ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義とは?

このQ&Aのポイント
  • 一神教の信者だけが自殺を犯罪と考えているとされるユダヤ教系の楽天主義について、著者は関心を持っています。
  • 全ての宗教が楽天主義であるという通説がある中、一神教の義務づけられた楽天主義について詳しく知りたいと質問者は述べています。
  • 質問者は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教に限定した義務づけられた楽天主義についての解説を求めています。
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ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義とは?

ショウペンハウエル著、斎藤信治訳「自殺について」 その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宜うたあの方に対して余りに失礼な、というようなことではあるまいか。――もしそうとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発しているのである。 (1) これは「自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである」と認識している著者の記述の一節です。どうやら著者には、ユダヤ系の宗教には特有の楽天主義が存在するとの認識があるやに伺えます。今のところ、今日現在の全ての宗教は楽天主義であるとの私見があるので、一神教を単に「楽天主義」と形容した場合は読み流せます。しかし、唐突に「義務づけられた楽天主義」と形容されると素通りできません。 「一神教の義務づけられた楽天主義」とは何を指すか、その道に素養のある方々には心当たりがあるのですか。「一神教の」ではなく、「ユダヤ教の」、「キリスト教の」、「イスラム教の」と限定した「義務づけられた楽天主義」についての解説でも結構です。 (2)世間の通説なり思想界の定説として「今日現在の、全ての宗教は楽天主義である」との捉え方がありますか、ありませんか。通説や定説になっている事柄を自説のように記すのは滑稽なので、お訊きしておきます。 よろしくお願いします。

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回答No.3

No.1,2です。 >私は、彼が道義を説いたとは思っていません それは彼が「絶対的な人の生き方を説いていない。」ということならそうかも。 尚、彼は、、、こっちが早いか。    ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC ここの<自殺論>ってところ。 『セネカなどのストア派は回復の希望のない苦痛を忍ぶよりは自殺を推奨するものであるが、ショーペンハウアーはこれに対する共感を語ってはいる。反面では、自殺のもたらす個体の死は、けして意志の否定による解脱を達するものではない点、虹をささえている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行にすぎないとも説かれている。』 さらに、 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1164.html 『ショーペンハウアーの哲学は「意志の哲学」であって、「存在の倫理学」である。  その意志と存在は、第1には「共感」によって支えられている。第2に、この共感を動かす動機は「同情」(シンパシー)にある。まずはこの共感と同情によって世界があらわれてくると、みなされた。』 ちなみに、共感ってのは、同じ気持ちになることではなく、「そういう気持ちなんだ」と相手の気持ちがどういうものか<理解する>こと。 とうことからして、 >彼は自殺の肯定論者なのでしょう ううん。 松岡正剛氏のサイトの解説だと、      ↓ 『ただし、ここからは強靭な推理力が必要になってくる。なぜなら、これまでショーペンハウアーはしばしば誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、そのような、一見、逆説的な印象のなかでショーペンハウアーの「共苦の哲学」を語ることが、一般にはかなり難解だとみられているからだ。』 だそうです。 >ショウペンハウエルの説は、もう少し高尚で、「キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである、~」と言っています。 これは、支配者が、被支配者にそうあるべし と押し付けた結果 そうなったんじゃないか と。 一種の去勢。 去勢すると、被支配者は、はむかわないでしょ? 支配者に絶対服従になり、支配者がおかしいと気づきにくくなるでしょ? 2.ですけど、神話のイエスと、史実のイエスと考えて、どの話が史実で、どの話が古代からの神話のパクリか、分けて考える必要があると思うんですね。 1)ですけど、まず イエスって聖書にしか登場しないんです。 いろいろな歴史家が、その当時も含めた歴史の記録を残していますが、誰もイエスについては書いていない。 マイナーだったのでしょうか。 それとも、そんな人などいなかったから、当然いない人のことは書けなかったからでしょうか。 >自らを自らの意思によって十字架に赴かせた。     ↑ この部分は、神話の方が、理解しやすいかも。 自らの意思じゃなくて、万物の法則で、そうなっていたから。 ただし、地球のある地点から観測しないと、そうならない。 文章で説明するより、動画を見てもらった方がわかりやすい。 けど。。。。 リンク貼ると駄目なんで。 ヒントは、、ニコニコのZeitgeist 1/6 の10分後から。 2)は、ユダがどの惑星に該当するのかは、わかりませんが、ひとつの情報としては「うらぎり」と訳されたものが、その当時はそういう意味じゃなかった って何かの本で読んだことがあります。 「選ばれた」だったか、、、とにかく 裏切り者とはぜんぜん違う意味なのだとか。(忘れました。) 3)は 私もそう思います。 というか、イエスは実在しませんでしたが、、、、 イエス(ヨシュア記)では、異民族の土地を奪って、子供からなにから虐殺していますよね。 人を殺してはいけないが、神の命令ならOKなのか? いえ、この殺してはならない は、イスラエル人同士限定。 異邦人に対しては、10戒の法律は適用されないので、殺して処女だけ生かしておいて、子供をはらませた。 (聖書には、はらませた までは書いてありませんが。) で、キリスト教は、それを拡大して、イスラエル人以外にまでしちゃった。 でも、なぜか異邦人を殺している。 (十字軍とか、魔女裁判とかで。つまり、イスラエル民族限定だったものを、キリスト教徒限定に変えただけ。) メシアって油を注がれた者、つまり聖別された者って意味で、聖婚で女神の地上の体現者の相手に選ばれた者って意味だったと思えるんですね。 で、ギリシャ語には、その概念の語彙が無かったのか、救世主を意味する、キリストって翻訳したらしいんです。 ローマでは、救世主ユピテルがあがめられていた。 皇帝は、ユピテルの地上の体現者とされた。 ユピテルはゼウス。 キリスト教は、神をデウスと言う。 4) >新約聖書をもってキリスト教の経典として代用してしまうとは、キリスト教徒とは何と楽天家なのだろう。 うーん あっち方面の神話を用いたわけですから、、、 イエスがいたとされるより、何千年も前からあった神話をモチーフにしています。 が、もうそろそろ終わりですね。 動画をみれば、どうして終わりとされるのかが、わかります。 >新約聖書をユダヤ教の経典として認めないユダヤ教徒とは何と頑迷なのだろう。 ユダヤ教は、タンムズ神話を取り入れています。 毎年身代わりに生贄にされるタンムズ。 よき羊飼いタンムズ。 あの動画見ると、どうして毎年身代わりに生贄として、十字架に貼り付けになるという神話があるのか、わかると思います。 あっち方面では、そう見えるから。 本の紹介 ありがとうございます。 手に入れてみようと思いますが、松岡氏も難解で誤解されやすいと述べているように、彼の思想(言いたいこと)を理解するのが難しいみたいですね。

