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古墳か自然地形かの確認調査の方法

古墳か自然地形かを確認するための試掘を計画しております。具体的な方法についてアドバスください。 調査地点の地形の概況は次のような所です。 奈良県のある場所で平野部に張り出した尾根です。平坦地との比高差は約30m。 尾根の頂上は2m以下の低木や草が生え一部は地面が露出しています。調査にあたって大幅な樹木の伐採は必要ありません。 私が墳頂とするあたりはほぼ平坦地です。 尾根の中腹まで廃道と化した林道があり、林道から調査地点への道路はありませんが、数十Mの距離で小型のユンボなら到達可能な踏み分け道があります。 奈良県の遺跡地図では遺跡や古墳とは認識されておりません。並びの尾根の一つに直径20mの円墳とされる場所があります。 古墳か自然地形かを確認できれば良いので、なるべく小規模な試掘にとどめ、確認できればそこまでで調査を終わります。 トレンチを掘って確認をしたいのですが、具体的な調査の方法について教えていただけませんか。

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  • ベストアンサー
回答No.6

仮に掘削調査をしても、質問者ご自身で土層が判断できるかどうか問題でしょうね。 掘削を伴わないなら、ご指摘のとおり、地形測量も効果的ですが、お一人ではできませんから。 仮に質問者ご自身が盛土・人工的に丘陵掘削しているなどと主張しても信憑性の問題がね。 現地踏査だけで判断するのが一番早くて安上がりですが、文面からすると、「行政は動いてくれない」ということみたいですね。 行政を動かす方法のひとつはマスコミを使うか。新聞社・テレビ局に連絡して。 「新発見の大古墳! 民間研究者が発見!」っていう触れ込みで。 新聞社も誤報は出せないので、事実確認のために、行政サイドに確認をとるでしょう。 行政側は記者に何らかの返答をするでしょうから、その返答のために、現地踏査をするかもしれません。 ただし、「文化財保護行政として必要が生じた場合にはその都度に確認をします」という返答もあるかもですが、、、 (この場合は明確な返答は期待できませんね。) いずれにしろ、ご苦労様なことですね。 ※ 私個人としてこのような案件に現実として立ち会うのは極力御免したいです、、、

kusegaku
質問者

お礼

アドバイス大変役に立ちました。 ありがとうございます。

kusegaku
質問者

補足

ものすごく参考になりました。 じつは私が接触した行政や研究機関は >私個人としてこのような案件に現実として立ち会うのは極力御免したいです。 という事なのです。ありていに言えば「素人の妄想に、つきあってなんかいられるか」という事です。 したがって自分で発掘して証明するしか無いということです。 また最後はマスコミを使うしか無いと思っています。ただし今までは無用な混乱を避けるため、行政や研究機関とだけ接触を行ってきました。 dekirukana-ugoさんにもう少し付き合っていただければ、詳細な情報を送ります。 前に申し上げたキーワードで検索いただいたページに、私のメールアドレスを画像として貼り付けています。 「詳細送れ」とでもしてメールを送っていただけませんか。

その他の回答 (6)

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3635/18948)
回答No.7

垂直に掘り下げて高さ2メートル幅2メートルくらいの露頭を作ればおおよその見当は付くでしょう その地層と同じ地層が他の場所にあれば完全に自然地形です ひとつの層が厚いこともあるので地層がないからといって直ちに人口地形だとは断定できません

kusegaku
質問者

お礼

具体的な観察方法について、アドバイスいただきありがとうございました。

回答No.5

ANo.2の続きです。 奈良県で遺跡台帳に記載のない径150mの円墳が2基ですか・・・・。 いずれにせよ考古学やその地域の地質を熟知してない人が発掘などをすれば遺跡の解明どころか単なる破壊になってしまう可能性が高いので止めたほうがよいかと思います。 まずは地形測量をされてみてはどうでしょう。 50cm等高線で200~500分の1で作図すればもし本当に古墳であれば明瞭に同心円の等高線や段などが見えてくるはずです。 写真や黙視では見誤りは先入観で人口物と認識してしまうこともあります。 逆に古墳と認識されていたものが発掘調査の結果、自然地形であったこともあります。 現地も見ず、場所も知らない状態では確証はまったくわかりませんが一応私の見解を述べておきます。 現在確認されている国内最大の円墳は丸墓山古墳(埼玉古墳群・埼玉県行田市)で、それでさえ径105mです。 江戸時代から踏査がされている考古学の先進地域である奈良県において径150mの古墳が2基も見逃されているとは考えにくいことです。 また、土橋状のもので連結されているとなると古墳より中世の城郭か砦跡の可能性が高そうな気もします。

kusegaku
質問者

お礼

貴重なアドアイスありがとうございました。

kusegaku
質問者

補足

航空写真を見ていただきたいのですが。 OKウェブでは個人のURLへのリンクを禁止しているようですし・・・ Googleで「卑弥呼の墓発掘プロジェクト」と検索してみてください。 ご意見をお聞きかせいただければありがたいのですが。

