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偽善は何故「悪である」のか?そうなら一体どうしろと言うの?

阿加井 凛悟(@neutral)の回答

回答No.32

こんばんは。 回答の前に少しの余談です。 インドでは善をほどこしたほうが「ありがとうございます」 と頭を下げるのだそうです。 「善をほどこす」機会を与えられ、 「善をほどこす」ことを「ささえていただいた」 ということに、感謝するのでしょうね。 ここで少し考えてみたいのですが、 「善をほどこす」というのが、 自分以外の人間「だけ」のため、ということは あり得ないと思うのですがいかがでしょうか。 お金をもらって動いている「プロ」ではない限り、 その「動いている」は「自分が」「満足する」ためでもあると思うのですが。 それでは回答に入ります。 >偽善は何故「悪である」のか? :偽善というのは、 感情や思考と、発する言葉や言動が一致していない という状態で行われる善、ということになります。 ウソをついている、ということですね。 なぜウソをつくのかというと、 「何か」から自分を守るため、だと思うのですが、 その「何か」というのが何なのか、というと、 「自分」なんじゃないかと思います。 で、「自分」というのは何なのか、というと、 なぜか生まれて、 いろんな人や組織(学校とか会社とか国とか)の影響を受けて、 変化しつつ、形成されてきた生き物、 周りの環境に服従すると同時に庇護されつつ、 形成された生き物、なのではないかと思います。 少し話を戻します。 「何か」から自分を守るため、ではないかというお話をしたのですが、 その「何か」というのは、 「自分」であると同時に「他人」である、ということにもなりそうですね。 ところで、 自分が受ける害を減らし、自分の受ける益を増やし、 自分が受ける損を減らし、自分の受ける得を増やしたい、 生きやすく生きたい、快適に生きたい、 これは当然のことなので、 そのために自分の欲求と妥協して、 自分や他人にある程度のウソをつく、 というのも「自分が必要としていること」なのですが、 それは「いけないことである」と学習しすぎたとき、 本心とマッチしない自分の言動に「悪」を感じるのではないですか? そして「悪」を持っていることを「いけないことである」と学習しすぎて、 「悪」を持っていたら生きていけない、と学習しすぎてしまった場合、 偽善はその人にとって「してはいけないこと」になるのでしょうね。 このとき、どうして「してはいけないこと」だと感じるのかというと、 やはり「自分を守るため」、 「自分」および「他人」から自分をではないかと思うのですが。 どうしたらよいのですか、ということでしたね。 「偽」を、当たり前に持っている自分を、 堂々と眺めることに耐えられるくらいの精神力を持ち、 自分、つまり他人に温かいまなざしを送る余裕を持つ、 ということになると思います。 そのために必要なのは、 最初に、自分が、安心・満足・幸福を当たり前に求め、 求めたものを手に入れる、ということではないかと思います。

noname#68602
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 情けは人のためならずですね。人を利することだけを考えよは難しいかもしれません。 快適に生きたく自分を守るための欺瞞、でもそれを悪いと考える。 本心とマッチしない自分の言動、嘘を吐くのは悪か?に似ていますね。 例え悪と認識してもそれを受け入れれば良いんですね。 それには心の余裕なのかな。

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