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マルクス主義は キリスト教の自力・難行道だったか

 次の仮説を思いつきました。ご見解を述べてください。  個人にとってのキリスト信仰が 教義化して集団としてのキリスト教となったあと デカルトだか誰だか知りませんが 理性の内に教義を摂り込み 理論として 精神なる神を抱くようになった。唯心論なわけです。  これに対して 心は 質料(モノ)の反映であり 脳におけるその翻訳であるに過ぎないと見るなら 唯物論に行き着くようです。  理性信仰も 唯物史観も どちらも エデンの園の更新版として 新しい天と新しい地 あるいは 共産主義社会を それぞれ 思い描いたのだと思われます。  だとすれば 片や 個人の信仰のときの 絶対他力〔のもとにおける自助努力〕を引いて 他力・易行道(極楽浄土の浄土門)に相当し 片や 《科学的な》楽園を 自力・難行道(聖道門)によって 歴史的に 目指す恰好であると捉えられます。前者において プロテスタントの職業倫理は 自助努力の要素を重視し 自力道に転じたかも知れません。(ただし 楽園ないし天国にかんしては やはり 他力であるだろう)。  言ってみれば 単なる図式なのですが ご見解をおしえてください。  * いくらか つけ足しを思いつきました。  (1)ブッディスムは 主に個人の解脱を目指していて 社会のあり方を あまり問わないとすれば 筋が違うと言わなければならないかも知れない。  (2)日本人は 楽園から新しい楽園へという直線的な史観によっている要素が 少ない。この図式を 個人の信仰(もしくは いつもは 放っておいてある信仰)のもとに 飲み込むことができる。のではないか。   ――これらで よいかどうかなど おしえてください。

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  • HANANOKEIJ
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回答No.14

肝心なことを書く前に、「なまごみ」を出して、朝食を食べました。 山本宣治の伝記、映画を見たことがあります。クリスチャンとマルクス主義は、思ったほど距離が離れていないようです。 仏教の知識がないので、なんともいえませんが、地球、世界、日本の大問題に直面したとき、「神」を信じるものも、信じないものも、手をとりあって問題解決に取り組みたいものです。 NHKご近所の底力、という番組ではありませんが、問題は、いつも現場で、具体的に起きています。ということは、解決できるのです。 エデンの園を知りません。訪れた人が、「まるでエデンの園のようだ」といわれる場所が、日本にもたくさんあるでしょう。そこには、懐かしい日本人がいて、温かくもてなしてくれるのでしょう。 最近、テレビをぼんやりみていると、「エデンの園」みたいな場所と人々がたくさん紹介されています。人々がそれをのぞんでいるのでしょうね。 実は、自分の住んでいる村や町が「エデンの園」なのかもしれません。 「りんご」も象徴的ですね。青森県の木村さんのりんごは、腐らないそうです。生きたままドライフラワーみたいに芳香を放ちつづけるそうです。 残暑がおだやかになることを祈っています。

noname#80116
質問者

補足

 HANANOKEIJさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  山本宣治のことは 知りませんでした。戦前の言論活動には 狂気という要素を見ないことには 受け容れられないことが 多いようです。いま どれだけ 尾を引いているかにもなりますが。  桃源郷は 忘れてください。出したことは それが 一人歩きすることは 本意ではありません。  わたしは マルクス主義者であったことは 勇気がなかったからか 能天気だったからか(こちらだと思っていますが) ありません。どれだけ蔑まされようと 二十一・二十二歳あたりから 勉強し始めました。掛け値無しです。でも マルクスは いいことを言っています。たとえば  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    結局のところ 市民社会の成員としての人間(* つまり スサノヲ市民)が 本来の人間とみなされ 公民 citoyen (* アマテラス公民)とは区別された人間 homme とみなされる。   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      したがって わたし( bragelone )は      《スサノヲ人間語》 と 《アマテラス普遍概念語》    とを 区別しました。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なぜなら 政治的人間(* アマテラス族)が ただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    つまり アマテラス普遍概念にもとづこうとして 出来るわけの   ない客観的で模範的な公的人間たろうとした。そのアマテラス人で   あるのに対して   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  現実の人間は 利己的な個人の姿においてはじめて認められ 真の人間は 抽象的な公民の姿においてはじめて認められるのである。  (K.マルクス:《ユダヤ人問題によせて》 城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というような趣旨に受けとめ得るかなと思われることを おっしゃっているものと思いました。(最後の一文の中の《真の〔人間〕》という言葉の意味については 議論の余地があるでしょうね)。  こちらでは プラスチック・ガラス瓶・金属缶類の分別にはやかましいですが なまごみとその他燃やしていいごみとは まだ 分別しなくていいようです。  わたしは 何もしないたたかいを通じて――インタナショナルな井戸端会議をつうじて―― いつの日か 無血名誉革命が成ることを祈っています。