sono-higurashi
質問者

お礼

(補足欄から続く) 6 反応が乏しいのも立派な情報の一つです。唐突に「ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義」と言われても、多くの人には心当たりがなさそうなのが判りました。また、「今日現在の、全ての宗教は楽天主義である」というのも、世間の通説や思想界の定説とはなっていないらしいのが判りました。私固有の感じ方が一つでもあると人真似でないような気がしてうれしくなります。 7 そうそう、「ショウペンハウエルに対する印象は着包みさんと私では理解の深浅(浅が私。自明のことをわざわざ断る辺りが私の念の入ったところです)に違いはあっても、当面ほぼ共通しているのではないでしょうか」、こんなことを勝手に決めてはいけません。撤回します。共通しているなんて矢鱈に判断すべきことではありません。済みませんでした。 きょうこそは、きょうこそはと思いつつ誠実さと責任感の欠如からご返事がとても遅くなりました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

sono-higurashi
質問者

補足

1 ショーペンハウアーが自殺をどうみているかですが、 「彼は自殺の肯定論者なのでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・(a) 「無条件ではないにしても彼は自殺の肯定論者なのでしょう。」・・・・・・(b) 「無条件ではないにしても彼は自殺を否定してはいないでしょう。」・・・・(C) 私の言語感覚では(a)と(b)では随分違います。 私は(a)だとは思いませんが、(b)だとは思います。(c)くらいに緩和したほうがよいというなら従えます。 「自殺について」には次の記述があります。 (1)――自殺に反対せらるべき唯一の適切な倫理的根拠を、私は私の主著の第一巻、第六九節のなかに述べておいた。その根拠はこうである、――自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるものであるということ。 (2)~悪行にともなうところの倫理的非認というよりもむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞の念がかえってしばしばいりまじることであろう。 (3)我々には余りにも必要な最後の避難所なのであって、これは坊主どものただの命令などで我々からとり去らるべきものなどではないのだ。 質問人注)(3)は[異文]としてあって、初版にはなかったようです。 (1)からは僧侶とは別次元の観点から、彼が自殺に反対する考えをもっていたことが判ります。これは読み落とせません。同時に(2)、(3)もあります。(2)で言う通り、自殺者に対して倫理的非認の情が湧かないか希薄であるならば、自動的に(1)でいう反対の理由が消えるか希薄になるということです。時に嘆賞の念がまじると書く著者が全ての自殺は愚行であるというとすれば詐欺みたいなものです。嘆賞の念がまじる者は無条件では否定しないと読みます。 (3)では「最後の避難所」といい、「とり去らるべきものなどではない」と言っています。こう言いつつ「全ての自殺は愚行である」と主張するとすれば、それも詐欺みたいなものです。 以上、(a)ではないが(b)、(b)と言って悪ければ(c)までなら譲歩する所以です。 それにしても、(1)では悲哀の世界からの救済と言い(3)では最後の避難所という辺りからすると、ショーペンハウアーは自殺の要因を「苦からの解放」と捉えているのでしょうか。それとも諸々ある要因のうち「苦からの解放」に基づく自殺に限定して考察しているのでしょうか。自殺といえば「苦からの開放」としか思い浮かばない貧弱な発想だとすれば関心をもてません。苦からの開放の他にも表現・顕示・主張、闘争・抵抗、復讐・面当て、殉情、無理由、謝罪・処刑、政治的取引……、自殺の要因は様々あって、こちらには興味深いケースが混じっている気がします。そもそも自殺の是非なんぞという粗っぽい議論はできないというのが私の考えです。物分かりがよさそうで嫌な言い方ですが、自殺の是非は場合によりけりの最たるものだと考えます。 2 松岡某氏がどういう人物かは知りませんが、 “~誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、” これは無知な人間には反証を挙げられないのに乗じた嘘っ八だと直感します。ショーペンハウアーは18~19世紀の人間です。この時期までに『「自殺の擁護」の逆の哲学』を打ち出した人物がいなかったとは到底信じられません。これは「イラクに大量破壊兵器が見つからないからといって、それが存在しない証明にはならない」と述べて戦費を負担した論理と同じです。この種の人間には、「太平洋に竜宮城が見つからないからといって、それがない証拠にはならない」といっておきます。 3 氏の言う「共苦」と言う言葉にも私には一言ありますが、松岡某氏は私の同意を得るために書いている訳ではありませんし、私も氏の同意を得るために考えている訳ではありませんから互いに勝手を述べればよいでしょう。 4 Zeitgeist 1/6は観ておきました。イエスは実在しなかったのでしょうかね。脚色に脚色が加わっているにしても原型をなす人物くらいは存在しなかったのでしょうか。 5 私は21世紀の今日では自殺は究極の自由だと考えますが、日頃の関心がないので話題になると戸惑います。5万年前くらいだと倫理に悖ると主張するかもしれません。 (お礼欄に続く)