回答No.4

周知の埋蔵文化財包蔵地(=遺跡地図に掲載されるなどしているもの等)ではないようですね。 どうしても掘りたいというなら、 地表面から30センチも掘ればベースの土が出てくるでしょう。 重機なら早いですが、傷をつけますよ。 手掘りでじっくりする方が望ましいと思います。 幅2m×長20mのトレンチを十字に組んだらどうですか? 何か出てきたたら、出土状況を保ったままで、市町村教育委員会の文化財保護担当へ連絡して、現地をみてもらってください。 捏造はダメよ。 しかし、夢があるというか、なんというか、ご苦労さまなことですね。

kusegaku
質問者

お礼

先ずは具体的な調査方法に付いてアドバイスいただき感謝いたしております。 資金がありませんので協力者を募って手掘りで幅1m、長さ3m、深さ50センチくらいのトレンチを掘るつもりです。50センチ掘れば自然丘陵か人工の盛り土か判別できると考えております。自然丘陵であれば、即調査は中止です。 もし包含層の中から土器片の一片でも出土すれば、私が行う調査はここで打ち切りです。 私は1.5m掘れば石室の天井石に達すると予測しておりますが、これ以上は私の力の及ぶ範囲ではないと考えるからです。 文化庁記念物課から地元教育委員会をつうじ奈良県に、届出を出すようにのとのお達しを頂きました。早速地元教育委員会に発掘許可申請を出したいと考えます。 貴重なアドバイス重ねてお礼申し上げます。

kusegaku
質問者

補足

アドバイスありがとうございます。 私も遺跡破壊はしたくないので、遺物が出土して人工の盛り土であることが確認できれば試掘は中止します。 現地教育委員会の担当者とはコンタクトを取っていますが・・・ 遺跡の確認調査を行政もしくは専門機関に要請する方法はありませんか? 写真を見ていただきたいのですが、直接のLinkは禁じられているようですので、Googleで「卑弥呼の墓発掘プロジェクト」と検索してみてください。

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.3

さしでがましいようですが、個人的な発掘はしないほうが良いと思います。 聞きかじりですが、遺物が出てもどこから出たかが重要なんだそうで、そのために基準点を決めて厳重な測量を行い、遺物の出土ポイントを確定します。これをしないうちは手を触れることもできず、文化財にもならないと聞きました。写真だけでは記録にならないとも聞きました。 私有地にあっても古墳などの文化財は国有のものだそうで、ことによったら遺跡破壊ということで刑事責任を問われ兼ねません。事前に教育委員会などに相談されることをお勧めします。ご一考ください。

kusegaku
質問者

補足

アドバイスありがとうございます。 現在地権者の確認、試掘を行う際の法的な問題等を調べています。 本当はしかるべき研究機関が、遺跡か遺跡でないかの確認調査をやってくれれば、素人が手を出す必要は無いのですが。 行政や関係機関を動かす良い手立てはありませんか?

回答No.2

丘陵上の古墳は、自然地形を削り、盛り土して墳形を作り出しているものが一般的です。 そのため墳丘周辺に周溝や段切りが施されている可能性が高いのでそうした遺構を見つけていくことで古墳か否かを判断していくことが出来ます。 その他、祭祀に使用した土器や後期古墳なら埴輪片などが出土すればそれも証拠になるでしょう。 トレンチ(試掘溝)は予想される墳形に対して直交するように設定するのが効果的です。 しかし、上記のことは古墳調査の初歩ですし、他の古墳調査報告書を見ればわかることです。 大学専攻生レベルの考古学的知識があればわかるようなことなのでそうした初歩的知識がない人が古墳発掘などをするとかえって遺跡を破壊してしまう可能性のほうが高そうな印象を受けます。 専門機関に調査を依頼するか、調査専門委員会を組織して調査指導を受けるべきかと思います。

kusegaku
質問者

補足

早速のアドバイスありがとうございます。 専門機関、行政、地元大学研究室にそれなりのアプローチをしているのですが、反応は極めて低調です。 唯一地元市町村の教育委員会担当者から、機会が在れば、個人的に現地踏査しますという返事を頂いているだけです。 最も専門家が取り合わないのはやむを得ないと思っています。なにしろ直径約150mの円墳ではないかと私が主張しているからです。しかも2基です。 尾根の山側を左右から掘り、円状に削りだしたうえで、尾根の先端に盛り土を行って墳丘を造ってます。尾根の背は墳丘に至る渡り廊下状に残されています。 短時間の踏査で詳しくは確認できませんが航空写真でも、現地踏査でも段きりらしき段が一段確認できます。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3635/18948)
回答No.1

あなたの所有地でなければ地権者の許可を取らなければなりません 自然地形か盛り土かの判断は地層を見ます 顕著な地層があれば自然地形です なければ人工地形だろうと推測できます

kusegaku
質問者

お礼

貴重なアドバイスありがとうございました。

kusegaku
質問者

補足

早速のご回答ありがとうございます。 もちろん地権者の同意許可を得た上で行います。 専門家が見れば、地山(遺物を含まない自然地層)か遺物を含む人工的な地層か簡単に見分けが付くものでしょうか?。 たとえば手掘りで50cmくらい掘ればおおよその判断は付きますか?

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