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その他の回答 (20)

回答No.10

 いまさらいうまでもなく、自分の真意に忠実であり誠実であり、且つ、相手との対話において全体として誠実であってきました。ごまかしがないし、誠実であってきました。  自分に対する誠実を超えて自分をだまして(ということばではないが)までも、譲歩してきました。いまさらいうまでもなく。  いろいろありがとうございました。

noname#80116
質問者

お礼

 認識が ちがいます。  ごまかしていますね。  百年くらいあとにまた。

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回答No.9

 真意はお伝えしました。何もいうことはありません。  ごまかしはありません。これでさよならです。

noname#80116
質問者

お礼

 はじめから分かっていました。  自分の真意に忠実であり誠実であるのと 相手との対話において 全体として 誠実であるのとでは 微妙に違います。  ごまかしがないから 誠実であったかという問題です。  わたしは 自分に対する誠実を超えて 自分をだましてまでも 譲歩しまくりました。という問題です。

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回答No.8

 そういうことはいっていません。  善意の応援エールがそうとしか理解できないのはおかしいよ。  いい加減にしなさい。  言った本人がその真意を言葉を尽くして説明しているのだから、双理解すればいいのです。何がおかしいのか。  あの方の仰せは私はその通りだと存じますよ。そしてあの方がbrageloneの文章の特徴や難解さを指摘していることにも、その通りと存じますよ。ちゃんと理解しておりますよ。  その話の流れが主題となる前に、私はbrageloneさんへのエールとして、先の挨拶をしたのですよ。いい加減にしなさい。ばかばかしいですね。言った本人がこういう意味ですと、いっているのだから、あぁそうですか、といやありがとう御座いますという、言葉がつづくべきでありましょう。私のリズムと流れはこのとおりですよ。  お互いのリズムと流れが食い違っていただけでしょう。  そしてあの方のお話はよく分かるし、賛成してますよ。 ★★ 賛意でも、不賛意でもないのですよ。 は、この一連のことでとやこういうbrageloneさんへの話にどちらも表明しない、ってことです。ばかばかしいということです。それだけ。  表明をしないということです。表明する意味がないということ、それだけ。

noname#80116
質問者

お礼

 一連のやり取りとして ごあいさつを抜きにします。  共通の理解が得られていない点。  1.《あの人間》は 折口信夫について 学術論文としては 審査で はねられると述べ その点について わたしの見解と同じようだと言ったのです。難解さの問題ではありません。  2.《エール》の最初のこころづもりが どうであったにせよ その後のやり取りが おかしい。一つだけ挙げると  ○ 《〈長いものには巻かれなさい〉という意味ですか》とのわたしの推測による問い合わせに対して 《そんなことは言っていません》と答えた。これは おかしい。何もなければ 《然り》か《否》かで答えるはづ。  3.《巻かれろ》問題について 明確にしておかないと いづれ 何度も この問題で 座礁するでしょう。つまり まともに答えないで 突然 《健康でいろよ》という文句が出て来て いったい どうなっているんだとなります。

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回答No.7

 ☆わたしの見解と対立するほかの人の見解に賛同しながら そのわたしに 健康を祈ると 回答の本体そのものとして 述べるのは 常軌を逸しています。  krya1998⇒brageloneさんのつなげ方が間違いです。誤解です。脈絡の受け取り方が違います。そういう流れの中では申し上げていないでしょう。少なくとも、この言葉の初出においては。何と何をつなげるかを誤解しないでください。  もうこのことはこれで終了しますよ。話のほかです。

noname#80116
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★★ 賛意でも、不賛意でもないのですよ。  ☆ と 最後にも 明らかにしている一連の言説において 最初の心づもりがどうであったにせよ 質問の内容から外れ 応答の流れとは別に 《健康に注意せよ》と言明していることは どこから見ても おかしい。  やっと 他の人間の投稿内容をしっかりと把握していないがゆえに つまり 単なる雰囲気で その投稿内容に賛意を表明しているがゆえに 起きたものだと分かりましたが その後の対応に つじつまが合わないと考えます。  《おまえの見解には賛意を持たない。元気でいろよ》と言っています。