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回答No.2

No.1です。 >陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。 道を本当に説いているのでしょうか? ショーペンハウエルは、宗教側は自殺の否定の説明の根拠が不明瞭で、説得力に乏しいにも関わらず、「自殺は悪である。だからするな。 以上!」と、責任を放棄しつつも、するなよ と断言しているこの宗教責任者の罪を告発したのではないか と。 自殺した信者は、教会の管理する墓地に埋葬されません。 彼らは罪を犯した穢れた者とされるから。 フランダースの犬ってあるじゃないですか。 ネロは見捨てられ、教会の中で餓死したわけですが、私それを見て、どうして教会は助けてやらなかったのだろう?と思いました。 まあ、創作文学ですが、実際、マザーテレサが教会を去った理由も、同じですよね。 教会が恵まれない人たちに見向きもしなかったので、教会にいやけがさして、教会を出ていった。 私はイエスの磔刑の逸話は事実じゃないと思っています。 創作文学ですが、それにしても、イエスの死は、どうみても自殺ですよね? 自分で死ぬように計画して、仲間を説得して自殺した。 ユダは自殺ほう助をしたわけです。 その宗教が自殺をすることは罪で、天国に行けないというのなら、イエスは地獄に落ちているはずです。 信者 みんなでイエスの元に行くのなら、みなさん 地獄に行くことになりますね。 キリスト教が自殺を罪だとしたのは、殉教すれば天国に行けると思った人たちが多数出たことに、ストップをかけるため ですよね? イエスと同じことをすれば、天国に行けると思った信者が、自殺しまくった。 元い、自分が殺されるようにした。 布教を推進したあげくに殺された場合、殉教として、誉められた時代があったからですよね。 まあ 他にも奇怪な風習があったのをやめさせるためとか、神が人間の運命を決める権限をもっているのに、自分でそれを変更することが罪だ とか そんなのがキリスト教が自殺を罪だからダメだと信者に義務づけたわけですよね。 と、そういうこと言ったところで、何の良きことは出てこない。 もし ショーペンハウエルが仏教に出会っていたら・・・・。 その本 本屋で探したのですが、どこにも無くて、読まないことには、彼の真意がわからないと思っていたのですけど、、、  本屋に無いし。。。  ネットでもう一度探すか って検索かけていて、こんなん見つけました。  ↓ 『仏教経典にはお釈迦様が僧侶の自殺を認めた記載があります。 しかし前回お話し したように、お釈迦様は苦集滅道を説かれました。 ここで苦と翻訳された言葉は「思い通 りにならない」という意味です。 生老病死他の四苦八苦が生まれる原因は「愛欲と生きる 欲望と死の欲望の三つである」と説かれた。 これらの欲望が制御された状態が涅槃であり、 思い通りにならない四苦八苦を思い通りにしようと苦しむのを止めて、思い通りにしたい と思う自分の心の方を制御する。 従って仏教の僧侶は、自殺を望みはしないが、生きるこ とにも執着しないのであり、これは尊厳死の立場と共通するものです。 しかしこれは僧侶 の場合であって、全ての人に尊厳死を勧める訳ではありません。他人に対しては慈悲を実 践するのが仏教です。』 高みから下界を眺めて、「がんばれよー これは命令だ お前らの義務だ」って言うことは誰だって出来る。 そうではなくて、自ら下界に下りたち慈悲をかける。 このことに価値があるように、私には思えるんですね。 仏陀は高みに上がっていく途中で、下界に救われない人々がいると気づき、彼らを残して自分だけ行くべきじゃないと思い、上昇するのをやめ、下界に戻った という逸話がある。 ユダヤ教の逸話では、エロヒムとシェキナが天空を納めており、エルサレム神殿がローマ帝国により破壊されたとき、シェキナは地上に下りたとされます。 それ以降、天空はエロヒムが1人で納めているとなっている。 シェキナとは慈悲という意味もあるそうです。 慈悲があるのなら、自殺した信者も教会の墓地に埋葬すればいいのに。。。 そんなことしたら、信者の自殺率が増加する? 「そうじゃないでしょう 信者が自殺するのは、あなたがたに慈悲が無いからでしょう。高台から下りろ 馬鹿どもめが」と言いたい。 自殺した人を埋葬したら神が穢れると言うが、その程度で神が穢れるのなら、その神大したこたーねー と思います。 何もしなかったあげく、 汚い って。。。。 身勝手すぎる。 楽天主義ってのは、要するに高いところから下界を見下ろす何もしない幹部たちのことをさしているんじゃなでしょうか。 聖書にも足が萎えた幹部をイエスは痛烈に批判しています。 高い壇上から見下ろし説教をするだけの幹部をイエス作家は足の萎えた人 と批判している。 つまり、これらの宗教幹部者は 全員 地獄行きってわけですね。 イエスから嫌われているので。 イエスは存在しなかったと知って一番喜ぶのは、キリスト教の幹部たちでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

