか「睡眠欲」みたいなものを考えると、たしかに欲望の根本にはそのことがあるとわかりますね。 スピノザは、この欲望が「人間の本質そのもの」(第四部定理18の証明)と言っています。 さて、スピノザの思想の最大の特徴は、本当の意味で存在するのは神だけである、という点です。人間の精神も、身体も、物体も、神の延長としてある、と考えたのです。ひとりひとりの人間も、鳥も、石ころも、葉っぱも、空も、川も、すべて神の「様態」(さまざまな現れ方)にすぎない、というのです。こうして、神とその様態以外の何ものも存在しない、と考えるのです。 > 2、「われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)。」 というのは、鳥や、石ころや、葉っぱのなかに、神を見いだす、ということです。 これはどういうことなんでしょうか。 人間は、外的な原因によって、さまざまな感情が生じます。たとえば「怒り」はその人の存在を損なうものです。自分の存在を損なうような感情に引きずられまいとする欲求がその人のうちに生じる。こういうとき、人間は「自由」になる、と考えます。このように、真の自己保存の欲求は、人間の認識を発展させていきます。 こうしてわたしたちは、自分が神のなかにあるものと発見することができるようになる。 そうすることで、わたしたちは自分が孤立した無力なものではなく、神のなかに同化したものと見いだすにいたるのです。 直観知というのは、ここでは簡単に言ってしまえば、神を見いだすということです。 神の存在をこうだからこう、とか、ああではないから、きっとこうなんだ、というふうに、推論によって導くのではなく、わかりやすく言ってしまえば「ぱっとわかっちゃう」ということ。 以上、参考まで。

030508
質問者

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遅れてすみませんでした。お忙しい中回答ありがとうございました! あと、私は大学生です;先生にも質問してみます。 

その他の回答 (2)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

梵我一如と同じ考え方じゃないかと思います。 宇宙を支配する原理(梵)をサンスクリット語でブラフマン。 そのブラフマンから出た結果(梵の延長)がアートマン。 私(我)は、あくまでブラフミンの延長なので、梵と我は同じ。 という考え方。 私は神とは、万物の法則のことだと思っています。 この万物の法則と合致しないものは、この世の中に存在しない。 万物の法則に善悪や意志は無い。 >われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)。」 私たちは主に科学の分野で、この世の有り様を理解していきます。 例えば、狂犬病は祟りじゃなくて、ウイルスが原因。 脳の中に進入して、狂ったように人がなってしまう。 昔は「祟られた 隔離しよう お祓いをして住んでいた人に家を焼き払おう」だったが、今じゃ原因わかっていますので、ワクチンがあります。 原因を解明したってことは、万物の法則のひとつを解明したってことですね。 神が祟ったのではない。 こういうのは、研究していけば、原因がつきとめられ、発生する前に予防をすることができるようになる。 ところが、心の問題に関しては、まだまだよくわからない。 旧約聖書や哲学の本を読むと、盛んに幸福について「こうか?」と万物の法則を発見しようとしていたことが伺えるが、未だに解明できないでいる。 中には、「神は我々を愛していたので、我々の罪をすべて消し去るために、自ら死んでくれたんだ」とか、おっとーーな楽な考えをして、万物の法則がわかった気になっている人もいる。 <狂犬病にかかった人は、神に呪われた人だ>と考える人と同じ低レベル。 迷信ですね。 本人は直感でそう思えたと思うだろうが、分析すると、何らかの思想の影響を受けてそういう考えになったのかわかる。 この分析も、万物の法則の一部を理解する行為。 もし、同じ古代文明の宗教の影響を受けながら、そうは思わない人間になった場合、そのならなかった人を分析すれば、どこに差があり、ならなかったのかがわかる。 この差を知ることは、万物の法則を知ることにもなる。 病気もそうです。 同じ環境にありながら、特定の病気にかかる人と、かからない人がいる。 かからなかった少数派を分析することで、病気の原因がわかったりする。 多くのかかった人調べるのではなく、同じ環境のかからなかった人を調べる。 これで万物の法則の一部がわかる。 ペストが流行したとき、ユダヤ人のコミュニティーだけかからなかったことから、ユダヤ人がやったとされ迫害されました。 何故敬虔なユダヤ人コミュニティーだけペストにかからなかったのか。 簡単なこと。律法が彼らを守ったから。 おっとー な考えだと思うかもしれませんが、彼らは敬虔なユダヤ教徒だったので、一日1000以上の戒律を守っていた。 戒律の中に水で清めるというのがあり、常に水で清めていたので、病原菌が付着しても、すぐ洗い流していたから発病しなかった。 これが万物の法則なわけです。 キリスト教徒は律法のほとんどを否定したので、かかってしまった。 万物の法則に合致したので、ペストにかかった。 何故、「神は自分たちを愛していたから、自分たちの身代わりに死んでくれた」という思考になったのか。 死んで再生する古代から伝えられてきた神話を知らなければ、そういう考えにならなかったと分析できます。 そう思うに至ったってことは、その人は強く古代の神話の影響を受けて育ったゆえにそう直感的に思ったってことですね。 直感とされるものも、分析すれば、ちゃんと根拠がある。 原因ー経緯ー結果 の結果の部分だけを本人が認識して、原因・経緯を意識しないと、隠れた部分は無意識になるので、意識した部分しか認知できず、「直感」としか言えないわけです。 スピノザの言いたいことは、神としていますが、結局万物の法則のことで、我々は万物の法則のひとつであるってことですね。 梵我一如と同じ考え。

030508
質問者

お礼

遅れてすみませんでした。お忙しい中回答ありがとうございます!

noname#71168
noname#71168
回答No.1

 スピノザは、「全ての万物は神様の御蔭ですよ。」的な発想から始まります。  表現を柔らかくしますので、若干違うと思います(けど、こんな感じなんだぁと思って頂ければ)。  直観知とは、神によって、対象物(物質)と自分(精神)が繋げられたことを一瞬に理解してしまうこと。  もっと言えば、物と私が触れ合ったのを、神によって、(瞬時に)認識出来るということ。  っで、それ(直観知)が分かれば。 >われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)  が理解出来るかと。 要するに、触れる(物質の感覚が分かる)度に神がその場に宿っていると考えれば良いです。 >人間には、自分の存在を保持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。  は、説明出来無いです(書籍の丸写しになるので)。 先生に聞くのが一番良いです。  『スピノザの世界』という書籍を通読されるのが良いかと。

030508
質問者

お礼

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     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界      非経験の場  2. 非経験の場とは 非知として想定されている。    人間の現実      経験世界(経験事象)         可知(可感をふくむ)            既知            未知         不可知(知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。  7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。  10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。  顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。