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回答No.6

 継続は力なり、とかいうそうですが。あまり好きなことばではないが。  その言葉の前に、たくさんの有為の、すばらしい才能、優秀な友人や先輩がおられて、レベルの違いをみせられていました。というフレーズがあったと存じます。  彼らは意欲的に活動し、今もその後輩や関係者は彼らの逝った年齢よりを20年も、25年も長く生きているのに、彼らの徳、意気、気持ちを慕い、懐かしみ、その灯火を掲げ続けています。  彼らの逝ったときには、とても私も今よりとても幼稚で、想起すると、その未熟さに恥ずかしいくらいですが、25年も彼らより長く生きてきて、当時の私を振り返ることも出来ています。恥ずかしさとともに。  これは許された時間があったこと、そしてまた、健康で環境も許してくれたことによります。    すこしでも進歩をしていくことが大事だ。  そのためにはこれからも長寿で健康でありたい。そういう思いをもっています。  brageloneさんもどうか、いろいろのいいことの経験と積み重ねのためにも、そして自己の来た道を振り返ることができますように、僭越ながら、ご健康にご留意され、ご長寿であられますように、お祈りします。  私も思わぬことを気づけ、眼前に更なる啓けの機会を得てきているのは時間を許された恵みのおかげです。  brageloneさんのご誠実で、おまじめなご対応に、こんな、極くなんともないことですが、心よりお祈りしたつもりです。  誰でもがする常套な台詞ではありますが、自分は心より願ったつもりです。  決して唐突でもないし、誤解もされるはずもないし、理解されないこともないとぞんじておりましたが。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご投稿をありがとうございます。  わたしの見解と対立するほかの人の見解に賛同しながら そのわたしに 健康を祈ると 回答の本体そのものとして 述べるのは 常軌を逸しています。    

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回答No.5

 brageloneさん  人は楽天的であってちょうどいいのです。徹底的に楽天的で、楽天的過ぎることはないという私の結論です。  痛いこと、つらいこと、醜いこと、いやなことは、苦痛でいやですから目立っています。  しかし本当にあるのはとてもいいことが基本で全部ですし、基盤で、大洋自体です。  いやなことはちょいと目立つ、感じる波に過ぎません。何事もないのです。あると思うものは結局そのときの突出でしかない。  それはその下に大きな基盤があるから、一時的に現象しているに過ぎない突出です。のだと私は思っています。いいことは本体で、全部で、自分でそして大本で、当たり前ですから気が付かない。健康を気づくのは病み上がりでしょう。  気持ちがいいとか、幸せなどは自分がそれ自身であるから、存在であるから気づけない。これが宇宙の本体なのでしょうね。  こだわりを大切にしても、こだわらないことが大切ですよ。  ☆人間としての誠実 / 日本人の良心性 これらの言葉を発言するには 十年早いのとちがいますか。 krya1998⇒いつもちょうどいいときです。そのときそのときに≪人間としての誠実 / 日本人の良心性≫が発揮され、存在の基盤になっていることに自信を持つべきです。  つまらないことをあげつらい、勝手に不満や問題をとやこういっている閑はないのです。謙虚に、大いなるものを尊崇し、反省し、感謝し尊敬し、信頼と愛。それに至らないで邁進している気持ちと、≪人間としての誠実 / 日本人の良心性≫の発揮と、それが存在の基盤となっていることの確信と自信は持っていることが必要です。そうでなければ私たちはとうの昔に、こうしてはいられないでしょう。自分を気づくことは欠点も、基盤も難しいですね。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご投稿をありがとうございます。  というところへ いきなり  ○ ご長寿で ご健勝にて  ★ という返答を受けたら どう対応されますか。

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noname#117439
noname#117439
回答No.4