「補足欄」から続く 3 自殺と仏教といえばショウペンハウエルはこういっているので抜粋しておきます。 「またインド人のもとでは周知のように自殺は宗教的行為として出現してくる。――たとえば、寡婦焚死とか、ジャガノートの神車の轍の下に身を投ずるとか、ガンジス河や寺院の聖池などの鰐に身を捧げるとかいった風のことである。」 4 >>キリスト教が自殺を罪だとしたのは、殉教すれば天国に行ける~殉教として、誉められた時代があったからですよね。 こういう要因もあったのですね。今の私の知識では、そうかも知れないとしかいえません。話が発展せず張り合いのないことで済みません。一つの説として傾聴します。 5 >>楽天主義ってのは、要するに高いところから下界を見下ろす何もしない幹部たちのことをさしているんじゃなでしょうか。 これがキリスト教固有の楽天主義という訳ですね。これも4と同じで生返事しかできません。済まない事です。知識の基盤を共有している人同士ならビンと来るのかも知れません。 藪から棒で、説明もなく「義務づけられた楽天主義」なんて書いて欲しくないです。 6 自殺にもショウペンハウエルにも特に関心が有る訳ではありません。「安楽死」絡みで「ケオス島の棄老伝説」を追いかけていたら何時の間にか、この著作に辿り着いていたのです。桶屋さんの懐事情を調べていたら季節風の研究に行き着いたようなものです。 お薦めする訳ではありませんが絶版ではないようです。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/3/3363210.html。図書館と言う手もなくはなさそうです。 ご回答に焦点の合ったお礼にならなくて済みません。もうちょっと噛み合った返事が書けないかと躊躇っていましたが、あまり遅くなってもいけないので送信してしまいます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

sono-higurashi
質問者

補足

1 >>道を本当に説いているのでしょうか? ショウペンハウエルに対する印象は着包みさんと私では理解の深浅(浅が私。自明のことをわざわざ断る辺りが私の念の入ったところです)に違いはあっても、当面ほぼ共通しているのではないでしょうか。私は、彼が道義を説いたとは思っていません(事実は承知しません)。 私が記したANo.1の補足欄の2の真意を申し述べます。 適否は承知しませんがショウペンハウエルは自殺を否定しなかった著名人として、しばしば名を挙げられていませんか。どうかすると「しかし、彼自身は人生を全うした」なんぞという記述もあって、そんなに自殺を肯定するなら、さっさと自ら実行するべきだったのに、と言わんばかりの表現にすら出合います。無条件ではないにしても彼は自殺の肯定論者なのでしょう。私見では、これは彼が道を説く人物ではないからです。彼が道を説いたとは思っていません。 これに対して横丁の隠居、説教愛好家、我が輩は社会の指導者層を形成している一員であるぞよ、と勝手に錯覚している各界各層の面々……、こういう何処にでもいる街の道学者は道を説くのが大好きで、その結果、自殺を敵視します。多分、自殺をするのは我が輩の言うことを信じないからだという思い込みがあるからでしょう。また、自殺者が出るとお前の力量が足りないからだとか、お前の説教力が足りないからだと責める人間が現れることになりかねない、と警戒心が働くのだと想像します。これに属する最たる者が宗教家です。我が説教に従順であれば褒美が沢山与えられるぞよと説いているのに、自殺者はそれを信ぜず、あからさまに否定するからです。つまり理論上、説教人間は自己防衛の観点から自殺を否定するのが必然なのだと考えます。これが「道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。」の真意です。これは私の説です。 ショウペンハウエルの説は、もう少し高尚で、「キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである、~」と言っています。 以上、私見によれば宗教と自殺は敵対関係にあって当然です。ショウペンハウエルが何者かは知りませんが、僧侶が自殺を忌避・嫌悪するからといって、こんな当たり前の理由で僧侶を攻撃するなんて、この点だけで言えば彼の眼力も大したことないなぁ、と思ってしまいます。「陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。」、ここでいう「道を説く人」にショウペンハウエルは入れてありません。 2 >>イエスの死は、どうみても自殺ですよね? これは全く同感です。一例としてヨハネによる福音書11章45節以下を資料として次の仮説を立てています。 (1)ローマとその傀儡ユダヤ勢力の意向を汲んで、イエスは危険人物視されていた自らを自らの意思によって十字架に赴かせた。これによってローマの弾圧を緩和しユダヤ人の自治とエルサレムの神殿を守ろうとした。にも拘らずユダヤ戦争を防げずイエスの企図は水泡に帰してしまったのですが。 (2) イエス磔刑はイエスとユダの合作ではないのか。(1)のイエスの意図を最もよく汲んでいたのはユダではなかったのか。ユダの死はイエスへの殉死でないのか。後世の早い時期に、自殺は教義を心底からは信用していないことの表れだということに気付いて、イエスの死が自殺でないことにするためにユダに罪を擦り付けたのではないのか。 (3) 私が聖書を読む限り、イエスは人類の救済ではなくユダヤ人の救済のために生きたと思う。イエスが異邦人のために何かを成したという記述を聖書に見つけるのは難しい。イエスはメシアではあってもキリストではない。 (4)今の新約聖書の内容はユダヤ教の経典にはなっていても、ユダヤ教と敵対する宗教の経典とはなり得ないと思う。新約聖書をもってキリスト教の経典として代用してしまうとは、キリスト教徒とは何と楽天家なのだろう。また、新約聖書をユダヤ教の経典として認めないユダヤ教徒とは何と頑迷なのだろう。新約聖書を巡って捻じれ現象が起きているのは傍観者にとってトテモ、オモシロイ。 以上、俄か聖書読み、臆面もなく、ぺらぺらしゃべるの巻でした。 「お礼欄」に続く

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回答No.1

その本を読んでいないので、受け取り方が固定できないのですが、、、 >これは「自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである」 作者は本当にそう言っています? 昨日さーっと調べた限りにおいて、、、、 彼は「聖書には自殺が悪であるというは書かれていない。にもかかわらず、自殺が悪であるという認識を我々は持っている。 どうしてか、誰が一体 自殺は悪だとしたのか」と言っているとか、、、、」そんなことが昨日読んだブログに書かれていたような。 (すいません そのブログ探したんですけど、検索キーワードが違うのか、今日は出てこない。) 宗教団体が、信者に自殺してはいけない どんなことがあっても生きろと義務を与えたわけでしょ? 重病で、苦痛にのたうち、あと数ヶ月の命の人にも、臓器が完全に停止するまで自ら命をたつな、悶絶しながら痛みに耐えろ と誰が義務だと強制して、楽をしているのか。 「神様が救ってくれるから、苦痛に悶絶しちゃってくださーい、あなたに信仰心があれば、天国に行けるから~ まー がんばっちゃって 生きてくださーい。 神様が迎えにくるまで、決して神の計画を邪魔しちゃいけないよぉぉ それがあんたの義務だじょ~。 邪魔したら地獄に落ちますぞ~。天国生きたいでしょ~ じゃあ 痛みを絶つため自殺しちゃ駄目。」 って言い切って楽をしている楽観主義者って誰?