primeapeです。 私は38歳ですがこの年代になると共産主義、社会主義体制の情熱を知りません。(立ち会っていません) 思い出すのは中高の社会科の先生方の人間臭い情熱の語り方。 冷戦の恐怖と言うよりも閉塞感。 ニュースで見ただけの社会主義帝国崩壊の世界秩序の激変。 日本の社会党のそらぞらしさ。 北朝鮮の崩壊作用すら破産した極度の疲労。 無邪気に直感的に神の不在のまま調和を演出しようとしたから失敗したのだと思います。 経済の研究じゃなくて自然の摂理の研究なら似たような理想を描いても成功したかもしれませんが無責任に思いついただけです。 今回はお役に立てなくて申し訳ありません。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  体験の話ということであれば わたしには マルクス主義の《情熱》を肌で感じたことは 少ないです。わたし自身が 経験したこともありません。  大学では 社研(社会主義研究会)という部活動があって 誘われましたが こちらが 能天気なので 説得を 諦めたようです。級友ですので 友だちと呼べる関係でいますが。  まして 高校では 分かりませんでした。  ★ 思い出すのは中高の社会科の先生方の人間臭い情熱の語り方。  ☆ こういう雰囲気さえ いっさい ありませんでした。(めづらしいかも知れません)。  ★ 日本の社会党のそらぞらしさ。  ☆ これは――わたしも あとになって 理解したのですが―― 確信犯だと思います。自民党とつるんでいると意味です。また そうおっしゃっているのだとは思います。  それにしても ソ連は よくぞ 崩壊してくれましたね。ということは 逆に裏返せば 国家どうしの競争が まだ つづいているということかも知れません。  じつは――あとで 気づいたのですが―― この質問は やはりブッディスム批判なのです。  ★ 無邪気に直感的に神の不在のまま調和を演出しようとしたから失敗したのだと思います。  ☆ とおっしゃるとき ブッディスムは 社会的には 理論としての直接には 《調和を演出しよう》ともしないで 極楽往生を掲げつづけているという《そらぞらしさ》を引きずっています。縁起=空観に見るべきものはありますが それが 生かされているとは思えません。幻想につつむ形で お勉強している。もしくは 社会じたいの幻想・つまりブッディスムにとっては外側の幻想につつまれて 生き長らえている。  というふうにも 思いました。この場をお借りしました。

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回答No.3

 ☆時系列~~  ◎何もなかったと存じますし、装おう必要もまったくありませんよ。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  ★★ 人間としての誠実 / 日本人の良心性  ☆ これらの言葉を発言するには 十年早いのとちがいますか。

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回答No.2

 brageloneさん  私も、58年も前、中学(男子ばかりの中高)のとき、東大新卒の社会科の先生に、君は多喜二を次の次の時間にレポートしてくれ、蟹工船と党生活者を読んだ感想でいいといわれ、読みました。  すごいショックでした。そしてこれは信仰ではないだろうかと、思い、ずぅっと後を追いました。  新婚のその先生の家に上級生が誘ってくれて、そこでもそんな話が出ました。  使命感ということばもあり、意気、志向、ということばもあります。  そういうみんなへの愛、国民愛、社会愛というのもあるのだと存じました。  その後時系列はは前後しますが、やいろんな啓蒙的理論家の本、60年安保の前には民青の会合でもいろんな講師のお話がありましたが、やはりこの思いは払拭できませんでした。  マルクシズムの発生は或いは、そういう宗教的なものの裏返しかもしれませんが、私の経験では同じように良心的な人たちが参加してきているところは、何か神に誠実を尽くすキリスト教の組織に近いかなとも思いましたが、キリスト教の論理や教え、思想とは繋がりはないようでした。  人間としての誠実さは同じでしたが、思想という意味では繋がってはいない。  日本人の良心性を両者に感じております。  今ラディカル(前衛)の応援と指示、協力はしておりますが、皆さん良心ということは感じますが、信仰には非同情的です。もちろん尊重はしております。それだけです。理論性を大事にされていますので、信仰に対しては距離をもっておりますし、つながりはないとされています。  私もそう思います。人間として、日本人として、きちんとやりたい、ということは、クリスチャンの多くの友人とまったく同じです。  理論は繋がっていないで、人間の質が共通なのではないですか。  両方とも献身的なんですよ。多喜二などは何か信仰者、被迫害者みたいですが、権威を警戒するのではないですか。バッハなどほジャーんというパイプ・オルガンやあの雰囲気には警戒しておりますが。  単なる経験的感想で申し訳ありません。

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  わたしは バッハが好きです。  そして 時系列を大切にします。過去の時系列を 何もなかったかのごとく装って 新しくお話をすすめるわけには まいりません。  ご投稿いただきありがとうございました。

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noname#194289
noname#194289
回答No.1