sono-higurashi
質問者

補足

1. 前半の >>作者は本当にそう言っています? にお答えします。 私の読解力によれば著者は、そう言っているし、またご覧のブログの記事もこれに必ずしも矛盾していないのではないかと想像します。私の見るところ、 ・ブログがいう「聖書には自殺が悪であるというは書かれていない。」は著者の見解に一致しています。 ・ブログがいう「自殺が悪であるという認識を我々は持っている。」は我々を、著者を除く「神学者たち」や「僧侶ども」の強い影響下にある市民一般と読めば、これも著者の見解に矛盾しません。 ・ ブログがいう「誰が一体 自殺は悪だとしたのか」の答が「一神教の宗教の僧侶ども」であれば、これも著者の見解に一致しています。 即ち著者の記述とブログの記事に矛盾が有りや無しやは、ブログのその他の箇所の記述次第だと判断します。 引用文の原文は PARERGA UND PARALIPOMENA: KLEINE PHILOSOPHISCHE SCHRIFTEN 1851 Arthur Schopenhauer の第2巻13章と推定します。第10~14章の何れかであることは訳者の跋文によって確実です。なお、質問文は岩波文庫P.73~P79の関連です。 この章、即ち「自殺について」は全4節構成で、1節は “私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らの禁令も、否それを決定的に非認するような何らの言葉さえも見出されないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。” こう書き出され、 “一神教の宗教の僧侶どもが、聖書によってもまた適切な論拠によっても支持されていないにも拘らず、あんなにも並はずれて活発な熱心さをもって自殺を排撃しているのには、何かしらその底に隠された理由がひそんでいるに違いないように思われる。その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宜うたあの方に対して余りに失礼な、というようなことではあるまいか。――もしそうとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発しているのである。” こう終わっています。この間、口を極めて神学者や僧侶を罵倒していると読みます。が、正しく読んでいるとは主張しません。それはともかく、ブログとの矛盾は予感しません。 2. >>宗教団体が、信者に自殺してはいけない どんなことがあっても生きろと義務を与えたわけでしょ? 後半のこれ以下は読後感が不鮮明で適切な返事ができません。 宗教と限らず「オイラの言うことを聞けば幸福になる」、「アタイの言うことを聞けば幸福になる」と給う説教好きな街の三文道学者は全て自殺を嫌悪・忌避するのが当然で、陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。私自身は、ましてや宗教家が自殺を嫌悪するのは必然の結果で、こんな理由で僧侶を攻撃するなんてアホカイナと思っています。今日の人間が、今日の宗教そのものを攻撃するなら理解できます。 焦点が結びませんが、取り急ぎ前半へのお答えのみ。

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     1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。  社会のナラハシとしての宗教を扱います。  2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞれみな 一神教でしかない。  3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信じることでしかない。  4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りませんが 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。すると だから 多神教となるか?  5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまとまって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け使い分けていることになります。  6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情況は 一神教の状態に同じです。  7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほかならない。  8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。  9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつくっているというに過ぎない。  いかに?

  • クウキ教たる一神教としての日本教をどうあつかうか

     たたき台です。自由に哲学としてたたいてください。  日本人にとっては ムラムラにおける自然との共生を生きる古くからの―- 一人ひとりにとっての――信仰が息づいていると見ます。生活の問題です。  ただしこれを基礎として 社会形態が国の家というごとく二階建ての構造となったときには それとしての民族宗教がつくられました。あるいはつまり 民族としてのひとつにまとまった神をまつる実質的に一神教が――空気のごとく――形成されてきた。  ムラびとたちは これに くにゆづりをした。ムラムラのマツリは お二階さんたちのマツリゴトによって吸収されるかたちを採った。ムラびとたちどうしのヨコの助け合い寄金が――あるいは神々とのタテの祀りの品が―― お上なる二階とのタテの関係(国家財政)の中へ吸収されて行った。  民族宗教とは 日本教であり 実質的にクウキ教である。  クウキによるコミュニケーションを 守るべきオシヘとする。  このわれらがシュウキョウを これから どうするか?  《クウキ教》は 守り遵うべきオシへの役割りをも帯びている。  しかも言葉としては何ごとにも・何ものにも精霊を感じてのようにおよそアニミズムとしての多くの神々をも持っていますが これ(クウキ教)は いわゆる多神教のままには留まっておらず そうではなく すでに――国家が出来てからは――あくまで《日本教》として一神教を成す。  ヒンドゥー教は その名もヒンドゥー=インドであるごとく多神を擁していてもそのまま全体として一神教としてのインド教です。よその神々を受け容れても 民族宗教としてまとまり 対外的には あたかも唯一神をいただくのと同じ振る舞いにおよびます。  ユダヤ教は 明らかに対外的にも対内的にも 唯一神をオシへとして共有する生活様式を形成する民族宗教です。  あるいは アマテラシテたる王をいただくイギリス教のごとく日本教は 対外的には一神教としてまとまった民族宗教です。その中にいろんな神々をよそからも受け容れているという――対内的には――多神教であったとしてもです。  この日本教=クウキ教には 神道をベースにして 仏教の諸仏を採り入れ そしてキリスト教の姉妹編としての唯物論教(つまり 無神論教)をもじゅうぶんに有益にはたらくかのような異端分子としてやはり採り入れています。  日本教・総本山   神道   仏教支部   儒教支部(?)   キリスト教支部   マルクス教支部   無神論教支部   《お花畑》平和教支部  護憲平和教派は さすがにキリスト教の神を持ち出すことはないようですが そのベースには同じ排他的な一神教の神(《無い神》)が祀られているかのようであり じゅうぶんにほかの多神と対立しつつも大きく日本教の一環として根を張ろうとしています。  日本人は 知らず知らずのうちに 宗教(じつは 信仰)への関心を育み生活を息づかせて来ており ただしそれがお二階からクウキ教の浸透によって絡め取られるときには いわゆる排他的な一神教としての民族宗教を形成するようになります。その中に入れば 排他的ではなく馴れ馴れしくなあなあ主義的になります。  ふるくからの個人個人にとっての信仰を保つ日本人は――第十代崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトやその時の市民オホタタネコをあたかも代表とするかのごとく《イリ歴史知性》たる日本人は 応神ホムダワケや雄略オホハツセワカタケルさらにあるいは継体ヲホドの《ヨセなる超歴史知性》によって《全国制覇大作戦なる雄略》を実行されて それに対して国ゆづりをしたとしても―― そのような宗教現象をなおただウワベのこととして その優勢に対して まさにくにゆづりをした出発点を保って生きて来ています。    それらの人たちは 宗教から・オシへを垂れるあらゆる宗教から 自由です。ユヅリアヒの生活を千五百年おくって来ています。(はっきりと二階建てとなって行った継体ヲホドの頃からと見ての時間です)。  いちどゆづったのだから 口が裂けても 返せとは――大政奉還せよとは――言えないであろうか。どうでしょう?  

  • 「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教

    「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教」・「キリスト教」・「イスラム教」は所謂「一神教」と言われている様ですが,「一神教」の正確な定義を教えて下さい。更に「一神教」と似た表現に「唯一神」・「単一神」・「拝一神」等が有るようですが,これらと「一神教」との基本的な違いも教えて下さい。次に「一神教の神」に関してお尋ねします。「ユダヤ教」の神(エホヴァ/ヤハベ/アドナイ等)「キリスト教」の神(God)及び「イスラム教」の神(アッラー)は同一の神なのでしょうか。併せて回答お願いします。以上宜しくお願いします。但し,宗教に関する質問をしますと,主観的な回答をされる方(と言うよりは寧ろ盲目的乃至「おたくっぽい」回答が多数)がいますが,是非信者以外の者でも理解しやすい客観的な回答をお願いします。

  • 《日本人は集団主義的》という通説は誤り!?

     次のような研究成果が明らかにされています。  明証にもとづくご見解・ご議論をさらに広い視野から得られればさいわいに思います。  ▲ 「日本人は集団主義的」という通説は誤り   http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html      ・高野陽太郎:『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 2008  §1 心理学的研究  「世界で最も個人主義的だ」と言われてきたアメリカ人と、「世界で最も集団主義的だ」と言われてきた日本人を比較した研究を集めた。  ・集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。  ・自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」に関する実験研究が(高野自身の研究も含めて)5件。  ・自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。  これら計22件の研究の結果をみると  ・通説に反して、「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、  ・通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。   ・一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。  § 2 言語学的研究   日本人論は、日本語の特性に注目して、「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と主張してきた。  これに対して、2人の言語学者(筑波大学の廣瀬幸生教授、カリフォルニア大学の長谷川葉子教授)による共同研究は、日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。  たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。  日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。  §3 教育学的研究   学校での「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多かった。  ところが、近年の実証的な研究を通覧したところ、アメリカでも「いじめ」は発生しており、発生率も日本より低いとは言えないことが明らかになった。学校での発砲事件も、「いじめ」への報復として起きたケースが多いのではないかと推定されている。  「いじめ」が原因となる自殺も、欧米諸国の多くで報告されている。したがって、日本の学校での「いじめ」は、「日本人の集団主義」の証拠と見なすことはできないことになる。  §4 経済学的研究   経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。   しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。  ・小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。  ・三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。  ・「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。  ・また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。   §5 エピソード   日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。  そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。  このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。  日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。  §6 過去の日本人   日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができたのである。  たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。こうした事件は、「和を尊重するタテ社会的な集団主義」という従来のイメージとは全く相容れないものである。  §7 オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説   欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。  §8 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由   この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。   しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。  §9 ステレオタイプ文化論  しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。  文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。  今回の研究は、集団主義・個人主義の日米比較という具体的な事例の分析を通じて、「文化差」の認識に潜在するさまざまな歪みとその危険性を明らかにする結果になった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 家族のように集団としてあることが自然本性そのままのすがたである場合や  (い) 事業をおこなうとき人びとの知恵とチカラをあつめまとめてそのように《集団志向》――言いかえると 《分業かつ同時に協業》なる形態――において行動する場合や  (う) あるいは単純に野球のようにチームプレイをふつうとするならやはり集団志向になる場合が考えられます。果たしてそのとき 個人はそこに埋没してしまうのでしょうか?  (え) あるいは逆に戦時社会にあっては 集団主義をすでに超えて統一的かつ統制的な全体主義となりますが その事例も 別に日本人ひとりの特徴だとは考えられないということもあります。  日本人とその社会が 《集団志向》を持ち得るのとは別に 《集団主義》であると見るのは まったくの偏見ではないだろうか? ご教示ください。