ずれるかもしれませんが、ココロとモノの関係は養老孟司さんの唯脳論にあるように結構難しいもののようです。マルクスはココロ(個人の幸福感)を阻害するモノ(社会的構造)から自由にすべきだと考えていたのではないでしょうか。しかしこの考えはあらゆる個人がモノから自由になれるほど豊かなココロを持っていないと成り立たないと思います。いわゆる一般庶民は、それほど豊かなココロを持っていないというのが現実だと思います。ソビエト連邦の崩壊はマルクス主義の敗北ではなくマルクス主義を利用した帝国主義の崩壊であったと思いますが、オカネによる帝国主義的支配は核兵器によるものよりはるかに危険な状況を生み出していると思います。マルクス主義はオカネとの対決において重要な意味があると思います。

noname#80116
質問者

補足

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。  この質問については 焦点を絞っていると思っていますが 広い視野から 批評をいただいたと思います。むつかしい場合は 批判をぶつけます。  ★ ココロとモノの関係は養老孟司さんの唯脳論にあるように結構難しいもののようです。  ☆ この一文だけで 独立して 質問になると思います。残念ながら 養老孟司の理論を知らないのです。(ちょい知りで言えば おかしいと思っています)。たとえばモノと所有主との結びつきは 必然ではありません。その意味で モノは そのあり方として 人に対して 自由であり平等だと言えるかも知れません。そういう意味で 養老の思想は 質料(モノ)主義ではないかとにらんでいます。ですが 難しいと思います。  ★ マルクスはココロ(個人の幸福感)を阻害するモノ(社会的構造)から自由にすべきだと考えていたのではないでしょうか。  ☆ 上に述べた思考形式から行けば モノは 人のココロにとって 中立である。そのことの実現を 経済制度や社会構造において 図ろうとしたのでしょうね。  ★ しかしこの考えはあらゆる個人がモノから自由になれるほど豊かなココロを持っていないと成り立たないと思います。いわゆる一般庶民は、それほど豊かなココロを持っていないというのが現実だと思います。  ☆ これは どうでしょう。唯物論(質料主義)から行けば ココロの関与する場は ない。もしくは あくまで モノの情況を先に整備すべきだという考えになるでしょうし。そうでなければ 煮詰めた形で言って 人間の自然本性に 信頼を置いて 出発するということではないでしょうか。人は生まれつき 平等である。この公理を根拠にすると思います。つまり 《あらゆる個人がモノから自由になれるほど豊かなココロを持って》いるという大前提を置くと考えられませんか。  ★ いわゆる一般庶民は、それほど豊かなココロを持っていないというのが現実だと思います。  ☆ たぶん えらい人は 豊かなココロを持っているという見せかけが上手なのだと思います。  ★ ソビエト連邦の崩壊はマルクス主義の敗北ではなくマルクス主義を利用した帝国主義の崩壊であったと思いますが、オカネによる帝国主義的支配は核兵器によるものよりはるかに危険な状況を生み出していると思います。  ☆ あまりにも大きい課題ですが 考えをぶつけ合う形を採ります。マルクス主義は 次の問題をかかえていると考えます。(1)モノをめぐる平等を実現するためには その前に不平等の現実があるので これを 打ち破るためには 暴力を止むを得ないとする政治革命が必然だとする。(2)その限りででも ココロを無視してよいという傾向がある。(3)その限りで みづからの経験科学と思想とが 唯一絶対のものだと思い込む傾向がある。(4)つまり 個人の信教の自由を踏みにじる。  (あ)ソ連の問題 (い)帝国主義の問題 (う)資本(オカネ)の力の問題 これらについては いま 手が出ません。  ★ マルクス主義はオカネとの対決において重要な意味があると思います。  ☆ オカネによって 人や社会をあやつるという場合 その〔あやつる〕人の自由意志つまりココロをも その存在という意味では 無条件に認め合わなければならないと考えます。言論・思想による説得が 肝心だと思います。   おそらく 目指す先は 同じところを見ようとしているのではないでしょうか。そのためにも いぢわる返答をしました。

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    1959年から46年いた大学では労組の書記長を長くしていました。60年安保の時代ですね。 当然ラディカル革新で唯物史観。反信仰。 しかしある人との個人的邂逅から30年ほど前からヒンドゥ系統の宗教というか信仰を精進努力しています。 無論、マザーセンターからの文書や出版物は勉強します。 私は納得し同感しています。 そして感想ですが:実はこの世の事柄や科学や学問での実証はないと存じます。 でも納得。 信仰や宗教って事実や知性に根拠を求めないのではないでしょうか?

  • 〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

    私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。  もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。  そこで、皆さんにお尋ねします。 【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか? 【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか? 【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか? 【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか? 【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?  以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

このQ&Aのポイント
  • MFC-J5910CDWのインクを交換したのに、表示されるインクの残量が十分ではないというトラブルについて相談します。
  • インクを交換した後にコンセントを抜いてみましたが、状況は変わりませんでした。
  • 使用している環境はWindows10で、接続はUSBです。関連するソフトやアプリはありません。電話回線の種類については記載がありません。
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