  • 一神教と共産主義って何が違うんですか?

    私はどちらにも傾倒してませんが、キリスト教・イスラム教・戦前~戦中の国家神道・共産主義…思考・言動・行動を見てると「そっくり」としか思えません。 一神教と共産主義って何が違うんですか?

  • イルミナティ・金融ユダヤ・ロスチャイルド

    イルミナティ・金融ユダヤらの常套手段は次のようなものでよろしいでしょうか。 二つの敵対する勢力を自ら作り上げ(代表例が欧米自由主義圏とソ連・東欧共産主義圏)、軍産複合体などが大儲けし、世界支配を強める アメとムチ方式で、仲間になりミッションを成功させた者には壮大な報奨金などを渡して安全を保障し、裏切って内部告発したり内部情報を調べ上げ暴露したりフリーエネルギーなどの研究開発をしたり非常に不都合な人物らは暗殺したり冤罪投獄したりデマを流して社会的信用を失墜させたりする。 マッチポンプ式で、表向き赤十字や国連機関や世界銀行などを設立してさも世界に貢献しているように見せかける一方で、 戦争や紛争や内乱や自作自演テロや人工地震や人工気象災害や金融危機や世界恐恐やバブルとバブル崩壊や詐欺商法で大儲けなどを引き起こして、政府らのいう事を聞かせたり人口削減を行ったり、莫大な大金を稼いだりして、世界支配を強める。 裏では、地球製UFO、瞬間移動装置、地下都市・基地、地下トンネル網、火星基地、ハープ、人工地震を起こす技術、超能力、マインドコントロール、マイクロチップなどを埋め込んでのロボット化、若返りバイオテクノロジー、癌やエイズやウィルスなどを防ぐ薬、などのテクノロジーを研究・開発・実用化している。 欧米日韓などの政府や政党や行政機関や大企業や経済団体やマスコミや石油メジャーや原子力メジャーや穀物メジャーやコンピュータ関連産業や軍事産業やバチカン・カトリックなどの大宗教団体やフリーメイソンなども支配している。 軍事、エネルギー、穀物、飲料、バイオ関連産業などを独占しているから、いつでも穀物などの輸出をストップさせどこかの国民も飢えさせる事が出来る。

  • ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

    私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。

  • なぜ日本が一位なんでしょうか??

    情報によると_ 自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)では先進国G7諸国中で日本が1位、 OECD加盟国ではハンガリーが1位となっている。 国別の自殺率上位10か国中、日本以外はすべて東欧・旧ソ連の旧社会主義国であり、 旧西側諸国の間では日本が1位である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 世界で最も恵まれた国で自殺が多いのでしょうか? 無宗教、無心論者が多いせい?

  • 「無」への回帰を目指す宗教

    キリスト教が千年王国の建設を目指し、ユダヤ教が世界滅亡後のユダヤ人だけの新世界を目指す様に、現世の争いやしがらみを一切断ち、平和な「無」への回帰、を目指す宗教(もしくは政治主義・団体)は存在するのでしょうか。仏教的な「心の無」ではなく、宇宙誕生以前のような、善も無いが悪も一切無い、完全な「無」です。 架空の存在としては、新世紀エヴァンゲリオンに出てくる「ゼーレ」があります。この組織は、人々の欠けた心を補完する為、すべての人間をLCLという液体に還元し、「個人」の枠を取り払い、心をひとつにすることを目指しました。 ちなみに私自信がこのような破滅願望を持っているのではなく、ただ好奇心から質問させて頂きました。長文失礼しました。回答よろしくお願いします。

  • ・・日本の反ユダヤ主義って・・?

    先日大学の講義で「開国した後、西洋文化の移入と共に反ユダヤ主義が日本で急速に広まった」という話を聞きました。しかし当時ユダヤ人が日本に移民してきたというデータは無いし、その後もユダヤ人が日本で何かしようとしたことなんてないようです。それなのにどうして反ユダヤ主義が日本で広がったのでしょうか?何かの政策でしょうか?ご存じの方、教えて頂けると助かります><